アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

文明と宗教

「宗教」についてさらに分かってきたのだが、まず先日、東京国立博物館で見た『快慶・定慶』展について。一般に「運慶・快慶」と並び称される鎌倉仏師の二人だが、それ以前に同じ東博で見た『運慶展』の運慶と、今回見た快慶とそして定慶とは、文字通り雲泥の差があったことが確認できた。

 

快慶は(そして定慶も)確かに上手いのには違いがなく、人物像としては非常にリアルで、特に写真のように人の表情の一瞬を切り取ったかのような生き生きとした表現は、見事だとしか言えない。

 

しかし快慶があくまで「人」を表現しようとしているのに対し、運慶は明確に「人を超えた超人」を現しているのが実に凄いのであり、この差は歴然としている。『運慶展』で私が見た運慶の彫像は、実物の人間のリアリティを超えて、さらに「その先」を表現しようとしており、その点に圧倒されるのである。

 

つまり運慶と快慶とは、いや運慶とそれ以外の慶派の仏師たちとは、たとえ技術的に同等であってもそれ以外の「何か」が違うのである。そしてその何かとは「宗教」であり「信仰心」であろうと直感したのである。

 

いやそもそも運慶も快慶も仏師であり、彼らが彫ったのは芸術作品ではなく宗教的な礼拝物であり、「芸術」とは宗教的な要素から切り離された「純粋芸術」を指すのであり、日本には明治になって西洋からもたらされた概念で、それ以前の日本には存在しなかった…などという「俗説」を信じる人もいるだろう。

 

あるいは、「芸術」や「美術」という言葉はARTという外来語に対して明治になって作られたので、江戸時代までの日本に芸術も美術もなかった…という俗説も同様で、それらの認識は間違っている。

 

なぜなら美術史では「ギリシア美術」「エジブト美術」「キリスト教美術」などという言葉が普通に使われており、それらの作品は当然のことながら宗教的な礼拝物なのである。

 

つまり物事を本質に立ち返って考えようとするならば、美術作品とは本来的には宗教と不可分な存在であり、そのことを運慶の作品は改めて思い起こさせてくれた。いや運慶と快慶の比較によって、そのことが改めて対象化されたのだった。

 

われわれ近代人は忘れてしまっているが、そもそも芸術の根底に宗教が存在するのである。いや芸術だけでなく、そもそも文明の根幹には宗教がある。宗教なくしては文明は成立せず、宗教は文明とともに常に存在する。

 

宗教とは何か?その定義はなかなか難しいが、一つには「文明」が成立するために必要な、各自に内面化された倫理観やマナーは、明らかに宗教の産物である。

 

私の友人で海外青年協力隊の仕事で南米のホンデュラスに赴任した人がいるが、その友人の話ではかの国の国民はおしなべて倫理観もマナーもなっておらず、そうしたものが定着ない地域というのは確かに存在するようである。

 

これに対して日本には、日本に特有の、というより「文明」を成立させるために不可欠な、その意味で普遍的な倫理観やマナーが確固として存在する。

 

文明とは原始時代までの血縁による「群」をはるかに超えた大人数の人々が一つの都市に暮らしながら、自然の脅威から身を守り、食物を生産し分配するシステムだと言えるが、そのような「赤の他人」同士がトラブルなく暮らすには相応の倫理観やマナーが不可欠なのである。

 

この文明に必要な倫理観やマナーを、宗教を抜きにして無神論的に、完全に合理主義として考えようとすると無理があることがわかってくる。合理的に考えれば、法を犯していない限り、誰にも迷惑をかけず、誰も見ていないところで倫理観やマナーに反する行いをするのは構わない、ということになる。

しかし実際には多くの人が、他人が見ていないシチュエーションであっても「良心に基づいた」「キチンとした行」をするもので、それが「内面化」ということである。このような内面化なくして、理屈で考えた合理性だけで「文明」というものを支え切れるものではないのである。

 

だから現代日本においても、多くの人が「無宗教」を自称して特定の宗教を信仰していなくとも、その人が自らの倫理観やマナーで自らを律しようと常にしているならば、その意味での「宗教」なり「信仰」なりが、その人の内に存在していると言って、差し支えないのである。

 

実に今の時代に「宗教」というものを考えると、「キリスト教」とか「仏教」などと言った特定の宗教を信仰するのは、ちょっと話が違うのではないかと思うのだ。そのような私の「思い」は明確なものではなかったが、最近になってようやく見えてきたものがあったのである。

 

