アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

常識と支配

常識とは何か?哲学をやって分かることは、人は面白いほどに常識に捕らわれる。ごきぶりホイホイのネバネバした粘液に捕らえられているにもかかわらず、「私はこの家に住んでいる」と言い張る、常識に捕らわれた人はそのようなものである。

デスモンド・モリス『マン・ウォッチング』を読んでいるが、被支配者層はどれほど支配者層の悪口を言って非難しようとも、基本的には被支配者層の存在を望み、支配されることを望んでいる。そして同様に人びとは「常識」というものに支配されたがっている。

常識は人びとによって作り出される。それは人びとによって支配者が作られるのと同様である。人びとは支配者に支配されることを望み、常識に支配されることを望み、その望みを叶えられるようなものを共同で、つまりは同調圧力によって作り出すのである。

大多数の人びとの「他者に支配されたい」という欲求が、「文明」を成立させている。同じように大多数の人びとには「常識に支配されたい」という強烈な欲求が存在する。それを別の言葉で表現すれば「同調圧力」と言うことになり、文明とは一面では同調圧力によって成立する。

同調圧力」はさまざまな弊害があるとしても、基本的に分明とは人びとの同調圧力によってその形を保っていられるのであり、同調圧力が解体されれば国家も解体されてしまうのである。

福澤諭吉の『脱亜論』『朝鮮独立党の処刑』など読むと、江戸から明治へと近代化を成し遂げた当時の日本国は「同調圧力」を高めることでそれを成し遂げたことが分かる。これに対して同時代の朝鮮や清国は、国内が社会階層や派閥によって分裂し、近代化できるほどの「同調圧力」を高めるに至れなかった。

さて常識であるが、常識とは実に「神」の位置を占める。常識そのものが、一つの宗教なのである。なぜならデスモンド・モリスによれば、人間は人間に支配されることに飽き足らず、人間を超えた存在である「神」を作り出し、その「神」に支配されることを望んだのである。

人びとはとにかく飽きもせず常識的言説を至るところで繰り返しなぞる。その、常識を繰り返しなぞるという宗教的行為によって、文明としての外壁が維持され続けるのである。そこには何のクリエイティビティも存在しないが、むしろクリエイティビティが不要の領域が確かに、そして広範に存在する。

人びとは基本的に変化を求めず、変化を憎み恐れ、変化の兆しを出来るだけ早期に発見しこれを摘み取ろうとする。そのいっぽうで近代人は、常に変化を望んでいる。人は変化を望まず、同時に変化を望んでいる。そして芸術家にとって、人びとがいかなる変化を望み、いかなる変化を望まないか?が重要となる

大枠として、人びとは支配者に支配されたがっている。つまり支配者が変化を望まなければ人びとも変化を望まず、支配者が変化を望めば人びとはその変化を受け入れる。しかしこの場合の支配者とは、あくまで人びとによって望まれ、人びとによって認められた支配者でなくてはならない。

人びとによって認められた支配者とは何者か?多くの人は「支配者のディスプレー」を示したものを「支配者」として認めるのである。これもデスモンド・モリス『マン・ウォッチング』に根拠がある。『老子』第一章に「多くの人は物事の表面しか見ない」と書かれたのはこのディスプレーを示している

デスモンド・モリス的に見れば、大衆に「芸術家」として認知されている人はみな一定の方法によって「私は芸術家である」というディスプレーを人びとに示している。つまり大衆にとって重要なのは「かたち」であって、表面的な「かたち」だけしか認識できないのが大衆なのである。