アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

麻原彰晃を評価した吉本隆明

吉本隆明は、戦後日本を代表する思想家などと言われてますが、私はこれまで一冊も読んでこなかったのでした。

ところが「吉本隆明麻原彰晃を擁護していた」ことを小耳に挟み、改めて興味を持ってネット検索してみたのでした。

するとウィキペディアがヒットして、その中に「オウム真理教評価について」と言う項目がありました。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/吉本隆明

これによると吉本隆明は、地下鉄サリン事件の“後”に「宗教家としての麻原彰晃は評価する」と産経新聞上でのインタビューで答えていたそうで、遅ればせながらかなり仰天し、また呆れてしまいました。

私自身は、以前にFacebookでも明言した通り、麻原彰晃は宗教家としてはインチキの詐欺師に過ぎないと思っており、ですからこの問題について改めて考えてみたいと思います。

ただ、ウィキペディアに記載されているのは吉本隆明の発言のごく一部でしかありません。

そこでさらに検索したところ、産経新聞の記事は見つかりませんでしたが、1995年9月に東京夕刊に掲載された連続対談をアップしてくれた方がいたのです。

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【宗教・こころ】吉本隆明氏に聞く(1)弓山達也氏と対談 [1995年09月05日 東京夕刊]
 ◆麻原被告を高く評価 犯罪は否定、宗教は肯定
http://www.asyura2.com/sora/bd5/msg/733.html

あらためて読んでみると、これも全く馬鹿げた内容で呆れてしまうのですが、中でも次のような発言をされています。

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吉本「僕は思想家麻原を評価する根拠が一点あるんです。それは『生死を超える』という本の前半部で、麻原さんが修行の過程と段階とをとても実感的に説いていて、はっきり体験的に表現している点です。仏教系の経典とか本とかで、日本の奈良朝までの修行僧が、何をやっていたのかは『生死を超える』を読むと、ああこういうことをやっていたんだ、ということが全部言われてしまっています。僕は『生死を超える』という本は『チベット死者の書』や仏教の修行の仕方を説いた本の系譜からいえば、相当重要な地位を占めると思っています。あそこまで言ってしまったら、仏
教の修行の秘密や秘密めかしたところが何もなくなってしまいます。つまり、相当な人でないとここまでやれないよ、と思うのです。やっぱり相当な思想家だと思います。」

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ここまで言われると、麻原彰晃の『生死を超える』を読んでみたくなるのですが、ダメ元で検索してみると、なんとこの本がPDFファイルでアップされているのです。

http://info.5ch.net/images/8/8c/生死を超える.pdf

それで前半部分をざっと読んでみたのですが、これもまぁ、呆れるほどバカらしいものでしかないのです。

何が馬鹿らしいのか?端から指摘して行くとキリがないですが、ざっくり言えば吉本隆明麻原彰晃も、仏教の何たるか、宗教の何たるか、思想の何たるかをまったく理解できていないように私には思えるのです。

その意味で二人は同じ穴のムジナであって、だから吉本隆明麻原彰晃を高く評価したのです。

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それでは仏教とは何か?オウム真理教は仏教として何が間違っているのか?

私の場合「仏教とは何か?」を考える上で、現存する最古の仏典とされる『ブッダのことば(スッタニパータ)』(中村元訳/岩波文庫)に遡って捉えようとします。

この方法は、彦坂尚嘉先生の影響ではありますが、何でも最初に遡って読むことが、物事の本質を考える上での近道なのです。

さて、仏教の開祖とされるブッダ(ゴーダマ・シッダッタ)は自分では文章を書かずに、従ってブッダの教えは口伝によって弟子へと伝えられ、のちの時代の人々に受け継がれて行ったのでした。

そして、しばらく経ったある時から、言い伝えが文字によって書き留められるようになったのです。

さらに時代が経るに従って、仏教経典にはさまざまな注釈や解釈が書き加えられ、多数の経典が派生してゆきます。

日本には6世紀半ばに中国経由で仏教がもたらされますが、それはサンスクリット語パーリ語から漢訳された仏典で、しかもオリジナルからすっかり変貌を遂げてしまった「大乗仏教」だけで、『ブッダのことば』は含まれていなかったのです。

