アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

芸術とデザイン

芸術とデザインの違い、というものが自分にはよくわかっていなかったのだが、芸術とデザインでは「善」のあり方が異なっている。デザイン的な善とは「隣人愛」であり、その場合の隣人とは「目の前に存在する具体的隣人」を指すのであり、普遍的な意味での隣人ではない。

芸術とデザインでは「普遍」のあり方も異なっている。デザイン的な普遍とは「隣人愛」であり、隣人愛そのものに普遍性はあるが、「隣人」そのものは目の前の具体的で個別的な隣人を指すのであり、そこに普遍性はない。

デザインというものは、目の前の具体的で個別的な隣人からの「距離」によって成立する。いやそうではなく、そもそも民衆というものが、お互いに目の前の具体的で個別的な者同士で距離を調整しながら相対的に存在している。その関係の中にデザインも存在している。

デザインの卓越性とは、民衆が認識するところの卓越性の反映である。そして、民衆の中において卓越したと言える人物が、確かに存在する。民衆の中で卓越した人物とは、例えば周囲に対する気配りが行き届いていて、そのための大変に高い能力を有している、まるで天使のように良い人がそれである。

『芸術への道』抜き書き3

●芸術家には「材料への感覚」が要求されるわけで、この感覚の鈍い芸術家は、選択した材料を的確に使用することは出来ないし、それを作品の全体性に有効に活かすことはとうてい出来ない。#芸術への道

芸術はいつもその意味内容のためにこそ成り立って来たのであり、これに較べれば形式上の特徴などはすべて色褪せてしまう。表面に現われた美学的な質は作者にとっても、また作品の依頼主にとっても決して第一目的ではなかったし、また究極的目的でもなかった。#芸術への道

モチーフは、造形的に形づくられて初めてその重要な意義を獲得するのであって、それ自身では切り出したままの大理石片と同じ単なる材料でしかない。決定的なのは芸術家がそれから何を創り出すかと言うことである。#芸術への道

偉大なモチーフは必ずしも偉大な芸術を保証しない。偉大なモチーフがそのまま実現されるためには、非凡な形式表象が要求されるのである。#芸術への道

モチーフに生命を与えるのはただフォルムだけである。#芸術への道

一八九一年に没した文化史家グレゴロヴィウスは、歴史家の種類を二通りに分類して、その場に居合せた歴史家と、居合せなかった歴史家とに区別しているが、この画家レッシングは、言ってみれば臨場しなかった歴史家であり、それ故に単なる見せ物しか描けなかったわけである。#芸術への道

美術史の中でモチーフは最重要な意味を担っている。そしてその意味はフォルムの力によって初めて有効になる。そこで、
もしフォルムに創造性がなかったら、同一のモチーフから何故に多様な表現が得られるかを説明することはできない。#芸術への道

芸術におけるモチーフとは何か。フォルムのための材料である。モチーフは、フォルムを通してはじめて明白になり、かつ内容を得るのである。#芸術への道

材料とモチーフはオーケストラで言えば楽器に当たり、これを指揮するのがフォルムである。それらは、フォルムがつくり提示する意味によってどのようにも変化し、また定着するのであって、作品の意味は専らフォルムの力によって生まれるのである。#芸術への道


教育もまたそうしてなされる
縛られることを知らない者に
純粋至高の完成は得られない。
偉大を望む者は全力を傾けること、
制約の中でこそ巨匠は生れ、
規律だけが自由を与え得るのだ。(ゲーテ)#芸術への道

芸術は現実性だけに留まらず、それ以上のものー真実ーを求める。芸術はわざとらしさや、こじつけで為されてはならない。優れた作品は自然で、それ自体の中で調和的でありー純粋である。だが芸術家が形式に熟達することなくしてこの真実と純粋性は成就されない。線と面、立体と空間とに精通しなければならないのだ。もちろんこうした要素に精通しても未だ十分ではない。芸術作品は多声的なものであって、材料に立脚し、次いで例えば宗教とか世俗的なもの等のモチーフを表わし、そして様々な構成要素を綜合的なフォルムの中で満たして行くのである。#芸術への道

