アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

自分が自分でいられる「これ」

私の問題はアイデンティティの問題だったのだが、私はアイデンティティにこだわり過ぎなのである。つまり自分は「これ」があるから自分でいることができる、という場合の「これ」は本来的には不要なのである。

そもそも、なぜ私がアイデンティティにこだわりを持つのかと言えば、私は大学を卒業してしばらくするまで、アイデンティティが確立できない問題でずっと悩んできたのであった。しかし「フォトモ」の技法と「非人称芸術」のコンセプトを見出すことによって、その悩みは解消され、落ち着きを得たのだった。

しかし、そもそもの問題設定の立て方が間違っていたのである。つまり「これ」によって自分が自分でいられる「これ」が無いことで悩むこと自体が、間違っていたのだ。それは直接的には「才能論」という間違った概念と結びついていたのである。

つまり私は中学時代の同級生の「田中君」が、自身の優れた才能によって自己確立していたのを見て、これに対し才能のない自分を嘆き、自己確立できないことで悩んでいたのである。今振り返るとこの認識は短絡的で偏っていて間違っている。結局私の「非人称芸術」理論は「才能論」の延長でしかなかった。

才能論とは決定論であり、変化や進歩を認めない硬直した理論である。私の「非人称芸術」理論もそのように硬直している。しかし今は自分自身の体験によって、人が修行と努力によって変わり得ることを実証したのだから、いつまでも古臭い「才能論」を引きずるのは馬鹿げている。

最古の仏典『ブッダの言葉』に示された「この世とかの世とをともに捨て去る」とはまさに自分が「これ」によって自分であるような「これ」には価値が無く、これにこだわることは害悪しかないと説いている。なぜなら各自がよすがとする「これ」はそれぞれ内容が異なっており、なんら普遍性が無いのだ。

その意味で、実は自分の「個性」にこだわることに意味がなく、害毒しかない。より正確に言えば、人の個性はその人の内部にはなく、環境=外部にその人の個性が存在する。実は人間の知性も、人間の精神も、その人の内部にではなく「外部」に存在している。しかし人は脳の働きにより外部を内部に折り返す。

人間の特徴は、外部の環境を脳の働きによって内部に折り返すことができる点である。人間の内部には、外部の小さな反射像が映し出されている。これを人は外部から遮断された外部とは異なる「自分」であると勘違いする。

人間の特徴は「記憶」にある。人間は外部を記憶することで、その知性と精神を高めることができる。そして記憶とはあくまで外部環境の記憶であり、即ち人の知性や精神は「外部環境」そのものであり、これを記憶として内部に蓄積しているに過ぎない。

記憶とはつまり時間の超越であり、その意味で人は時間旅行の能力を備えている。記憶力のない動物はその瞬間の認識によってのみ生きるが、人間は記憶力によってその瞬間に過去の様々に異なる時間の集積を重層的に認識できる。そして記憶とは「外部」であり、内部とは外部を蓄積する「場所」に過ぎない。