アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

自明とブリコラージュ

近代になると、人が住む環境が猛烈な勢いでかつてなかった規模の「人工物」で埋め尽くされるようになり「芸術」が相対化されます。また工業技術の発達に伴い「つくること」の最高峰であった芸術の価値も相対化され、これによって様々な錯誤が新たに生じるのです。

シュールレアリスムの手法であるデペイズマン(異質なものの出会い)も近代だからこそ可能になったと言えます。いや近代以前にも人の頭に獣の体が組み合わさったスフィンクス像などがあったのですが、近代のデペイズマンは膨大な人工物を背景にそれが行われるようになったと言えます。

デペイズマンも、近代における原始回帰願望の反映のひとつなのかもしれません。レヴィ=ストロースはブリコラージュを「野生の思考」としたのです。ガラクタを組み合わせて新たな道具を手作りするブリコラージュは、原始回帰への欲望なのです。

私のカメラ改造はブリコラージュで、原始への回帰が確かに含まれるのですが、それだけではありません。私のカメラ改造はあくまでカメラ史と写真史、美術史の系譜を辿ってその上に位置付けようとしてるのです。原始とは異なる文明の意味の一つが系譜なのです。

文明は人々を自然の脅威から守るシステムだと言えますが、そのために人々をさまざまな形で反自然的・人為的に抑圧し、人々はこれに反発し原始への回帰を欲望するのです。自然を排除した文明に守られながら、その範囲内で自然に回帰することを望むのです。

そこでデペイズマンとは何かというと、文脈の切断、系譜の切断、という野蛮がそれによって行われるのです。写真術以後の現代美術の一分野のシュールレアリスムは、そのような文明からの開放感を観る人にもたらすのです。

赤瀬川原平超芸術トマソン」も原始回帰願望の産物で、なぜこれが「超芸術」とされているかと言えば、赤瀬川さんは芸術をデペイズマンに還元しており、人為的にではない理由により生じたデペイズマンに対し「超芸術」と言っているに過ぎないのです。

いや赤瀬川さんは、トマソン超芸術の一分野であって全てではないはずだと述べていますが、しかし「人為」と「超越」を問題にするならフロイトの無意識について触れなければならないし、宗教や哲学も問題になるはずですが、赤瀬川さんはそのような問題の掘り下げ方はしないのです。

超芸術トマソン」においては「芸術」「超越」「前衛」などの各概念が自明化され、反省的に分解されない「自明」と「自明」とがブリコラージュされ、そのように原始に回帰した理論としての呪術的な神話となったのであり、故に同じ呪術を信じる者にしか通用せず普遍性を持たないのです。

レヴィ=ストロースはブリコラージュの概念をエンジニアリングと対置させましたが、ブリコラージュの真の対義語は哲学であったのです。フッサールが科学者を素朴だと批判した通り、エンジニアリングにもブリコラージュの要素が含まれています。

つまりエンジニアリング=科学的思考は《現実界》に属しており、《現実界》だけの思考では《象徴界》に属する要素がブラックボックス化=自明化し、必然的にブリコラージュ的になるのです。

赤瀬川原平さんの著作はいろいろ読みましたが、どれも「自明」と「自明」とを組み合わせたブリコラージュによって書かれています。そう思うと哲学の入門書や解説書もことごとくブリコラージュの産物であり「自明」の中身を解体することなく、自明と自明とを組み合わせ、だから「一般の人」にも分かりやすいのです。

哲学の意味の一つは自明性の解体で、だから自明性を生きる一般の人にとって「難解」とされるのです。ですから一般の人にも分かるよう書かれた哲学の入門書や解説書は、自明性を解体することなしに、レヴィ=ストロースが言うところの「神話」を形成するのです

神話は人々に「夢」を見させますが、哲学の入門書や解説書は読者に「哲学が分かった」という夢を見させるのです。しかし夢はあくまで夢でしかなく、現実の哲学は夢とは全く異なっているのです。

私は自分が読んできた思想や哲学の入門書を「くだらない」と気付き、ある時ほとんど捨ててしまったのですが、しかし自分の過ちを意味のある経験に転化させる為にも、それが何であったかの見直しは必要なのです。それでさっき書店で内田樹『寝ながら学べる構造主義』の前書きを、立ち読みで読み返してみたのです。

この前書きで「専門書は大抵つまらくて、入門書は面白い者が多い」と述べられてますが、この場合の「専門書」が何なのかという具体性が曖昧に書かれているのでした。内田樹さんの書き方によると世の中には「専門書」と「入門書」の二種類しか存在せず、その上で入門書の優位性を説いているのです。また専門が扱う問題は瑣末で非本質的で、普通の人が抱く素朴な疑問こそ本質を突いていると断言しているのです。

改めて捉え直すと、入門書を書く人は売文業を営んでおり、そのためお客さんに媚びを売る文章を書いているのです。それで内田樹さんは「専門家」を批判することで、入門書を読もうとする素人のお客さんを持ち上げ、ついでに入門書を書く同業者たちも持ち上げ「入門書」という市場を共に形成しようとするのです。 

同じようなことは高田明典さんの本を読み返した時にも感じましたが、「入門書」を生業とする人はお互いに協調して「入門書」の市場を形成し、「入門書を読むような素人」を入門書から入門書へとたらい廻しにし、そのを「門」から一歩たりとも出ないよう永久に閉じ込めてしまうのです。

哲学の入門書は全く無意味ではないはずですが、ある種の入門書は入門書から入門書へたらい廻しにし、決して「哲学」そのものに入門できない仕掛けがされていて、注意が必要です。もっとも入門書の読者全てが本当の意味で哲学に入門したいとは限らず、多くの場合入門書はその需要に応えているのです。

そうです、これは一つには商売上の話であるのです。人々の知的水準をある程度以上に高めないことによって、商売をする人達がいるのです。私がかつて親しんだ赤瀬川原平さんや内田樹さんは、分野は違っても同じような意味での商売人であり、私は「いいお客さん」であったのです。

結局のところ内田樹さんは『寝ながら学べる構造主義』で「自分の知らないところから出発して」と書きながら「自分の知っていること」と範囲から一歩も外れることなく、そのような「詐術」を使って商売をされている。しかし私はそれを非難するつもりはなく、添加物の多い市販の食品も認めてるのです。

つまり誰にも分かる言葉で書かれた入門書とは魚肉ソーセージやレトルトカレーやコンビニのスイーツみたいなもので、だから子供はこういう食べ物が大好きなのです。本物のインドカレーを食べると辛い上に普通でいう「カレー」とは全然味が違ってびっくりしますが、これに慣れると日本のカレーは甘ったるくどれも個性がなく、不満を感じてしまいます。入門書も同じです。