芸術作品そのものは単に「確認される」だけでは満足しない。作品のあらゆる筆跡は一つの内的な核心を観るよう指図し、同様に、作品が拠って立つ隠れた規範に留意するよう要求しているのである(ゲーテ)。個別的なものは全体の構成要素としてのみ理解され得るのだ。従ってベツュライブンク「作品の叙述」というものは常に作品の本質を指向しながらアクセントを置いて行かねばならない。作品の叙述は理解行為であって、単なる報告ではない。#芸術への道

ここで言うわれわれの認識とは見て入ることである。見て入ること、は多様な視点に立って初めて可能になる。芸術作品はともかくみな本質的意味と歴史的意味を担っているが、われわれはこの書の中で特に芸術の本質的意味を尋ねてきた。作品を前にしながらわれわれは常に何が真に芸術的であるかを問い、そうすることによって作品をその歴史環境から抽き出し、或いはまた歴史環境を、ほんの手短ではあるが略説してきた。芸術には超時間的なものが現象していた。#芸術への道

個別作品を歴史的なつながりに組み入れて、それを歴史の証として把握すること、つまり人間が常に同じ根本問題と取り組みながら、その都度の歴史状況に見合う固有の解答を見出してきた歴史の証として芸術を理解することも大変大事なことである。人間の存在は、正に歴史から少しずつ浮かび出て来るのであり、人間は歴史の中に、時代から時代へ、文化から文化へと 自己を実現しているのである。#芸術への道

芸術作品との出会い方は決して唯一でない。芸術作品の内的な豊かさが、多様な見方を要求しているのであり、そこには芸術の本質意味への方向性と歴史意味への方向性が同程度に存在し、どちらも欠くことができないのである。#芸術への道

芸術へのすべての道は同じ目的に通じている。何故なら芸術は、人間とは本来何か、そして最も深いところで一体何ものであるのか、ということをわれわれに打ち明けてくれるからである。芸術への道は人間への道である。#芸術への道

『芸術への道』抜き書き2

●芸術は、自然と対置されても確固たる存在を主張するものでなければならないが、それは自然に対して固有な何かを意味してはじめて可能になるのだ。#芸術への道

自己の作品を前にして動揺する画家の姿は洋の東西を問わず真に芸術家のものだ。だから彼らは二年も経てばかつての作品を見て「今だったらあれこれを別に描くだろう。私はもうとうにそれを越えているのだ」と述懐する筈である。多分それは技能が不足であったという自己否定の承認なのだ。#芸術への道

当然ながら、芸術家は形式を会得するために絶えず血のにじむ努力を重ねるものだ。ややもすると、偉大な芸術家にとってはそれはたやすいことだと考え勝ちだが、彼らとて決して例外ではない。例えばレオナルドにしても、着衣や手首のスケッチを何度も何度も描きなおしていたのである。#芸術への道

画家を虜にするのは、何はともあれ先ず線と面、量感と空間である。思想や情感や記憶像が最優先して彼を魅きつけることは手ない筈だ。彼を魅了する世界に最も基本的に関わって来るのはこうした空間的な性質のものである。#芸術への道

 

芸術は空虚な場に存在している訳はなく、一つの具体的な社会の中に在り、その社会は様々な要求をもって芸術家に迫っている。こうしたことは、芸術の歴史を見ると良くわかることであった。#芸術への道

ハインリヒ・リュッツェラー『芸術への道』抜き書き

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芸術に関係するのは造形の質であって、美の質ではない。芸術は、その本質からしてあいまいさや隠蔽に敵対しており、またそれは決然たるものであって、自ら提示するものをそれ自体として純粋に現出させようとする。だからこそ芸術は、あやふやで支離滅裂な日常性から際立つのである。#芸術への道

 

芸術は人間の限界状況に通じるものである。永遠性の前の人間、死の前の人間、罪の中の人間はいつもひとつの小さな目標から曖昧のままに先へ先へと走っていることを考える。だがキリスト教芸術は、人間を決して変るこ とのないあの裁きの前に立たせてしまうのだ。#芸術への道

