アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』読みながらtweet

誰のアドバイスも信用できない。なぜなら誰の判断にもバイアスがかかって間違っているからである。では自分の判断はどうか?と言えばこれもバイアスがかかって間違ってる。ではバイアスを取り除いた判断はどのようにすれば良いのか?判断、つまり未来の予測ができると判断することがバイアスなのだ。

判断とはつまるところ未来予測であり、だから自信を持って判断を下すことは間違っているし馬鹿げている。

あらゆる判断は「賭け」であり、その意味で人は常にさまざまなギャンブルを行い、こまめに勝ちを重ねてなんとか生き抜いている。

あるいは人間のやることなすことは全て「実験」なのである。すでに繰り返し行って結果が目に見えている事柄についても常に検証のための実験を繰り返す。

他人のアドバイスとは、「新たな実験の提案」なのであり、その実験がどのような結果をもたらすのか誰もわからないし、その実験を実行するか否かは失敗のリスクを背負った自分自身が決断しなくてはならない。

 

 

統計(とうけい、statistic)は、現象を調査することによって数量で把握すること、または、調査によって得られた数量データ(統計量)のことである。統計の性質を調べる学問は統計学である。

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ヒューリスティックとは、必ず正しい答えを導けるわけではないが、ある程度のレベルで正解に近い解を得ることができる方法である。ヒューリスティックスでは、答えの精度が保証されない代わりに、回答に至るまでの時間が少ないという特徴がある。

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人々は誰でもそれぞれに「判断材料」と言うものを持っている。人はこの「判断材料」によって日々の、そして時々のギャンブルに勝利する確率が上がるのだと信じている。

ところが多くの場合、この「判断材料」がかえって勝利の確率を低下させる要因となっている。具体的には例えば多くの人は「負け」が込んで貧乏な状態にある。このような「判断材料」に間違いをもたらす要因が「偏見」、すなわち「現実離れした統計の偏り」である。

多くの人は事物を漠然とした統計のイメージとして捉えている。それは漠然としたイメージだからこそ判断材料として利用しやすい一方で、それは所詮「イメージ」なだけに現実との一致がなんら保証されない。

「統計のイメージ」は利用可能な手近な判断材料によって形成される。そして「利用可能」で「手近」であることが、統計の確からしさを保証する、と多くの人が錯誤している。

なぜなら、手近な判断材料とはそれ自体が「直接知覚」であり、人は自分が直接見聞きしたものにリアリティを感じるからである。すなわち現実そのものの認識ではなく、あたかも現実であるかのようなイメージを受け取り、それを現実と錯誤する。

現実と錯誤させるものがイメージである。イメージを、現実とは異なるイメージとしてイメージする場合、そのイメージは現実に根差している。つまり現実に根差していないイメージが「現実」と混同される。

「現実」と「イメージ」が二重化して捉えられなければイメージを「イメージ」として捉えることはできない。世界を一重化して捉える人にとって現実とイメージの区別はない。

人は「類似性」に惑わされて判断を誤る。

「時間」の感覚が異なる二種の人間が存在する。短期的な視野と普遍的な視野と…この両者を調停することはできない。

けっきょく人は、大きな賭けに出る人と、賭けにならないような小さな賭けしかしない人とに分かれる。小さな賭けとは安全な賭け、無難な賭け、負ける確率が少ないとされる賭け、勝っても儲けが少なく、負けても失うものが少ないと思われる賭け…

いわゆるギャンブルとは「ギャンブルの外在化」あるいは「ギャンブルの二重化」である。そもそも人間にとって生きることそのものがギャンブルなのである。その生きることのギャンブル性が小規模に模型化することで対象化され、外在化され二重化されたものがいわゆるギャンブルなのである。

貨幣経済社会において、金を得ることが生きることに直結している。だからあらゆる意味において金を得ること自体がギャンブルなのだ。例えば会社員として安定した職についていたとしても、いつ会社が傾くかもしれず、いつ自分を辞める事になるかも知れず、究極的にはギャンブルなのである。

他人より多く金を儲けるには?他人より楽して儲けるには?自分の好きなことして儲けるには?このようなことが可能になるためには自らが「金儲けの専門家」にならなければならない。どの分野でも専門家は経験を積むことで「勘」を養い、素人には不可能な高度に総合的で確実性の高い判断を可能としている

「金儲けの素人」を雇って養うのが会社の役目。

積極的、主体的に経験を積み重ね、失敗を何度も経験しなければ「専門家」にはなれない。そのようにして専門家は素人が感知できないような「些細な兆候」を読み取る勘を養い、その能力によって「専門家」として生きて行くことが出来る。

しかしこれはあくまで概念的な理想であって、現実的には「専門家」と自称する大半の人が自分の能力を過信して、盲目的に間違いを繰り返している。

だから究極的には自分自身が自分の専門家になるしかないのだが、多くの人が自分自身の専門家ではなく、だから誰か他の「専門家」に自分自身を任せているのだが、しょせん他人の専門家に自分のことが分かろうはずもなく、間違った判断をされた挙句それに満足されられている。

困難に対し何の勘も働かず、どうして良いのか分からずに立ち往生しているなら、その人には才能が無いのではなく、経験の蓄積が無いのである。

「好き・嫌い」の感情によって人間の判断は大きく左右される。にも関わらず、多くの人がこの、「好き・嫌い」の感情が何であるのか?について非常に無頓着である。つまり「好き・嫌い」の感情そのものが、それについての認識を阻害しているのである。