アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

エックハルトとヤージュナヴァルキア

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昨日で終了の『切断芸術運動展』隣で開催されてた『エピクロスの空き地』展のチラシにどこかで読んだ言葉が引用されてると思ったらエックハルト『神の慰めの書』で、私はヴァンだ一成さんに借りて読み「離脱」の言葉に感銘を受けた筈が忘れていて、これを思い出させてくれた事に感謝しなければならない 。

エックハルト『神の慰めの書』が手元に無いのだが、検索すると「離脱」とはひとつには「被造物からの離脱」として確かに説かれていた事を思い出す。

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「被造物からの離脱」に相当する教えはキリストやそれ以前の古代ギリシャ哲学や、古代中国の諸子百家でも説かれているが、私が思い出す範囲で最も見事なのは古代インドの仏教以前の哲学者、ヤージュナヴァルキア殿のエピソードである。

思い出しながら概要を書くと、ある時王様が多数のバラモンを集めて「この中で最も知恵のあるバラモンに金塊を角にくくりつけた牛100頭を褒美のして与えよう」と言った。

すると、バラモンの一人であるヤージュナヴァルキア殿が「それではこれは私がいただきます」と当然のような態度でそれを持ち帰ろうとしたところ、他のバラモン達から「あなたはなぜ自分が最も知恵があるバラモンだと言い得るのか?」と次々に問答を仕掛けられる。

これに対しヤージュナヴァルキア殿はことごとく論破して自身が真に卓越していることが証明されてしまう。

これで分かることは、「被造物からの離脱」とは被造物の拒否ではなく、被造物に「こだわらない」事であり、だからこそ莫大な財産をくれると言われればありがたく頂戴し、なおかつそれに執着しないでおられるなら、それこそが真に「被造物からの離脱」だと言えるのである。

「被造物からの離脱」とは金持ちが財産を捨てること(喜捨)では必ずしもなく、本質においては金持ちであろうが貧乏人であろうがその人のあるがままの状況において誰もが「被造物からの離脱」を行うことができる。これがブッダ以前に栄華を極めた古代インドのバラモンの教えなのではなかろうか。