 

人間は死の事実を無視して、あたかもそれが存在しないかの如くに茶化して生きることも知っていた。しかし現実には累々たる髑髏があり、死者の群がある。芸術は、この事実を直視させようとして多種多様の表現を創造してきた。#芸術への道

 

芸術は善を喚起することができる。芸術は純粋な、高度な、高貴な生命をあらわすことによって、われわれを感化することができる。素晴らしいことである。しかし、それが総てであろうか。芸術は必ずしも倫理的である必要はないのである。#芸術への道

芸術家は現実をもう一度完全なものにし直し、造形過程を通して、われわれが絵画の中に見ているものは完全なものではないのだ、ということを表現する。芸術家は、フォルムの秩序を通して人間のエネルギーを生活秩序へと導いてゆく。#芸術への道

芸術作品が形づくられているということは、精神的存在としての人間ーー単なる生物に対する優位性ーーの証明なのである。それ故に芸術作品は、人間に於ける真に人間的なものに触れるのである。#芸術への道

芸術と自然の間には超え難い距離があり、そして人間の経験は非リアリスティックなフォルムの助けを得て初めて表現され得る。#芸術への道

美的芸術は自ら限界を持つものであって、芸術がもし醜に留意しないとしたら、それは偽りの生命と化す。#芸術への道

芸術は決して倫理的である必要はなく、そこには別な可能性の領域があって、無限に開かれている。#芸術への道

「真に」生きるという時 、うわべの生や、ありきたりなものの中に埋没して生きることではなく、完全に生きること、実存の中核に生きることを意味するのである。#芸術への道

芸術は現実の写し取りであることはできない。なぜなら、現実の中には固有なものがほんの部分的断片的に、そして隠蔽されてしか示されていないからである。魚そのものは現実には生臭く、人間の肉は老化し、夏も完璧な姿で出現することはないものだ。現実の中でわれわれに触れるのは、根元的なものの予感、楽園や生命の充溢の予感に過ぎないのである。#芸術への道

芸術は開示し、発見し、うたい、頂きを指して迫って行く。そして「現実」から「真実」へ到達しようとして、夢幻的なフォルムな活用する。芸術とは、ゲーテの言葉で言うと、「探求しがたいものの生動的瞬間的開示」である。それ故に芸術作品は至上のものである。#芸術への道

芸術作品はその主題の限界の中で、われわれには理解することも把握することもできないものを生きた瞬間として提示し続ける。芸術は、時間から出発しながら超時間的な意義を持つことになるのである。「芸術とは、言葉では言い表わし得ないものの仲介者である。」#芸術への道

ゴッホはベルギーの炭坑地帯の伝導師になろうと決心する。それは貧しい人々への単なる同情心からではなく、しいたげられた人々の中に神の生き写しの姿を求めるという心からの、大変感動的な願いからであった。やがて彼は、ほんの僅かの教育を受けただけで絵を描き始めた。#芸術への道

人間的な純粋さの対極として「不純」ということを考えてみよう。ある人があたかもの如き態度をとった、という場合などの如きはその例である。もし芸術が真実のうちにあるとするなら虚偽のうちには存在し得ない。#芸術への道

芸術は偽りの感情からは生れない。芸術は愚直、英雄気どり、デモーニッシュ、感傷的など、気取りからできるものではない。われわれの前にはまがいものが氾濫し、不純な態度が一大世界を成して広がっている。#芸術への道

騎士の装いの古めかしさ、そして内容の作為性が感じられ、つまりトーマは非神話的な時代にありながら作為的に神話を「創り出そう」としたのである。われわれの論題はここで初めて導き出された。すなわち芸術におけるわざとらしさーー古めかしさーーでっち上げということである。#芸術への道

芸術においては、 感情を強く出し過ぎると、しばしば純粋でなくなるという危険が生じる 例えばそれは感傷とか激越、気まぐれなど、様々の形をとって現われる。#芸術への道

