アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

情報と非当事者

「情報化時代」と言った時に、情報化時代に生きる我々にとって「情報化時代」そのものが自明化して、それが何であるかを対象化できなくなっています。

情報化時代とは「素人の時代」でもあります。専門家が持つ専門知識を「情報化」する事で、素人がそれを持つことが可能になる時代です。

情報化時代において、素人は情報化した専門知識を所有し、専門知識についての情報を所有します。

専門家は専門知識によって「生産」を行いますが、素人は専門知識によって生産を行わず、これによって専門知識を「情報化」するのです。

専門家は生産を行う当事者ですが、素人は生産を行わない非当事者です。生産を行わない非当事者にとって、生産のための専門知識はことごとく「情報化」します。

専門知識には生産性がありますが、情報化した専門知識には生産性がありません。情報化した専門知識は、情報化した生産性をもたらすのみです。

わたしは日本仏教の最重要経典とされる『法華経』を読みましたが「法華経は素晴らしい」と度々書かれる一方、法華経そのものの内容が書かれてないという、実に奇妙な内容でした。つまり法華経とは仏教それ自体の情報化であり、それだからこそ素人のための仏教であったのです。

法華経の無内容についてまとめられた記事です。法華経が無内容なのは「法華経は素晴らしい」という情報だけが書かれていて、仏教としての生産性がないからです。だからこそ、多くの素人=在家信者を救うことができたのです。情報は素人を救うのです!

法華経と聖書――その類似

仏教において出家者は当事者で、在家信者は非当事者です。非当事者は仏教それ自体ではなく、情報化された仏教、仏教としての情報によって救われるのです。なぜかと言えば仏教としての生産性は在家信者が出家者になることを含むからです。

専門知識は傍観者=素人から当事者=専門家への移行をもたらしますが、それだけに非当事者のままでいたい人には受け入れ難いのです。

当事者になりたくない非当事者にとって、情報は無害です。人は情報だけを受け取る限り非当事者でい続けられるからです。

情報化社会とは即ち大衆社会です。本質とは専門領域であり、非専門的な大衆は、非本質的な情報を求めるのです。例えば学歴社会とは学歴という情報による現代の身分制度なのです。

仏教において出家者は当事者で、在家信者は傍観者ではなく非当事者です。傍観者はあくまで「観る」立場にありますが、在家信者は出家者に目を向けることなく、即ち対象物に目を向けることなく、対象物についての「情報」を得ることで救われるのです。

仏教の在家信者は仏教の情報=法華経によって、出家することなく在家のまま、即ち当事者になることなく非当事者のまま、救われることができるのです。

立場としての一般大衆とは、専門家に対して非専門家、当事者に対して非当事者です。

一般に一般大衆は責任を取るのを嫌がりますが、それは本質的に一般大衆が当事者ではなく非当事者の立場だからです。

本来的に民主主義においては一般大衆の誰もが政治の当事者で、責任の当事者であるべきなのです。しかしそれは理想論で、実際的に現代日本では多くの人が政治に対して非当事者を決め込み、責任の当事者になることを避け、匿名的立場に身を潜めているのではないでしょうか。