アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

顕教と密教

以下、空海の『三教指帰(さんごうしいき)を読んで連続tweetしたまとめです。

空海「三教指帰」―ビギナーズ日本の思想 (角川ソフィア文庫)

空海「三教指帰」―ビギナーズ日本の思想 (角川ソフィア文庫)

 

密教顕教、「密教」と言う概念は「大乗」仏教だからこそ生じ得た概念で、大乗仏教は「誰にでも教えられる教え」と言う前提があるから、だからこそ「誰にでも教えられるわけではない教え」の存在が対比として顕在化する。

 

仏教に限らず、一般的に人間は物を覚えることができる存在であり、従って人には物を教えることができる。それと同時に多くの人には教えられないけど、ごく一部の人間だけに教えられる事柄がある。それは端的に言えば人間の能力には「共通性」があると同時に「差異」も存在すると言う「事実」による。

 

哲学とは本質的に密教なのだが、大乗仏教が哲学を顕教化した。顕教とは「誰にでも理解可能な教え」でだから教えが誰にとっても顕在化している。

 

一方で密教とは、ことさら人々の目から隠蔽されていなくとも、一般に「難解な哲学は読めない」と言われているように、実際に多くの人からその内容は閉ざされている。

 

密教とか、秘密教義とか、秘奥教義などと言うと何か神秘的なイメージを持たれるかもしれないが、それはあくまで「顕教側のイメージ」であって、当の密教を実践している側としてはそんなつもりは微塵もない。

 

密教はつまるところ「自明性」を疑う知的営みに他ならない。しかし多くの人は「自明性」を疑うことを最も嫌うのである。これは非常なストレスを伴う行為で、このストレスに抗して知的行為を行うことを「密教」、ストレスを回避しながら知的行為を行うことを「顕教」という。

 

人は自分が嫌だと思うことに対し目を背け認識しない。そのことによって密教は必然的に多くの人から隠されることになり、実質的に「密教」となる。

 

実は、現在の日本では大学の哲学科を出ていなければ一般に哲学者と認められないし、さらに言えば大学で哲学科の教授をやっていなければ哲学者とは認められないが、このように経歴や立場と哲学とを紐づけるこの認識こそが「顕教」なのである。

 

純粋に密教的な認識をすれば、その人の学歴がなんで職業がなんであるかは関係なく、ただその人の「教え」を聞けば、その人が「何者」であるかが認識できるのである。

 

しかし「多くの人」にとって、その人が何者なのか?その内容のレベルが上がるほどに認識不可能になる。そこで「顕在化」した属性であるところの出身校や職業が認識の材料となる。

 

それは「教える」側の人間もそうで、自分が有名大学の哲学科を卒業し、大学の哲学科教授になるという、その「顕在的な認識材料」によって、自分を哲学者であるというふうに認識する。

 

しかし本来の、最初に大乗仏教を唱え始めた人たちは「顕教」と「密教」とを使い分けていたはずで、だからこの概念が言葉としても生じたと考えられる。

 

この「密教」と「顕教」の使い分けは、少なくとも日本の哲学界ではもうされていないように思えるが、しかし工業製品においては開発サイドが密教であり、ユーザーサイドが顕教であるという具合に、この二者の区別はさまざまな分野に存在するように思われる。

 

ただしこの「密教」と「顕教」の区別がなくなり、もっぱら「顕教」だけとなった分野は「終わっている」と言える。その意味で日本の哲学も現代アートも「終わっている」。この二つの分野において顕在化した目に見える徴(しるし)以外の何ものをも人々は認めようとしない。

 

密教顕教のフィルターを通して顕在化するとこのような「イメージ」として現れるが、この構造はオウム真理教と全く同じである。
https://www.cmoa.jp/bib/speedreader/speed.html?

www.cmoa.jp

 

本当の意味での密教僧がいくら真面目に授業したところで、金銭や名声はじめとする世俗的な成功を手に入れることが出来ない。

 

本来、顕教の思想の根底には金儲けではなく救済の思想があった。つまり密教僧を理解せず認識せず差別し排除する側の人々を「救済」する思想、これが密教僧が顕教を使用する本来的な動機となる。

 

密教僧は自ら学んで修行するが、文字通り人々に教えることは「何もない」。だから密教僧がその他の人々と関係をとり結ぶとしたらそれは「救済」しかあり得ない。だが一体、密教僧は自らを理解せず認識せず差別し排除する人々を一体何から救済しようというのか?…

 

いや確かに、多くの人が現世で苦しんでいるのであり救済を求めている。そして密教僧も同じく苦しみ、だからこそ自己救済のために授業する。しかし密教僧がそのように体得した「教え」のことごとくを人々は断固として拒絶する。そこで密教僧は自らの教えを「顕教」として変換する。

 

実に万人は「救い」を求めているのではないか?つまり密教僧の修行もつまるところは自己救済に違いなく、しかしその「救い」は多くの人々が求めている救いとは異なっているために「密教」なのである。

*下記、同日に撮影した関連動画です。Twitterで書いたのと同じ内容をしゃべろうとしたのですが、それができずに違う内容になってしまったので(笑)、ぜひご覧頂ければと思います。


顕教と密教/大乗と小乗①




密教と顕教/大乗と小乗②


顕教と密教/大乗と小乗③