それはつまり近代以前と以後では「宗教」のあり方が違っているのである。近代以前は、交通が未発達なので人々は基本的に自分たちがいる土地に縛られている。すなわち中世ヨーロッパの多くの人々にとって宗教と言えば「キリスト教」を指すのでありそれ以外は存在しなかったのである。

 

いや実際にはイスラム教もユダヤ教もあるいは土着の宗教もあったかもしれないが、いずれにしろその地域や時代に固有の宗教を絶対的なものとして信仰し、それに縛られていた。

 

しかし産業革命が起きると交通網の発達に乗って情報網が発達し、ヨーロッパに日本や中国やインドの宗教がもたらされ、日本にもキリスト教はもちろん、それまで日本に入ってこなかったインドの初期仏教などがもたらされるようになった。

 

つまり現代の日本において、宗教を信仰しようと思ったら、まず「仏教」とか「キリスト教」とか「幸福の科学」などの“選択肢”が存在するのである。その選択肢は近代以前には存在せず、キリスト教の家に生まれた人は基本的にキリスト教一択なのが近代以前だったのである。

 

さてそのような選択肢を前にして、「では私はキリスト教を選択しよう」とか「私は仏教を選択しよう」などと決定するのは、どうも違うような気がするのだ。

 

私は自分が美術家だと言うこともあって、美術と不可分とも言える宗教全般に興味があって、キリスト教にしても仏教にしてもその他の宗教にしても、それなりに独学で勉強してきたのである。しかしだからと言って、そのうちどれか一つの宗教を選択して信仰するというのは、どうも話が違う気がするのだ。

 

そこであらためて気づいたのだが、現代において宗教や信仰は、本質的に「抽象化」されているのではないだろうか?先に示したように現代日本人の多くに宗教心、信仰心は見られるものの、それは「仏教」とか「キリスト教」などのように特定化、具体化がされずに抽象化されているのである。

 

これもあらためて気づいたのだが、マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と近代資本主義の精神』を読んで、同時に京セラ会長の稲盛和夫さんのビジネス書などを同時に読むと、近代資本主義というものそれ自体が一つの「宗教」として機能していることに気付くのである。

 

いやヴェーバーによると、近代資本主義の精神からは、その元となったプロテスタンティズムの信仰心は抜け去ってしまったとされているが、僭越ながら私が見たところではそうではなく、近代資本主義の精神そのものが、抽象化された信仰心を形成しているのである。

 

そもそも『プロテスタンティズムの倫理と近代資本主義の精神』という書物自体に、ヴェーバーその人の非常に篤い信仰心が現れているように私には思えるのである。つまりこの本でヴェーバーは、学問としての倫理と誠実さに基づいて、かなり慎重な帰納法を駆使して論を進めている。

 

同時にヴェーバーは、勝手な思い込みや決めつけによって杜撰に論を展開するような、言ってみれは「学問にとっての不信心者」に対し折に触れて苦言を呈しているのである。

 

だから近代資本主義の根幹に、キリスト教由来の信仰心が存在すると言うヴェーバーの指摘は、「文明」の本質から鑑みて全くもって正しいと言えるのだ。そしてその指摘は、ヴェーバー自身の信仰心に由来する真摯な学問的な態度とも重なる、というのがこの本の真髄でもあるのだ。

つまり芸術の根幹には宗教が存在し、学問の根幹にも宗教が存在する。なぜなら文明の根幹に宗教が存在するからである。それでは商売はどうなのか?と言えば、実は事情がちょっと異なる。ヴェーバーが指摘するように、商売そのものは古代から存在し、プロテスタンティズム以前にも資本主義は存在した。

 

良く知られるように、古来からユダヤ人は商売熱心で、それ故に差別されていたくらいなのである。しかしヴェーバーによると、ユダヤ人の商売熱心は「近代」資本主義を生み出すには至らなかった。

 

なぜか?と言えば、ユダヤ人は教義によって金儲けや金貸しを「禁じられてはいなかった」、だからそれらに従事することができた。しかしだからと言って、ユダヤ教が金儲けや金貸しを「推奨」しているわけではなかった。

 

つまりユダヤ人の商売は宗教的な例外として「宗教の外部」で行われていた。これに対してプロテスタンティズムの精神は、宗教としての中心的な信仰心を資本主義の中に折り込んでしまった。そのようにして資本主義そのものが宗教化し、文明の根幹をなす宗教となったのが近代資本「主義」なのである。

 

