アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

見ることと盗むこと

客観性とは何か?例えば、街中を歩きながら目にするあらゆるものは、自分に先行して他人が既に見たものばかりです。自分が見る前に他人が見たものを、自分は遅れて見るのです。

同じものを、大勢の人が見ています。例えば交差点の信号機です。ところがその信号機を、誰一人見ていない時間というものが存在します。誰も見ていない間、その信号機は存在していると言えるのか?あるいは誰も見ていない間、その信号機はどのように存在してるのか?

誰も見ていない間の信号機は、例えば太陽の光を受けて、固有の色を放ち、固有の立体形状を表していると言えるのか?日の光を受けて佇む信号機の姿は、それを見る人の網膜内にだけ生じます。あるいは眼球を模したカメラ内に生じます。しかし目やカメラの外部で、信号機はどのようにあるのでしょう?

アフォーダンス理論によれば、眼球の外部の世界は、日中は真っ白な光に包まれています。その真っ白な世界は、カメラのレンズを外しファインダーを覗くことで確認できます。レンズによって収束しない限り、世界は乱反射する光に満たされ、その色彩はあらゆる波長が混ざり合った白一色なのです。

いや問題は、自分が見ていない時にその信号機は存在するか?さらに、誰も見ていない時にその信号機は存在するか?です。以前私は、誰も目撃者がいないところに私は存在するのか?というような疑問を書きました。私は私の顔を見ることが出来ず、その私の顔を見る他者が誰もいない間、私は存在するのか?

フッサールによると、自分は自分の中に「他者としての自分」を構成します。それは他者の類似物です。自分は他者の姿を見ながら、その類似物として、自分には見えない自分の姿を想像します。そしてそのような他者は、実は神の類似物であると、聖書ではされているのです。

人は、自分からは見えない自分の姿を、自分に見える他人の姿から想像して構成します。言い換えれば他人の姿を奪って「自分のもの」としています。いわゆる自己中心的な人は、他人からあらゆるものを奪いながら「奪った」という自覚が無い状態なのかもしれません。

何れにしろ、人が呼吸して食べなければ生きていけないように、人は他者から様々なものを奪いながらでしか、生きてゆくことはできません。見ることは、それだけで奪うことです。人は見るだけで他人から奪う事が出来、それによって自己中心的に振る舞う事ができるのです。

例えば、自分の嫌いな人、苦手な人に対して、実は自分が相手から奪ったものを「気に入らない」「要らない」などとして捨てているのです。他人から奪って捨てる行為を「他人を嫌う」と言い換えるのです。奪わなければ捨てることもなく、嫌うこともない。あらゆる形で見た事も聞いたこともない人を嫌う事はない。

人は見るだけで他者からあらゆるものを奪う!しかも「奪った」という自覚を伴わずにです。コンビニで、商品を片端からポケットやカバンにポイポイ放り込むと、それが無自覚に行われればビョーキです。自分の行為を自覚しなければ病気は治りません。我々も「見るだけで奪う」事の自覚が必要です。

人は見るだけで奪う!本を読めばそれを「私の知識」として奪う!人を見れば「私の知人」として奪う!奪った上で「私の嫌いな人」という自分の分類箱に収納する!

「自分の嫌いな人」はそれを見ることで他人から奪った自分の所有物です。それは自分内部の「自分の嫌いな人」という分類箱に大切に保管され、外に出されることはありません。

見ることは、対象物の姿を自分の目の中に映し込むことです。見ることは盗撮と同じです。自分の目の中に映し込んだものを、自分一人だけでコッソリ見るのです。

見るものがことごとく「自分の世界」となり、そのようにして人は見るだけであらゆるものを奪うのです。