アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

言語と名前

自分は自分の人生の主人公でしょうか?映画の主人公は物語の中で、自分が沢山の観客に見られていることを知りません。そして映画の観客は、映画の主人公が知り得ない多くのことを知っています。つまり自分が人生の主人公である限り、決して知るこの出来ない事物が存在するのです。

映画の主人公は、何かを見て驚いたり喜んだり、反応したり判断します。そのには主客の関係が成立してます。しかし映画の観客は、主人公と、彼が見る対象物とを、どちらも対象物として認識します。我々は、自分の人生を生きる自分自身を、この様に捉えられないでしょうか?

言語と名前は実のところ違うのかもしれません。老子は言語の始原に立ち返り、名前に惑わされてはならない、と説いているのかもしれません。

現象学においては、認識するものと認識するものと、そのどちらもが認識の対象になります。認識するものと、認識させるものの区別によって成立する科学を「素朴」だとフッサールが批判したのはその意味です。

我々はなぜ映画を見て内容を理解できるのか?改めて考えるの不思議なことです。なぜなら映画は、人間の主観的認識世界とは様々な面で異なっているからです。

《言語》と《名前》は実のところ別のものなのかもしれません。老子の第一章は「言語の始原に立ち返り、名前に惑わされてはならない、」と説いているのかもしれません。

昆虫は世界を《名前》で見ています。彼らにとって《名前》の付いていないものは、彼らの世界に存在しないのです。

言語には様々な機能がありますが、昆虫にとっての言語は《名前》の機能としてのみ存在します。

《名前のないもの》に反応する能力、これが好奇心であり、未知の環境への適応力です。