だから「仏教とは何か?」を考える上で、日本仏教から考えるのは残念ながらあまり有効とは言えないのです。

現在の日本は、江戸時代以前とは異なって、古代インドで記されたパーリ語の『スッタニパータ』から直接日本語に翻訳された『ブッダのことば』が誰でも読める環境なのですから、まずその原点に遡って「仏教とは何か?」を考えなければ意味がないのです。

ところが吉本隆明は仏教としては親鸞の教えを評価しており、『ブッダのことば』については一切言及がないのです。

それは麻原も同じで『生死を超える』においても『ブッダのことば』について一切触れられていません。

麻原は『ブッダの言葉』の存在を知らなかったのか?と言うと実はそうではなく、YouTubeに90年代当時にオウム真理教を取材したテレビ番組がアップされており、その中でオウムは仏教の源流を明らかにするため世界各地からさまざまな仏教経典を集めて翻訳していることが紹介され、そこで英語版と思われる『スッタニパータ』の表紙が大写しされたのを私は確認したのでした。

オウム真理教は『ブッダのことば』を収集しながら、なぜ教義としてスルーしたのか?

それが麻原とオウムが本質的に仏教を理解していなかったことの表れであり、「間違い」に至った理由でもあるのです。

端的に言えば、『ブッダのことば』に記された仏教が「宗教」であるのに対し、麻原が『生死を超える』に記したオウム真理教は宗教ではなく「呪術」であったのです。

つまり麻原は「宗教」の何たるかを理解できずに、それを「呪術」に置き換え、そして多くの人の共感を得て信者を獲得したのでした。

宗教と呪術は何が違うのか?

分かりやすく言えば、ブッダは当時のインドで修行者がやるような「苦行」を一通りやってみたのですが、それが無意味であることを悟るのです。

肉体的な苦行によって「超能力」が得られると言う考えは全くの絵空事に過ぎないことを、古代インドのブッダは見抜いたのでした。

それでは『ブッダのことば』では何が重視されているのか?言ってみればそれは「言語による精神改造」で、フロイトラカン精神分析にも通じるものです。

人間は言語によって思考し、従って人間の精神は言語によってプログラミングされており、だから言語を制することが精神を制することであり「悟り」へと道であると、現代的に解釈すればそのような教えをブッダは説いているのです。

具体的に見ると『ブッダのことば』の出だしは次のようになっています。

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ブッダのことば』
第一蛇の章
一、蛇

一、蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者(比丘)は, この世とかの世とをともに捨て去る。−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

二、池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

三、奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

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まだまだ続きますが、このような言葉を繰り返し暗唱しながら、各自の生にとってそれがどんな意味を持つのか?と解釈し続けることが「修行」になるわけで、そこには超能力などの空想的な神秘性は微塵も存在しないのです。

対して麻原の『生死を超えて』はどうかと言えば、のっけから肉体的な修行の話で、それが目的ではないとしながらも、「超能力」が身に付くと宣伝しているのです。

また、修行の段階によって非常な快楽や神秘体験が得られるとされていますが、それらは肉体を痛めつけることにより脳内モルヒネが出てるだけでは?と思わせるものがあるのです。

このように「超能力」や「快楽」や「神秘体験」を目的に苦行をすること自体が、ブッダがその言葉によって否定した「呪術」に他ならないのです。

だから吉本隆明が評価した「麻原さんが修行の過程と段階とをとても実感的に説いていて、はっきり体験的に表現している点です。」と言うのは、実際に読んでみても全くの世迷言でしかないのです。

そしてオウムは1988年に、過度な肉体的修行による過失事故により死者を出し、それを隠蔽するために故意の殺人を組織的に行い、これをきっかけに犯罪者集団の道を歩み始めるのです。