アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

休息と暇つぶし(ニーチェ『ツァラトゥストラ』読みながらTweet)

哲学とは先ずなりより学ぶものであるが、自分なりに学ばなければそれは哲学にならない。つまり学校の勉強のように哲学について「皆と同じこと」を学ぶのを哲学とは言わない。

哲学の本質の一つは「変容」であり、例えばニーチェの哲学にしてもニーチェの意図通りに理解される事はあり得ず、必ず読む人によって変容してしまう。その場合、変容するのは読んだその人自身であって、その人自身が哲学によって変容しなければ哲学とは言えない。

哲学にとって重要なのは「それを語るのは何者なのか?」であり、哲学的でない人間がいくら哲学を語ってもそれは哲学にはならない。「哲学的でない人間」とは何かと言えば、新約聖書で示されたパリサイ人のような人を指す。パリサイ人はいかなる時代にも、いかなる分野にも現れ人々を惑わす。

パリサイ人は宗教者の偽物であり、芸術家の偽物であり、哲学者の偽物であり、その他「基準のハッキリしない」あらゆる分野に存在する。基準のハッキリしない分野にあって「ハッキリした基準」を示してその分野に居座るのがパリサイ人の特徴であり、だから多くの人が騙される。

科学の分野においてパリサイ人が存在するのは難しい。なぜなら科学は「真偽の基準がハッキリした分野」だから。しかし考えてみれば科学にも真偽のハッキリしない領域があり、そこにパリサイ人につけ入れられる余地がある。原発や精神医療など、他にもあるかもしれない…

人々の共感をぶっちぎるところに哲学の喜びがある。人々の共感をぶっちぎって上昇するところに哲学の快感がある。だからこそ芸術は哲学を幹とするその枝葉と言えるのである。

共感が生み出すものは再生産であり、それは退屈極まりなく堪え難い。結局のところ「哲学」の対義語の一つは「退屈」であり、だから「芸術」の対義語もまた「退屈」なのである。

結局のところ、哲学も芸術も「暇つぶし」に過ぎない。人間の本質とは、生まれながら何をして良いのかわからず、暇で暇で仕方がなく、どうにかしてこの暇を潰そうとする。この暇つぶしに最高の頭脳を使おうとするのが哲学であり芸術なのである。

例えば単に腹を満たすためだけでなく、美味しいものを食べればそれが「暇つぶし」になる。だから毎食同じものを食べると腹は膨れるが「退屈」になって耐えられなくなる。食べることが「暇つぶし」であるなら毎食の「変化」が重要な要素となる。

食べ物に関してはもう一つ、より美味しいものの味を知ってしまうと、不味いものが退屈に感じられるようになる。不味いものの正体は「退屈」であり、美味しいものの正体は「暇つぶしのネタ」である。優れた料理人は客に優れた「暇つぶしのネタ」を提供する。そうでない料理人は「退屈」を客に食わせる。

「暇つぶし」には実に結構なエネルギーが使われる。哲学をするにも、芸術をするにも、精神的にも肉体的にも結構なエネルギーが必要で、それをすると消耗し疲労する。だから人間にとって必要なのは「暇つぶし」と「休息」なのである。

人は「暇つぶし」をするとエネルギーを消耗して疲労し「休息」を必要とする。しかし休息するとだんだんに「退屈」になり、再び「暇つぶし」がしたくなる。そのサイクルで人間は動いている。

人間は本質的に暇を持て余した存在であり「暇つぶし」を必要とする。しかし「暇つぶし」はエネルギーを消耗し、だから「休息」が必要となる。そしてここが重要なのだが、人々の多くがエネルギーを消耗するような「暇つぶし」を望んでいないのである。

実に多くの人がエネルギーを消耗するような「暇つぶし」を望んではおらず、ただひたすら「休息」のみを求めている。多くの人が実に人生に退屈などしておらず、ひたすら「休息」を求めている。人々が求めているのは休息としての哲学、休息としての芸術、休息としての宗教、休息としての食べ物…である。

「休息」を望んでいる人に「暇つぶし」を与えても意味がない。例えば疲れて休んでいる人に対し「卓球やろうぜ!」と誘っても意味がない。

疲れて休んでいる人は、当然のことながらアクションを望まない。そして哲学することも、芸術することも「アクション」なのである。ところが哲学や芸術にとって「再生産」が退屈であるように、「再生産」とは「アクションではない」のである。だから「休息」を求める人が望むのは「再生産」なのである。

人々に「暇つぶしのネタ」を与えようとするのは間違いであり、多くの人はそのようなものを望んではいない。多くの人は退屈を感じる以前に疲れているのであり、暇つぶしよりも「休息」を何よりも求めている。人々は暇つぶしには一円も支払わす、休息のためにはいくらでも金を出す。