アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

同情と文明

ニーチェの『反キリスト者』を読みながら書くが、同情とは何か?を考えると文明以前の原始生活において怪我人や病人に同情すると自分の命はもちろん群れ全体の存続が脅かされる危険がある。従って文明以前に「同情」は存在せず、「同情」によって文明が生じたと見ることが出来る。

 

 

いや、文明発生の根底に同情があったのか否か?については保留するとしても、同情は文明があってはじめて成立しうる事象であるのは間違いない。

 

文明という、自然の淘汰圧を斥けた安全な環境があって、はじめて弱者に対する同情が可能となる。犬やオウムのような動物でさえも、ペットにされた安全な環境においては、他者に対する同情の行動を見せることがある。

 

「同情」のコンセプトは『ハンムラビ法典』には確かに存在するが『ギルガメッシュ叙事詩』には無かった。いやギルガメッシュ叙事詩そのものには弱い者への同情が描かれているが、ギルガメッシュ王そのものには同情心は一片たりとも存在しない。

 

 

ギルガメッシュ王の横暴に対して民は「同情」に訴えることなく(それは理解してもらうのが不可能だから)、王と同等の力を持つ野人エンキドゥを差し向け二人を戦わせ、戦いによって二人に「友情」が生じることで横暴が収まることを目論む。

 

 

ニーチェが言う「強い人間」には本来同情心は存在せず、「友情」をもとめ合っている。原始生活における「強い人間」の集団は互いに「友情」によって結び付いている。厳しい自然環境に抗して生き残れるだけの高い能力を持った人間同士が「友情」で結び付いているのが原始社会なのである。

 

 

原始社会においては「同情」が産まれる余地がなく、それだけ厳しい自然環境に晒されながら人類は生活をしてきたのである。文明社会においてもギルガメッシュ王のように「強い人間」は同等の強い人間との友情を求め、それが得られないと力を持て余して横暴になり「弱い人間」を苦しめる。

 

 

同情とはキャパシティの問題であり、原始時代にはゼロだった同情のキャパシティが、文明の時代となって社会が豊かになるとともに同情のキャパシティも増大してきた。しかしそのキャパシティは無限ではないため、トランプ政権下のアメリカでブロック化が復活しつつある。

 

 

弱い者への同情が文明的な国家の基盤にあることは『ハンムラビ法典』を読めば明らかである。しかしその同情は無限ではなく、どこかで「線引き」をせざるを得ないのである。

 

 

現に人々の多くが理性的に同情は大切であると認識しながら、同時にさまざまなレベルの「線引き」をしながらそのことを意識下へと押しやっている。例えば犬と同等以上の知性を持つ豚に対して同情し、これを食用することに反対する人間はごく一部に限られている。

 

 

どれだけ犬を可愛がっている人でも、その大半は犬と同等以上の異性を持つ豚に対しては一切同情せず、極めて冷酷にその肉を食べる。そのような「同情の線引き」をしなければ「豚肉を味わう」という楽しみが奪われてしまう。またしばしばベジタリアンだった人から報告されるように、野菜だけの食事は健康を損なう。

 

 

人間はズルいので、というか「弱い人間」はズルいので、いたるところあらゆるレベルで「同情の線引き」をしていながら、そのことについて知らんぷりしている。「弱さ」は「認識の制限」と結び付いている。

 

 

「強い人」が「弱い人」に同情するとそれが足枷になるからすべきではない、ということは初期仏典にも記されている。しかしニーチェによればブッダは決して「強い人」ではなく「禁欲的な人」に過ぎない。

 

 

ニーチェによると「弱い人」のうちのごく一部は「禁欲的な人」になることでその他の弱い人々に希望を与える。イエス自身もその他の弱い人間に成り代わって、禁欲的にその痛みを引き受け、だから多くの人々にとっての希望となる。強い人の「強さ」は弱い人にとっての希望にならない。

 

善とは何か?ー権力の感情を、権力への意志を、権力自身を人間において高めるすべてのもの。

劣悪とは何か?ー弱さから由来するすべてのもの。

幸福とは何か?ー権力が生長するということの、抵抗が超克されるということの感情。

満足ではなくて、より以上の権力。総じて平和ではなくて、戦い。徳ではなくて、有能性。

弱者や出来損ないどもは徹底的に没落すべきである。これすなわち、私たち人間愛の第一命題。そしてその上で彼らの徹底的没落に助力してやるべきである。

なんらかの背徳にもまして有害なものは何か?ーすべての出来損ないや弱者どもらの同情を実行することーキリスト教

#ニーチェ 『反キリスト者

 

我々「弱者」はニーチェのこれらの言葉をどう受け取れば良いのか?このような書物が今に至るまで日本語にまで訳され出版されている意味は何か?一つには純粋に「真実」を知ろうとすること、もう一つは文明内には文明内の「戦い」が常にあり、自分はどの側に立って何と戦っているかの「見極め」である。

 

 

権力とは何か?それは産業革命の以前と以後では意味合いが違うと言えるかもしれない。産業革命以前は、機械による武器は存在せず、武力の全ては「人力」によっていた。従って各権力者の力のバランスは不安定で、その意味で強者がその力を素直に直裁に発揮できたと言えるかもしれない。

 

 

ニーチェに言わせれば(実際にそれが書いてあるのか不明だが)産業革命による近代化なんぞはまったく「余計なこと」だったのかも知れない。近代こそは機械の力によって、本来の「力のある者」の力を無効にしてしまったのである。

 

 

また芸術においても、近代では写真の発明によって「写実画が上手い人」のその優れた才能も無効化されてしまった。思えば私の中学の同級生で天才だった「田中くん」は写実画の才能もあり当時の私はそれに嫉妬していたが、今となってはそれは無用の才能に過ぎないのである。

 

 

近代がキリスト教から産まれたのだとすれば、キリスト教が近代に先駆けて、優れた人の持つ「何か」を無効にしてしまっていたとしたも、おかしくはないだろう。実際にキリストは徹底した非暴力によって暴力を否定し、暴力が本来持つ優れた意味を否定してしまった。

 

 

ニーチェ的に言えば、暴力は決して否定されるものではなく、むしろ肯定され、賞賛なければならない。我々の常識では暴力を何かいけないもののように感じてしまうが、それはキリスト教により本来の価値が転換せられたのであり、ソクラテスブッダも同じことをしたのである。

 

 

産業革命以後に登場したあらゆるものが、ニーチェの言う強者の持つ力、本来の「善性」をことごとく無効化している。そもそも近代的な機械とは、力のない弱者に、本来的に人間が持てる以上の強大な力を与えるものなのである。

 

 

少なくとも科学者はどれだけ頭脳が優れていようともニーチェが言う強者には当てはまらない。それは弱者に力を貸す弱者に過ぎない。そのようにして世界は近代化が進むにつれてより多くの弱者により大きな力を与えるようになり、強者の存在をことごとく無効化した。

 

 

ヒトラーがしようとしたのは、ニーチェ的な強者に有利な社会の実現だったと言えるかも知れないが、しかしそれを「近代」の枠組みでしようとしたことに矛盾があったのではないだろうか?近代とは本質的に「弱者の世界」なのだから…