だから私がこれまで読んでこなかった稲盛和夫さんのビジネス書を読んだり、キミアキ先生のビジネス動画などを見ると、彼らがいかに「宗教者」として生きているかがよく分かる。

 

稲盛さんにしてもキミアキ先生にしても、まず「社長」と言われる人たちに向かって話をしているのが特徴である。そして共通しておっしゃることは、社長業は決して楽ではなく、誰よりも長く働いて休みもとらず常に人一倍勉強して努力する存在なのである。

 

だからネットに出回っている情報商材の謳い文句にあるような「楽して儲ける」というような思想とは全く異なっている。社長とはまずひたすら稼ぎを増やし続けようとする存在だが、同時にそのための度量を惜しまず、そのために全人生を捧げる覚悟のある人を指す。

 

社長になるような人は、能力面においても、それ以上に精神面において「特別な人間」であり、そのような社長が「普通の人々」である従業員を養いながら、なおかつ世の中に広く役立つような尊い目的のための仕事を成そうとする、つまりそのように文明の形成に寄与するのが「社長」という存在なのである。

 

しかしいかに稲盛さんやキミアキ先生やその他の社長さんのあり方が信仰心に篤い宗教者のようだとしても、この方たちが直接に宗教を語ることはもちろん決してない。なぜなら今の時代はそのように宗教が抽象化されているからである。

 

現代の抽象化された宗教、それこそが「無宗教」と呼べるものではないか?実はあらためて調べると「無宗教」と「無神論」は別の概念なのである。

 

無神論とは積極的に「神」の存在を否定する思想であるのに対し、無宗教は神の存在を一概に否定しないものの特定の宗教への信仰をしない、消極的で保留的態度である。

 

しかしどうも現代の「社長」と言われる人々をみると、この「無宗教」の精神にかなり積極的に突き動かされているように思えてしまうのである。

 

さてここであらためて「宗教とは何か?」を考えてみたいのだが、ヴェーバーを読むと、とにかく近代以前のプロテスタントは「予定説」という現代の我々からみてもかなり珍妙な説、それこそ脅迫神経症とも言える理論を本気になって信じて、それに縛られて一生を終えていたのである。

 

ちなみに予定説とは、神様は人がそれぞれ死後に天国へ行くか地獄に行くかをあらかじめお決めになっており、しかもその決定は人間には知ることが出来ず、その運命を変えることはできない。だから人は自分が死後に天国へ行けることを確信するために、神の意にかなった正しい生活を送らなければならない。

 

…と、そのように荒唐無稽な強迫観念を生きていたのである。それはスペインに滅ぼされるまでアステカ帝国の人々が、太陽の落下を恐れて神に生贄を捧げ続けていたのと本質的に変わりはない。

 

ともかくレヴィ=ストロース的に言えば、各時代の各地域におけるそれぞれの文化の人々は、それぞれにお互いが荒唐無稽で珍妙と思えるような世界観を生きているのである。

 

なぜそのような状況になるのか?それを根本に遡って考えるならば、人間とは本質的に自分が何のために生まれてきたのか?どのようにして生きていけばよいのか?を全く知らないでいるのだ。

 

それは全くアンパンマンの歌そのものだが、さすがやなせたかし先生の作詞だけあって、人間の本質が鋭く捉えられている。人間は「本能が壊れた動物」だとも言われ、なおかつ自己意識がある。だから「なぜ生まれたのか?どう生きるのか?」という悩みも生じる。

 

いや環境が厳しく生きるのに忙しければ、そんな余計なことを考える余裕はないかもしれない。しかしレヴィ=ストロースの調査では、ある未開部族は食物や薬として有用な植物を細かく分類して生活に役立てると同時に、全く有用性のない爬虫類も精密に分類している。

 

つまり人間は少しでも暇ができると何をやっていいのかが分からなくなり、爬虫類の分類などの余計なことをつい始めてしまうのである。まして文明人の大半は、厳しい自然環境では本来生きられなかった人々であり、生まれてくるはずのなかった人々なのである。

 

そのように本来的に「余計な存在」である大半の「文明人」は、なおさら「何のために生まれ、何をしていいのか」が分からない。そこでそのような人々の疑問に応える形での「宗教」が生じるのである。

 

稲盛和夫さんやキミアキ先生のような「社長」たちが、飽くなき金儲けを追求しようとするのは、究極的には合理的理由は存在しない。あるのは「何のために生まれどう生きるのか?」という疑問に答えを与える「無宗教」への篤い信仰心で、それは現代文明の根幹をなす「主流としての宗教」の系譜なのである。