客観と類

常識を基盤とした思考と、常識の基盤とは何かを思考する思考とがある。

言語は自分で作ったものではなく、自分が生まれる以前から存在し、他人から教わるものである。

他人から教わらなければ、自分にとって言語は存在しないし、言語を言語として機能させることはできない。

言語は自分の口から発声し、その声を自分で聞き、また他人に聞かせることができる。また、他人が発声した言語を自分の耳で聞くことができる。

言語は自分の口から実際に発声することなく、心の中で言語を発声し、心の中で自分の言語を聞くことができる。自分が心の中で発生した言語は他人に聞かれることは絶対になく、また、他人が心の中で発声した言語を自分は絶対に聞くことはできない。

言葉とものは結びついている。現象学的に捉えれば言葉とものはともに精神現象であるが、常識的には言葉は人間の精神現象であっても、ものは精神の外部に確固として存在し、それを精神現象だとは言わない。

常識的にものは精神現象ではないと認識されるのはなぜか?つまり、精神現象と物理現象が区別されるのはなぜか?現象学においては、精神現象も物理現象も、共に精神現象に還元されるのである。すなわち常識が現象に還元される。

常識的にものが精神現象と区別されるのはなぜか?それは言葉とものでは客観性のレベルが異なっているからである。ものの客観性は人間のみならず、他の動物も巻き込んでいる。

例えば、目の前に存在するリンゴは人間も食べるし、犬も食べるし、虫も食べる可能性がある。あるいは足下の地面は人間も歩くし、犬も歩くし、虫も這うのである。いや生物だけでなく、例えばリンゴを地面に落とせばリンゴは地面に衝突して跳ねたり割れたりするのである。

動物も植物も生物も無機物も有機物も自分の身体も「もの」であり、ものとものとは様々な仕方で関係し合っている。それらもの同士の関係と、ものとしての自分の身体との関係を、人間の常識は「ものは存在する」と捉える。

人間がものを認識できるのはなぜか?人間はものとしての身体を有しており、自らが所有する身体との関係性においてものを認識する。あるいはあらゆるものとの関係性において、ものとしての自分の身体を認識する。

常識的にものは物理存在であり、言語は精神現象であり、両者は区別される。その理由は、言語は人間以外の動物には通じず、言語の作用はものには作用しないからである。

言語は、人間のものとしての身体から発せられる物理現象で、その限りにおいて他のあらゆるものとの関係性を有している。しかし言語が持つ意味としての機能は物理現象に還元することができず、それ故に言語は精神現象として、物理現象とは区別される。これが常識的判断である。

それでは人間にとってあらゆるものは「純粋存在」として存在し得るのか?あるいは、そもそもあらゆる動物にとって、あらゆるものは「純粋存在」として存在しうるのか?

ものとものとは「関係において成立している」ということは、そもそも、ものとものとの間に「純粋存在」としての関係性は成立し得ないことを示している。

水の中に石を投げ入れるのと、牛乳を投げ入れるのとでは、物理存在としての「水」のあり方が異なる。あるいは、水の中に石をゆっくり落とすのと、水に石を高速で投げ入れるのとでは、物理存在としての「水」のあり方は異なる。

この延長において、同じイモムシを食べるにも、鳥はイモムシを丸呑みにし、クモはイモムシの身体に自らの消化液を注入し、液体化したイモムシの肉を吸うのである。つまり同じイモムシではあっても、鳥にとってのイモムシと、雲にとってのイモムシは、全く異なる物理存在として存在するのである。

それでは物理学とは何か?あるいは物理学を基盤とした科学体系とは何か?と言えば、常識の普遍化の一つのあり方であり、その限りにおいての有効性と限界とを認めることができる。

あらゆるものはそれぞれの固有性を有している。それぞれに固有性を有しているものは、他のあらゆるものとそれぞれに固有の仕方で関係しあっている。それらの関係のどこに「客観性」が存在するのか?と言えば、ごく大雑把な「客観らしさ」が存在するのである。

客観性とは何かといえば、瑣末な差異に囚われることなく、ごく大雑把に掴み取られた「文脈」を「客観性」と名付け、これを学問として体系化しているのである。

ものはそれぞれに固有であり、二つとして同一のものは存在し得ないが、ものは「類」として存在する。類は、ものそれぞれの瑣末な差異に囚われることなく、ごく大雑把な文脈を掴み取ることで認識できる。

