アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

二つの世界と二つの正しさ

正しい答えは常に一つではなく二つある。なぜなら世界は二つに分かれているから。

 

つまり文明は必然的に二つの世界を作り出す。そこに二つの異なる正しさが生じる。

 

文明は必然的に支配者と被支配者、管理者と被管理者、強者と弱者、能動的な者と受動的な者、など様々に名付けられるような「二者」を生み出し、その二者にとってとそれぞれに異なる二種類の「正しさ」が生じる。

 

我々はそれぞれに「逆さま」に異なった正しさの世界を生きている。ある者たちにとって「正しい」とされる同じことが、別のある者たちにとっては「間違い」とされるような、そのように正しさが逆さまな二つの世界が重なっている。

 

私がこのところ入れ込んでいる「事業者向けチャンネル」のYouTuberタナカキミアキ先生は、この二分した正反対の「正しさ」をよくご存知で、だから「ここは事業者向けチャンネルです」とことわって番組を放映されている。https://youtu.be/AHZjacip9Y4

 

 

このキミアキ先生が動画の講義で盛んにおっしゃっている「勉強」と言うことも、それは「一方の正しさ」を示しているに過ぎず、だからキミアキ先生も「勉強」をあくまで事業者や、デキル社員あるいはデキルことを望む社員にしか求めない。

 

だから「正しい答えは一つではなく二つ」の原則に従えば、「勉強」は「努力」は正しくで善だとされる一方で、同じことが明白に「間違い」であり「悪」なのである。

 

ここは大変に重要なことだが、世界には正反対に異なる善悪の軸が存在する。これをきちんと透徹して理解しないと、まさに善悪を見誤ることになる。

 

一方の文明にとっての「普遍的」価値基準として、勉強や努力は明白に「悪」であり徹底して排除すべきものである。それはそもそも文明は何のために生じたのかを考えればわかる。文明は厳しい自然環境から逃れて皆が楽をして幸せに暮らせるように築いたもので、そのようにして進化し、進化しつつある。

 

もちろん何事も理想通りに実現しないとは言え、なるべく苦労せず、ストレスなく、人生を送ることができれば、「文明」の在り方としてそれこそが「正しい」と言えるのだ。

 

だから文明の本義として子供のうちにイヤイヤでも勉強をするのは仕方ないにしても(そうでなければ文明人としての基本が身に付かないから)、大人になってまで勉強なんぞする必要は全く「ない」と言えるのだ。

 

 

大人になってまで、苦労して嫌な勉強をする必要なんかない。嫌な勉強から解放されることが、大人の特権であり、そうでなければ子供の頃我慢して学校に通った意味がない。

 

また、自分が苦労した親が子供に苦労をさせたくないと思うのが「自然」であるように、人は可能であれば「苦労しない」に越したことはない。だから要らぬ努力も勉強もしないで済むに越したことはなく、そのようにして現代文明は進歩してきたのである。

 

ただしこのような、勉強が善か悪かの二分した正反対の価値観は、あくまで二つの「ビット」であって、このビットの組み合わせによって無限のバリエーションを生じる。逆に言えば多様に見える現象も、二つの単純なビットに還元できるのである。

 

例えば、一口に「勉強がしたい」と思っている人のうちでも、その「程度の差」と言うものが存在する。すなわち、自分の全人格を賭けて学問を極めようとするのか?会社を黒字にしさらに経営規模を拡大するために勉強するのか?社会人として必要な一般教養を身につけるために勉強するのか?

 

あるいは自分の趣味領域を極めるために勉強するのか?などなど、それぞれに「勉強は善」「勉強は悪」の正反対のビットが、異なる割合で配合されている。例えば「会社を黒字にしたい」と思って勉強する人は、その目的を超えてまでは「勉強をしたくない」と思っている。

 

これはあくまで図式に過ぎないが、しかし確かに複雑で入り組んだ「ビット」の組み合わせは存在するのである。そう、そして、ビットは人の深層心理にまで複雑に入り込んで作用している。

 

 

 

さてそのような「ビット」の考えを導入すると、とりあえず3つの異なった「勉強のありかた」を提示することができる。この3つは二つの相反したビットの組み合わせの違いに過ぎないから、どれが優れてどれが劣っていると言うことは本質的にはない。

 

そして私自身はこの三つの異なる勉強のありかたを、思い起こせば全て体験してきたのであった。とは言えこの三つにはあくまで本質的な優劣はなく、従って全て体験する必要は全くないと言える。自分の場合はたまたまそうなってしまっただけ、と言うに過ぎない。