アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

現象と還元

他者とは実在ではなく現象です。だから怖がることはないのです。

目の前の他者が怒っている時、実在する他者が現実に怒っているのではなく、目の前他者が怒っていて、それがあたかも実在してるように私に感じられる、という現象が生じているのです。

目の前の他者が自分より優れ、自分が劣っていると感じられる時、優れた他者や劣った自分が実在するのではありません。そうではなく、目の前の他者が自分より優れ、自分が劣っていると感じられ、この両者はともに疑いようもなく実在すると感じられる、という現象が自分の認識世界に生じているのです。

自分は存在するのでしょうか?客観的な世界が存在し、その中に自分という存在が位置付けられる、という認識は素朴です。なぜなら、客観的な世界が実在すると思う認識が素朴だからです。現象学的に考えれば、客観的な世界が実在するという実感そのものが、自分の認識世界に生じた現象なのです。

自己とは実在ではなく、自己認識と言う現象として存在します。私は自己を客観的な世界に位置付けて存在する、という「形式」において自己認識します。客観的な世界は実在ではなく、現象としての自己認識の形式だと考えられるかもしれません。

つまり芸術も、即ち芸術の理念も、芸術作品も、実在ではなく現象です。「芸術とは何か?」を考える場合、実在の芸術について考えるのではなく、現象としての芸術について考えなくてはなりません。そうでなければ、少なくとも芸術の理念と作品とを分類して考えるという間違いを犯さずに済みます。

現象学の認識はパソコンの在り方に似ています。バソコンでは映像や音楽や文字など客観的世界での在り方が異なるもの全てが0と1の記号に還元されるのです。いやそうではなく、パソコンモニタも全てをRGBに還元しますが、科学とは還元主義で、そうでありながら不徹底なのを現象学は批判するのです。

科学とは基本的には還元主義ですが、その還元主義は不徹底で、例えば客観的な世界の実在までは還元する事がなく、その素朴さをフッサールは批判しているのです。即ち現象学とは徹底的な還元主義であり、客観的な世界の実在までも現象に還元するのです。

だから現象学を実行しようとするなら、何でもなんでも闇雲に「現象」に還元し「還元主義」を徹底すればいいのです。バカにでもできる現象学です。と言うより、現象学的還元は、通俗的な意味での頭の良さを捨てて、バカになり切らなければ徹底できないのかもしれません。

芸術とは何か?を考えるには、自分にとって芸術が自分の認識世界にどのように現象しているのか?これを冷静に観測する必要があります。

還元主義は総合性をもたらします。物事を切り分け、切り捨てる事をしないからです。

芸術とは何か?を考える際、自分にとっての芸術とは何か?だけを考えるのは無意味です。しかし、自分にとっての芸術とは何か?がどのような経緯でもたらされたのか?を検証する事は有意義です。自分にとっての芸術とは何か?は現象であり、そのような現象がもたらされた現象を検証するのです。

芸術ではない偽物の芸術に騙されて感動する事はありますが、感動した事自体は現象として疑いなく存在したのです。