アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

直感と明証性

原理的に直感可能な世界としての生活世界ー原理的に非直感的な「論理的」構築としての「客観的に真の」世界(フッサール)

例えば三角定規という具体的存在は、つまり生活世界に属する三角定規という存在は、具体的に直感し、現実に経験出来ますが、純粋に真の三角形は理論的で理念的なものであり、具体的に直感したり現実に経験することは出来ません。

哲学とは、つまりは生活世界の改善でしょうか!
多くの人は、貧相または劣悪な生活世界に生きていて、これは現実的に豊かな生活をしているかにかかわらず、精神的領域の問題です。

フッサールの言う生活世界とは、具体的に直感可能で、現実に体験可能な領域です。
そして人はその領域を広げたり深めたりすることが可能であり、また狭い中に閉じこもったり、奥深くに引っ込むことも出来ます。

人は生活世界から逃れることは出来ませんが、「現在の生活世界」から「新しい生活世界」へと逃れることは出来ます。

生活世界とは人間の精神的な身体で、そう考えると物理的な肉体とは異なり、アメーバのように不定形で、伸縮可能なものとしてイメージ出来ます。

生活世界とは、自分の精神的な身体そのもので、そう考えると物理的な肉体とは異なり、いかようにも変形したり、拡大縮小することも出来ます。
もちろん変形には限界があり、変えようもなく固定的な部位も多く含まれますが、原理的には全てが変形可能です。

フッサールの言う生活世界とは根源的な明証性の領域で、哲学を学ぶと、その明証性のあり方が変わるのです。

明証的に与えられたものは、それぞれの仕方で、知覚において「それ自身」として直接に経験されたものであるか、あるいは記憶においてそれ自身として想起されたものである。(フッサール)

この領域に属する全ての間接認識、広く言えば帰納の全ての仕方は、直感しうるものの帰納という意味、すなわち場合によってはそれ自身として知覚しうるもの、という意味を持っている。(フッサール)

あらゆる考えられうる確証は、これらの様式の明証的に帰着する。なぜなら(それぞれの様式)の「それ自身」はこのような直感の中に、相互主観的に現実に経験できるし、また確証できるのであって、決して思想的構築物ではないからである。(フッサール)

「それ自身」として直感的に知覚しうるものの種類とその関係性を変更するのが哲学ではないでしょうか。
例えば「生活世界」という概念について、理論的構築物として理解するだけでは哲学にはならないのです。

哲学とは直感的に認識できる対象の拡大、深化、細分化、ではないでしょうか⁈

強固で不変の生活世界を基盤にする人が「素朴な人」です。

観客席に座りながら舞台を観るように、不変の生活世界を基盤にしながら哲学書を読む人は、どれだけの知性を誇ろうとも、素朴な人です。

素朴な人は、強固で不変の生活世界を基盤とした高度な知性を持っています。

多くの人は、生活世界の明証性の不足を埋め合わせるため、空想や理論を語るのでしょうか?

明証的な生活世界には、一方では至る所に明証的でない「穴」が空いています。
多くの人はこの穴を空想や理屈で塞ぎますが、これをあくまで明証性で埋め尽くそうと意思するのが、哲学なのでしょうか?

空想や理屈を語る人は、明証性を拡大したり深化させようとはしません。

空想や理屈をいくら重ねても明証性を変えることは出来ません。現実に体験したり行動することによってのみ明証性は変わります。

明証性は変化させることが出来ます。つまり自分にとって何が明証なのかは、現実の体験を通じて、あるいは新たな知識を得ることで、変化させることが出来ます。