アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

嘘と方便

人がいかに恐怖心を持っているか、これが『法華経』では強調されてます。優れたものに対し人は恐怖心を抱き、近づこうとするだけですぐ逃げてしまいます。だから始めは嘘をついて誤魔化しながら、徐々に慣れさせていけば良いと法華経には説かれています。

法華経で説かれているのは「嘘も方便」という事ですが、方便とは本来は「悟りに近づく方法、あるいは近づかせる方法」という意味の仏教用語です。ですが法華経では人が悟りに近づく事自体が不可能だとして始めから断念しています。ですから「嘘=方便」として人々を安心させるのが法華経なのです。

「悟り」という「立派なもの」に恐怖心を抱く人に対し、悟りに導く事は無理だと断念し、嘘を付いてその恐怖心を和らげるのが法華経の教えです。ですから日本においては「嘘=方便」という具合に元の意味が全く逆転しているのです。そしてまた「非人称芸術」もその意味での方便だったのではないか?

この世には「悟りに至るための方便」と「悟りに至れない方便」の二種類が存在します。悟りに至るための方便とは、例えばフッサール現象学がそうです。悟りに至れない方便は初心者向けに書かれた「フッサール入門」です。

優しく書かれたフッサールの入門書は、読者がフッサールを絶対に理解し得ない事を前提に、それでも何かを知った気になれるという「安心」を与えるために、書かれています。その構造は法華経も同じであり、どちらも「悟りに至れない方便」であるのです。

悟りを得ようとしながらも、「悟りに至れない方便」の迷宮に陥ってしまうことは、この日本においてはありがちなことです。なぜなら「悟りに至れない方便」を説いた『法華経』が古来より続く日本仏教のベースになっているからです。この法華経の思考パターンが現代日本人にも染みついているのです。「非人称芸術」が方便であるのはその意味においてです。