「類」とは何か?と言えば、あらゆる生物は類によって食物を認識して摂取する。例えばモンシロチョウの幼虫はアブラナ科植物に含まれる「カラシ油配糖体」という化学物質を「類」として認識しこれを食物として認識する。カエルは虫などの「動き」を「類」として認識しこれを獲物として認識して捉える。

常識的に「同じ」と認識されているあらゆるものは厳密には「類」であり、類に過ぎないものを便宜的に同一であると認識するのが常識なのである。

厳密に考察すれば「客観」なるものは成立し得ない。しかし厳密に考察しなければ客観は成立するのであり、それが客観というものの性質だと言える。すなわち客観は「同一」によってではなく「類」を基盤にして成立する。

厳密に考察して客観が存在し得ないのは、全ての事物は精神現象でしかあり得ないからである。全ての事物は精神現象だからこそ、「類」としての客観性が成立するのである。

アリストテレスは「物事の細部にとらわれず、ごく大雑把な文脈を掴み取ることが認識において重要である」と記しているが、人間にとっても、あらゆる生物にとっても、認識とはそういうものであり、「客観」とそのような認識の上に成立するのである。

世界はさまざまな「類」の集合により成り立っている。地面に転がる石ころは、二つとして同一の石ころは存在しないが「類」としての石ころは多数存在し、世界の構成要素となっている。

また、たとえ同じ金型から生じた工業製品であっても、厳密に捉えればそれら一つ一つは決して同一ではなくそれぞれに異なっている。しかし「同一の製品」と認識して差し支えないレベルの「類」としては確実に存在する。しかしその「差し支え」とは事情によって異なり、だから類はあくまで類なのである。

あらゆる事物は精神現象でしかないのに、それらのことごとくがありありと実在しているかのように思えるのは、人があらゆる事物の瑣末な固有性に囚われることなく、ごく大雑把な「類」の集合として捉えることが原因なのである。

あらゆる事物を「類」として捉えることは生物としての人間にとって死活問題であり、だからこそその存在が「ありあり」と感じられるのである。目の前のミカンをミカンであるという「類」として捉えられなければ、人間は食物を認識できず飢えて死んでしまう。その切迫感が実在感に転ずるのである。

世界は「類」の体系によって成立している。これによってあらゆる事物は言語と結びつけることが可能となる。

言語は「類」の体系として成立している。例えば「あ」という語の発音は人によって異なっているが、あらゆる人の発した「あ」の語が類として認識されて、その類でしかないものが便宜的に「同一」と定義されているのである。

言語とは何か?言語は人と人の間で話される。人が言語を話している時、他の人は言語を話さずそれを聞いている。他人が話した言語は、自分の記憶の中で物理現象を伴わずに再生できる。言語は自分の声で発することなく、心の中で物理現象を伴わずに語ることができる。

言語は言語の体系のみで完結しているのではなく、言語はあらゆる事物と結びついている。あらゆる事物は精神現象であり、それが言語というもう一つの精神現象と結びついている。

言語は人間の動物としての身体の延長であり、認識のための器官である。精神現象としての事物の在り方は、生物に固有の身体との関係によって規定される。人間は動物としての身体に加え、言語としての身体を有しており、これによって現象としての事物の在り方を規定する。

人間は集団で狩りをする動物である。すなわち人間が集団で言語を使用することによって、例えばシカを「シカ」と名付け、ウサギを「ウサギ」と名付け、イモを「イモ」と名付けることによって、人間はそれらの獲物をより効率的に捕らえることができるのである。

人間にとって認識とは本質的に共同作業である。なぜなら人間の認識は言語によってなされ、言語とは人間の共同作業の産物だからである。

人間にとって、少なくとも人工物についての認識とは、本質的にリバースエンジニアリングである。なぜなら人間によるあらゆる製造物は、その製造方法が隠されているからであり、これを暴くことが本来的な「認識」だと言えるのである。

人間によるあらゆる製造物は、その製造方法が隠蔽され、多くの場合、悪いものは良いものに擬態し、偽物は本物に擬態し、また時として良いものが悪いものに擬態し、本物が偽物に擬態している。

だからこれら製造物の外見に惑わされることなく、その製造方法に遡るリバースエンジニアリングによって、その本質を見極めることが、本質的な意味での「認識」だと言える。

ものとしての製造物だけでなく、人間それ自身も人間による製造物である。より正確に言えば、その人間の能力というものも人間の製造物であるし、その人間の人格も人間の製造物である。

つまり白土三平のマンガ『忍者武芸帳』に描かれたように、優れた剣術士はリバースエンジニアリングによって、相手にどれだけの実力があるかを認識するのである。剣術に限らず、自分が努力して能力を身につけてきた人は、リバースエンジニアリングによって他人の能力を認識することができる。

