アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

芸術と希少性

 芸術は誰が創るのでしょうか?「神が芸術を創る」という考えを私は採用することができません。なぜなら、芸術が神によって創られるのであれば、それは「才能論」であり、才能論を私は方法論的に捨て去ることにしたからです。

 「神が与えた才能により、芸術は創られる」という認識は文字通り神話でしかありません。芸術は、神の創造物であるから稀少性があるのではないのです。神は万物を創造し、神の創造物はありきたりで希少性はないのです。

 神が万物を創造し、故に神の創造物がありきたりであるならば、希少性のあるものは人間の創造物です。神が自然物を創造したように、神が人の手を通して創造したものはありきたりです。神によらず、人によってのみ創り出されたものにこそ、真に稀少性があるのです。

 一方で、神は万物を創造し、故に神の創造物はありきたりで、同時にそれは、ありきたりであるが故に稀少性があるのです。これも、非人称芸術の根拠でした。この価値観は整合性がある故に系が閉じており、私はそれに囚われていたのです。

 人はそれぞれに辻褄の合った、整合性のある理論体系に囚われ、閉じ込められています。辻褄や、整合性と言ったものに、実にそれ以上の意味はないのです。他者は、自分とは異なる仕方で辻褄合わせをした理論体系に閉じ込められています。その意味で、誰もがそれぞれに「正しい」のであり、間違っている人は誰もいません。にも関わらず、人々の正しさはそれぞれに「違って」いるのです。

 人はそれぞれに正しく、間違っている人は誰もいない、と言うように指摘したのもデカルトでした。誰もが主観的には正しく、にも関わらず、正しさはそれぞれに食い違っているのです。

自分自身の整合性に囚われている人は、他者認識をしていないのです。何故なら他者は、自分とは異なる仕方の整合性を有しているからです。他者を「間違っている」と排除する人は、他者が有する自分のは異なる仕方の整合性を認識しないのです。

他者認識をしない人は、他者に恨みを持っています。あるいは自分自身に対する憎しみを、反転して他者に向けているのです。自分自身を愛する人は他者を愛します。自分だけを愛し他者認識しない人は、恨みと憎しみを生きています。

神は万物を創造し、故に価値の創造物はありきたりであり、神の手によらない人間の創造物である芸術こそが貴重なのか?あるいは神は万物を創造し、故に世界に満ちあふれる全てのありきたりなものが稀少でありその意味で芸術に特権性は無いのか?

イデオロギーは人を幸せにします。問題は、イデオロギーは必ず異なるイデオロギーと対立し、人々の全てのイデオロギーを同一にすることができない事です。イデオロギーは系として小さく閉じていて、人々の共有範囲に限界があるのです。

イデオロギーは異なるイデオロギーの排除、つまりは他者排除です。

多くの人の「芸術とは何か?」は小さな辻褄の中に閉じてイデオロギー化し、他のイデオロギーを排除し、他者排除しています。

自分の才能に絶望した人が、自分の才能を拠り所にイデオロギー化し、頑なに他者排除するのです。それは一貫して才能論であり、才能論は間違っているのです。

人による才能の違いは確かにゼロではありません。人の顔の細工には良し悪しがあり、誰もがオリンピック選手になれるわけではありません。しかし総合的な人格力を考えると、才能の差は考慮するに値しない要素となります。

人格とは総合的なものです。これに対し才能は、人の能力のうちごく特殊な一部を取り出したものにすぎません。大学受験の学力も、総合的な人格力のごく一部の要素を計測しているに過ぎません。しかし大多数の人は本末転倒して認識しているのです。本末転倒は文明の基本でもあります。

結局、現在の日本の受験システムは、人々に才能論という間違った認識に基づく劣等感を植え付け、受験競争の勝者も敗者も共に、総合的な人格力の向上を妨げているのです。その原因はつまり、文明においては何事も本末転倒するのです。役所が決められた予算を使い切る事を目的化してるのと同じです。

文明においては何事も管理が重要ですが、不可避的に管理が目的化し、本末転倒が生じます。大学受験も同様で、試験による序列とは本来的には単なる管理項目に過ぎないのです。それが本末転倒し、試験による序列があたかも総合的な人格力の序列であるかのように、錯誤されるのです。

文明的な本末転倒を見抜いてこれを元に戻してみるならば、受験競争の勝者敗者に限らず、現代日本人はおしなべて総合的な人格力が低い、これは3.11の事象でより明らかになった事です。

人間の認識世界の外部に不可知の領域が存在し、芸術はそこからやってくる、というふうに、実は自然主義者は、何となくそう考えているのです。しかしこれは冷静な検証も反省もない、素朴な認識に過ぎません。

世界は「ありきたりなもの」と「希少なもの」の二種類で構成されている、というように認識世界に現象しています。何がありきたりなもので、何が希少なものなのか?希少なものは文字通り隠されています。ですから経験を積まなければ、ありきたりなものと希少なものとを取り違えるのです。

ありきたりなものは自然物で、希少なものは人工物です。ありきたりな人工物には「人間としての自然」が現れています。「人間としての自然」を排除した人工物こそが、真に希少性のあるものだと言えるのです。

「自然こそが希少なものだ」と言う認識は、実のところ転倒しているのです。ありきたりな自然を排除して、人は人工的な都市を形成してきましたが、その拡大化とともに自然物と人工物の希少性が転倒したのです。しかしこの転倒は見かけでしかなく本質的なものではありません。

自然を賛美する自然至上主義者は、自然物と人工物の希少性を取り違え、無反省によってその取り違えに気付かないままでいるのです。自然を賛美する人は、つまりは人工物から目を背けこれを認識しないようにしているのです。認識のシャットアウトから正しい認識が生じることはないのです。

科学の発達と共に自然に対する認識は深まり、自然に対する賛美も高まります。科学がもたらす自然への賛美は、実のところ人間の認識世界の外部の、不可知領域に対する賛美でもあります。そこでは不可知領域の「実在」が無前提に措定されているのです。認識の限界の自覚と、不可知領域の措定は別問題です

あらゆる「正しさ」は、現象学的に検証しない限り正しい、と言う意味での正しさを有しています。「非人称芸術」の正しさも、そのようなものに過ぎません。

デカルト方法序説の中で自分の感性こそ第一に疑うべきだと説いていますが、私の「非人称芸術」は「我思う」という自分の感性を基盤にしており、その意味では通俗であり、通俗の徹底化であり、徹底化という点においてのみ非凡だと言えるのです。