人はいくらでも考え出すことはできるが、ただそれだけでは芸術的に「そこに」存立しない。考えられたものに血肉が与えられなければならないのである。言い換えれば芸術に関する限りは線、面、動き、構図、そして色彩に発展しなければならない。#芸術への道

 

 

『切断芸術運動というシミュレーションアート展』

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告知が遅れて申し訳ありませんが、展覧会をやっておりますので、どうぞよろしくお願い致します。

私も作品『反−反写真(切断芸術』と『フォトモ(切断芸術)』を出品しております。

また、6月30日(金)の2時からは、彦坂尚嘉×糸崎公朗トークショーも開催します。

詳細は下記ウェブページをご覧下さい。
https://setsudangeijutsu.wixsite.com/setsudan
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展覧会名
『切断芸術運動というシミュレーションアート展』

会期
2017年6月25日(日)~7月6日(木)

会場
東京都美術館 ギャラリーA
〒110-0007 東京都台東区上野公園8-36

開室時間
9:30~17:30(入室は閉室の30分前まで)

夜間開室
金曜日は9:30~20:00(入室は閉室の30分前まで)

休室日
7月3日(月)

観覧料
無料

トークイベント1
彦坂尚嘉×糸崎公朗
『切断芸術という手法と、思考と、出現する現象』
6月30日(金)14:00〜15:30・ギャラリーA

トークイベント2
美術批評家:矢田滋×現代アーティスト:生須芳英
『芸術とデザインの遺伝子組み換え反対という主張』
7月1日(土)14:00〜15:30・ギャラリーA

【出品作家】
彦坂尚嘉(代表、現代美術家、詩人、音楽家、芸術分析家、美術史評)
中田 文(映画監督)
糸崎公朗(写真家/美術家)
丸野由希子(美術作家)
波多正木(画家/サロン・ブラン美術協会・日仏現代国際美術展
柳川たみ(美術家/詩人、文芸誌『無文芸』を主催)
西水俊二(美術家)
工藤悦仙(画家/役者)
菅野英人(写真家)
中川晋介(アニメーション・アーティスト)
田山寛明(現代美術家
矢田滋(美術評論家、東京芸術大学芸術学科大学院卒業)
李染はむ(現代美術家
須藤光和(版画家、臨床美術師)
西山雪包(美術家)
花牟礼有基(日本画家)
ヴァンだ一成(現代アーティスト)
生須芳英(現代アーティスト、音響詩人、音楽家)

主催
切断芸術運動
東京都美術館
(公益財団法人東京都歴史文化財団

物質と精神

物質主義は盲目をもたらすと、宗教家の手島郁郎先生は述べているが、芸術は物質であって物質でないという二つの側面を持つ。それは人が肉体という物質的側面と、非物質的な精神的側面の、二つを持つことと対応している。

肉体という物質があって、精神という非物質が存在しうる。少なくとも個人の発生において人は人としての精神のない肉体だけの赤ん坊として生まれ、その後より非物質的な精神を築き上げる。

精神の無い肉体に、どのように精神を築き上げるのか?それは束石や柱や床材、壁材、瓦などに相当する、精神的な建築資材を余所から持って来て、それを組み合わせて積み上げるのである。

非物質的な精神的建築資材は、他者の物質的肉体に一時保管されている。一時保管と言うのは、どの人間もいつかは死んでしまうから一時保管なのである。人はそのような自らの精神的建築資材を、空き地である子供の中へと運び入れ、大人としての精神を築く。

物質主義とは何か?近代とは物質の時代であり、だから物質主義批判も出てくる。私の観たところでは、近代的な物質主義とは呪術の延長にあり、だからこれは旧約聖書にも記されている呪術批判に通じている。

いや聖書だけでなく、古代ギリシャ哲学においても、古代インド仏教においても、実利を願う呪術は下等なものとして使用が戒められている。人は実利的なものに心を奪われてはならず、だから物質主義が批判される。

物質には物質の法則があり、物質の法則を明らかにすることで物質をコントロールし、人々に様々な実利をもたらすことができる。物質が人に実利をもたらすのは、人の肉体が物質であり、肉体の延長としての物質が人に実利をもたらす。

