アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

ディオと哲学

私は今のところ目に見える対象の存在が疑い得ると「理屈で理解」してますが「直感的には疑い得ない」として感じてます。しかし現象学としての認識は逆で、目に見える対象の存在は「直感として疑い得る」のであり、その存在がありありと感じられるのは「様々な説明により理解」してるからとされてます。

目に見える対象の存在が疑い得る根拠として、私は目に見えるものは平面の網膜像であり、人は立体を直接認識できない、という説明をしてました。ところがフッサールによると、そのような「科学的説明」は自然的反省に過ぎず、物事を真に疑うための根拠にならないと戒めているのです。

そもそも何の科学知識もない古代からブッダもソクラテスも目に見える対象物が、目に見えるからといって確実に存在するとは言えないことに気付いていたのです。ですので現象学的認識は、科学的成果とは無関係に成立するのであり、だからこそ哲学は科学をはじめとするあらゆる学問分野の基礎となるのです。

哲学を学べば人は超人になり超能力が手に入るッ!この事を大衆は実は知っているのであり、同時にこれを神話や伝説に置き換えるのです。『ジョジョの奇妙な冒険』の石仮面とディオも、それを表しています。ディオは「俺は人間をやめるぞ!」と言って石仮面を被り、人を超えた吸血鬼へと変身します。

ディオが被った石仮面からは人の血を浴びた「骨針」が飛び出し、それが脳に突き刺さる事によって人間の新たな能力を開花させ、それによって人を超えた吸血鬼になる…私が今読んでる『現象学の理念』もまさに骨針となって脳の奥深くへと突き刺さりこれまでに経験したことのない強い刺激を与えるのです。

しかし漫画と現実が異なるのは、人間の頭は非常に硬く、『現象学の理念』という石仮面の骨針を、ことごとく跳ね返してしまうのです。漫画のように石仮面を被ったからと言って、人は簡単に人をやめて超人になり超能力を得ることはできないのです。

最近の私はともかく『現象学の理念』に対しじっくり取り組む事にしてますが、そうすると石仮面の骨針的なものが脳の奥のこれまで何にも触られることのなかった部位にまでズブズブと突き刺さり、実に気持ちが悪くなる。しかし私はすっかり行き詰まっており、新しく強大なパワーを求めているのです。

つまり、ディオはジョショに実力で押されて行き詰まり、それで「石仮面の力」を欲したのです。そして吸血鬼となったディオに押されたジョジョは行き詰まり、波紋の力を必要としたのです。そして、アーティストとして行き詰まった私もパワーが欲しい!そこで哲学、そして現象学なのです!!