アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

反-能力と反知性

赤瀬川原平老人力」とは何だったのか?古典的意味での老人は、膨大な経験と知識を蓄えて、若者には及びもつかない高い能力を有しています。しかし赤瀬川さんが提唱された「老人力」は物忘れをはじめとする老化による能力の減退を、それ自体「能力」として評価しようと言うものでした。

「物忘れ」を始めとする老化現象を、特有の「能力」として評価する赤瀬川原平さんの「老人力」は、「反-能力」「反知性」の思想でもあります。古典的に理想とされる老人は長年の経験と知識を蓄え高い能力を有していますが、赤瀬川さんの「老人力」はこのような価値観の正反対を唱えているのです。

赤瀬川原平さんの「超芸術トマソン」もまた「老人力」と同じく「反-能力」の思想であったのです。だから自分の才能の無さに失望していた私は、これに飛びついたのでした。ところがここに誤解によるズレがあったのですが、私は根本において「反-能力」「反知性」になり切れなかったのでした。

私の提唱した「非人称芸術」は、「反-能力」「反知性」なのでしょうか?実は私としては赤瀬川原平さんの「超芸術トマソン」の「超」に反応しこれを継承発展したつもりでした。しかし実質的に超芸術トマソンの根底を成すのは「超」ではなく「反」の思想で、その意味で私は正しい継承者とは言えません。

私が「超芸術トマソン」に見たのは「超越」の問題ですが、当の赤瀬川原平さんにそのような問題意識は無かったのです。つまり赤瀬川原平さんは山本七平の言う「日本教」の内側の人であり、私はそれを外側から対象化しようとした「落ちこぼれ」であったのです。

わかりやすく言えば、赤瀬川原平さんは宗教や哲学の話をしませんが、私はそれをしなければ気が済まないところがあるのです。その違いによって、「超芸術トマソン」の「超」ということの解釈や問題意識に大きな違いが生じるのです。

もっと分かりやすく言えば、「超芸術トマソン」とは赤瀬川原平さん一流のジョークなのですが、私はそれを間に受けたのでした。ネタにマジレスしたのがこの私であり、そんな理由もあってか、私は赤瀬川原平さんに生前お目にかかることは無かったのでした。