精神に役立たない物質と、精神に役立つ物質とがある。まず人に快楽、気晴らし、優位性をもたらす物質は精神に役立たない。しかし人に交流をもたらす物質は、論語に「朋あり、遠方より来たる」とあるような意味で精神に役立つ。

近代的な物質主義の産物である世界交通網や印刷技術などによって、我々は『聖書』と『ソクラテスの弁明』と『ブッダの言葉』と『論語』とを読めるようになったのである。しかし書物から何を読み取るか?はまさに精神の問題で、沢山の本を読めばいいと言うものではない。

手島育郎先生も、物質主義に溺れたクリスチャンには、真の意味での聖書を読む能力が失われていると、嘆いておられるのである。また、私が尊敬する日本人哲学者の西田幾多郎先生も、自分は読書量はそう多くないと述べておられる。

近代以前の人々が思い描いた呪術の力は、イギリスの産業革命によって、それが物質の法則を解明することによって可能になることが、解明された。物質の法則は連鎖しており、技術的な進歩も連鎖的に自律的に進化し続ける。すると人間の精神的な進歩とは何だろうか?

人間は赤ん坊として生まれ年齢と共に大人へと成長する。つまり人間の精神的成長は子供から大人への成長であり、大人に成ってから成長が止まることなく、さらなる大人へと成長し続ける事が、人間の精神的成長なのである。

子供とは自然であり、大人へと成長することは自然からの離脱を意味している。大人とは自然に非る人工産物であり、人類史的な蓄積の産物である。しかしその源はどこにあるのか?

ともかく人には「自己反省」の能力が備わっているのであり、それによって色々なものが見えてくるのであり、そこから精神的成長という現象も生じる。そして物質主義への批判とは、これによって自己反省の眼が妨げられてしまうことへの批判だと言える。

実に、物質から法則を見出す科学技術の発達も、人間に備わった自己反省能力の一環なのである。つまり人の肉体は物質であり、この自己としての物質を反省的に捉える視点から科学技術は生じるのである。

ところが科学技術はある一点においての自明性に依拠しており、その点においての自己反省性が決定的に欠けており、それ自体では精神的成長に寄与できない。つまり科学は人の「自然性」から生じる欲望に依拠しているのであり、だから呪術の延長として捉えられるのである。

子供から大人に成長するにつれ、自然的な欲望は断念される。親は子供のために自らの自然な欲望を断念するからこそ、人の親たりうるのである。子育てする動物の親も、自分の欲望を断念するからこそ子育てができる。

他者認識できない動物は自らの欲望を抑える術を持たず、子育てができない。よって昆虫は卵から生まれると同時に、親の手を借りず自分一人で生きているようにできている。

いやしかし考えてみると、子育てしない昆虫も、卵を産む場所は、生まれた幼虫が適切に育つ場所を時間をかけて選別する。アゲハチョウは飛びながら緑色の葉を識別し、前脚の味覚器官によって幼虫の食草であるミカン科植物を見分け、そこに産卵することが知られている。

動物には個体としての死があり、それ故に徹底して自己のために生きることはできず、必然的に子孫という他者のために生きる側面を持つ。しかし昆虫の産卵など利他的行動は、本能によって制御されている。本能は動物の欲望を制御している。

例えば「食べる」という欲望は、満腹感に制御されているのであり、そのような本能は人間にも備わっている。しかし人間は、自然的な欲望の制御を超えて、自身の欲望を制御することで「大人」へと成長する。

人間と信用

お金の起源について知りたくなったのですが、これはなかなか良い記事ではないかと思います。
https://hikakujoho.com/manekai/entry/20160809

hikakujoho.com

 

お金の起源は「信用」にある。お金に対する信用とは、即ち人間に対する信用である。だから「人間は信用できないが金は信用できる」と言う人は、実は人間を心の底から信用しているのである。

そもそも人間は、お金に限らず、ありとあらゆるものを簡単に信じてしまうという性質を持つ。子供は何でも素直に信じてしまい、大人になるにつれて疑い深くなるが、しかし実際に大人の多くは実にたくさんの事物を自明的に信じている。