アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

情報と技術

「情報化時代」と言えばインターネットが普及して以後を指すイメージですが、私が生まれた1965年からすでに情報化時代だったのでした。私が誕生しこれまで生きてきたのが情報化時代で、それだけに「情報化」と言うことが自明化し、対象化できないでいたのでした。

情報化時代において、情報は情報の前提を覆い隠します。情報が情報として指し示す対象が、情報によって覆い隠されます。「情報」それ自体が「情報が指し示す対象」と取り違えられます。「情報」それ自体が「情報が指し示す対象」に取って代わるのです。

私が物心ついた頃にはすでに書店には様々な「入門書」であふれていました。いや少なくとも大学卒業後にあらためて勉強心に目覚めた頃はそうでした。「哲学を勉強しよう」と思い立つと、様々な「哲学の入門書」が書店には並んでいるのでした。しかし哲学の入門書は「哲学の情報」でしかないのです。

哲学の入門書を読むと、哲学についてわかりやすく書いてあり、哲学がよく分かったような気になり満足します。つまりこれが「情報が情報の前提を覆い隠す」ことであり「情報が、情報が指し示すものに取って代わる」事なのです。

「哲学を学ぼう」と思った人が哲学の情報=入門書を読んで、哲学書を読んだと錯覚して満足するのです。なぜ満足するのか?つまりそのように満足させるのが「情報技術」の一つであるのです。

哲学の入門書とは何か?と言えばそれは情報技術の一つなのです。難解な哲学書を、日常的な言葉に置き換えて、誰でも簡単に理解できるようにし、読んだ人に満足を与える技術です。

情報技術は商業主義と結びついています。難解な哲学書よりも、簡単に分かる哲学の入門書の方が売れるのです。そして、難解な哲学をわかりやすい言葉に置き換える入門書の技術が発達するのです。そしてこれは情報技術の一環であるのです。

哲学の入門書は入門書だけで完結し、決して入門書から哲学書へと導く事はありません。いや入門書の書き手と読者は共犯関係にあります。哲学は一つには「自分を変える術」ですが、入門書は「自分を変えなくても分かる」ように書いてあり、そして多くの人は「自分を変えたくない」と思っているのです。

哲学が難解なのは、自らの「自然的態度」を変えなければ理解できないからで、それこそが哲学の目的の一つなのです。ところが哲学の入門書は、自然的態度のまま理解できるように書かれています。なぜそれが可能になるのか?そこに弱い人の心に付け入る「置き換え」が生じているのです。

哲学が理解できる人は心が強く、理解できるように心を鍛えるのが哲学の意味なのです。しかし心を鍛える事はそれなりの苦痛を伴いますから、それが嫌だという心の弱い人との共犯関係において、情報技術としての入門書が生じるのです。