官能と消費
アリストテレス先生に学んでつくづく分かったのは、私は歩むべき道を間違えていたことです。つまり「路上」をひたすら歩いていたことは間違いでした。どれだけ「路上」をこうともほとんど何も蓄積されないからです。蓄積のない行為は消費です。「路上」を歩くことは消費でしかありませんでした。
私は「路上」で何を消費していたのか?一つに、私は恣意性の原理に居直ろうとしたのです。そこに「基準」を見いだそうとしたのでした。ところがそのこと自体が、道に迷ったに過ぎないのです。日本というのは恐ろしいところで、誰も道案内をしてくれず、必然的に道に迷うしかないのです。
消費とは道に迷うことであり、道に迷うことが消費です。正しい道、自分が本来歩きたかった道を歩けば、消費することなく蓄積することが可能だったのです。蓄積とは何か?それはつまり例えばブリコラージュの素材です。逆に、消費の場合はあらゆるものを受け取らず、すべてを取りこぼします。
アリストテレス的に言えば、「路上」をどれだけ歩こうとも、ほとんど何も知ることはできません。つまり私の言う「路上」とは、哲学の枝葉として存在しているのではないのです。「路上」の中心にあるのは結局のところ官能です。「路上」を歩くことで知ることができるのは「何が官能的なのか」と言うことです。
「路上」を歩いて何が官能的だと知ることができるのか?原理的には「すべて」です。「路上」を歩くことですべてが官能的だと知ることができるのです。すべてが官能的だと言うことは、それは分かりきったことであることを意味しています。にも関わらず、繰り返しそれを確認して知ることができる。そのようなループ、迷い道を私は自ら作り出していたのです。
知ることの喜びが、官能に置き換わっていたのです。いや、官能でしかないものが、知ることの喜びに直結するという回路に私は迷い込んでしまったのです。しかし結局その本質は官能です。官能とはストレスの解消です。アリストテレス的に言えば奴隷はストレスを溜め込み官能による解消を必要とします。
奴隷とは何でしょうか?奴隷制のない社会において、実に多くの人が自らを奴隷として拘束し様々な制限を課しています。なぜ人は自らをそのように貶めるのか?一つ考えられるのはその方がエネルギーの節約になり生存に有利だからです。その意味で奴隷とは決して虐げられている者ではないのです。
奴隷とはアリストテレスが「人間はその自然性において奴隷的である」と述べた意味での奴隷です。つまり人間は自然性において生活に追われ、そのストレスから官能を求めるのです。官能を追求するのは、人間の自然性です。それだからこそ、自然性に逆行するのが「知性」であると言えるのです。