アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

通俗と同義反復

東大出の人は頭が良い。これはトートロジーです。芸大出の人は絵が上手い。これもトートロジーです。芸術家は口下手で、だから美術評論家が文章を書く。これもトートロジーです。通俗とはトートロジーです。カレー味のカレーです。

カレーはカレーの味がして、お米はお米の味がして、うどんはうどんの味がして、ケーキはケーキの味がする。通俗とは言語活動であり、それは同義反復だと言えないでしょうか?

同義反復とは何でしょう?それは外部からの刺激によって、脳内に生じる現象です。言語活動の一形態であり、時間のあり方の一形態でもあります。通俗とは外部から切り離された、脳内で回転する言語活動で、反復し回帰する時間です。

老子によると、欲に駆られた人間は結果を求め、結果の先にあるのが同義反復です。

同義反復が見ることと切り離されているならば、見ることとは見改めることです。あらゆる事物は原理的に無限回数、見改めることができます。

確定された認識は同義反復に陥り認識から切り離されます。つまり認識とは認識の更新であり、認識する限りにおいて更新は無限回数繰り返されます。それが同義反復の対義的意味です。

認識を更新し続けさえすれば、同義反復から逃れることが出来ます。簡単なことです。

通俗から抜け出し同義反復を断ち切るのが芸術の一つの意味です。つまり、一方では通俗的で同義反復的な芸術はごまんと存在するのです。認識を更新し続けることで、それらの見分けは可能になります。

老子』第一章で説かれた「欲ありて」が同義反復なら、「欲無くして」は認識の無限回数の更新であり、そこに「妙」を見るのです。見えた結果に満足するとその先で同義反復に陥り、認識は断ち切られます。

通俗に生きる人の人生は無意味ではなく同義反復です。

●認識の更新、認識の更新、認識の更新…と唱えると、同義反復が断ち切られ、全く違う世界が開けます。

日本の受験制度は通過儀礼であり、学歴は呪術的効果を生み出します。

兵器は理性的で、兵器を使う人間に理性がないのです。

私は一点だけから見ているのに、私はその存在をあらゆる点から見られている:ラカン

〜フォルムの未分化な体制。