近代とイデオロギー

やっと分かってきたのだが、イデオロギーとは近代の産物なのである。つまり近代かによって、それまでの価値観が全否定されると、新しいイデオロギーの構築が必然的に必要になる。

私の非人称芸術が共産主義の影響を受けていたという以前に、そもそもイデオロギーというものが近代の産物なのである。

マキャヴェッリによれば、改革とは原点に回帰することである。すなわち時間が経つと原点から逸れて世の中が乱れるのであり、改革して回帰する必要がある。これに対して近代の改革とは、原点をも含めた過去の全否定であり、そのように白紙還元した上に新たなイデオロギーを構築するのである。

即ち、近代が否定しようとした「古いもの」には二種類があることに留意しなければならない。一つは「古典」であり、もう一つは「古典からの逸脱」である。近代はこの二つを一つの「古いもの」と捉え丸ごと否定する。

近代のイデオロギーは古典を否定しながら実は、古典をさらに遡った文明以前の原始に回帰しようとする。それは『共産党宣言』でマルクスも述べているが、文明以前の原始に人間の本質を見て、日本質的な古典文明を否定して、原始に回帰しようとするのである。

過去に理由があって成立したものを、現在の理由のわからない人々が否定するのは損だとマキャヴェッリは述べているのである。

伝統的にエンジニアリングの本質は美術にあったのである。いわゆるエンジニアリングが存在しなかった産業革命以前において、エンジニアリングの本質は一つには美術に存在した。

それが産業革命以後、エンジニアリングの本質はいわゆるエンジニアリングに移行し、これに伴い美術とエンジニアリングとが無関係であるよう錯誤されるようになったのである。

レヴィ=ストロースによると、美術はエンジニアリングとブリコラージュの要素を兼ね備えているが、実際にはそれはいわゆるエンジニアリングも、多くの場合何らかの割合でブリコラージュを含んでいる。しかし現代の少なくとも日本の美術の場合、エンジニアリングの要素が殊に軽んじられ排除されている。

思えば私の場合は、美大浪人時代に通っていた予備校、長野美術専門学校の村田陽先生から、ヨーロッパ仕込みの合理的なデッサンを教わったのだが、それはつまりエンジニアリングだったのである。

若手アーティストの梅津庸一さんは、アーティストとしての基礎は美術予備校に作られると述べていて、それは極端な見方だとも思ったが、しかし今の美大は基礎を教えないわけで、自分の場合も含めて当たっていると言えるかもしれない。

お金を何となく汚いものと思うのも、アートとお金は根本のところで無関係だと思うのも、ものを正せば共産主義の影響を無自覚的に受けているのである。自らの共産主義は浄化されなければならないが、そのためには自らの共産主義を対象化し、自覚化しなければならない。

安心と既成

私自身、安心への志向性が強かったのは、まずは明瞭に自分は劣っているという意識があったのだが、それは明瞭に学校の成績によってそのように明瞭にランク付けされたからである。いやそれで安心を得る道はただ一つで、勉強すればいいだけの話だが、私にはどうもそれをやる気にはならなかった。

今から思うと奇妙なことだが、現在自分がしているような主体的に問題意識を持ってする勉強と、学校の成績を良くするためにする勉強とでは、自分自身のやる気が全く異なっている。いやそういう問題ではなく、まず文明的に人が大勢集まれば、実際問題としてそこに能力的に格差が生じるのである。

そして、その能力の格差はいかに埋めることができるか?の方法は誰にでも平等かつ明瞭に示されていて、とにかく勉強して成績を上げることだけである。ところが、人には頭の良し悪しとは別に、学校の勉強に対する「やる気」の格差というものが確然とあって、それが「成績の差」にダイレクトに反映される。

「やる気」というのは精神の問題であり、だから勉強のやる気がでない人は罪悪感に苛まれる。いずれにしろ近代的国民国家というものは、国民の質を向上させ国力を上げるために、国民の能力をランク付けして競争心を煽る必要がある。

いやそれよりも、人間には社会に寄生しているという側面と、一個の独立した人間の、二つの側面がある。そして、自己確立が弱いかまたはできない人々が、「安心」を志向するのである。

安心を求める人は社会に寄生している。なぜならハンブラビ法典を読めばわかる通り、文明社会にはもともと未亡人や盗難の被害者などの弱者をいたわり、国民に安心を与える思想があったのである。

しかしそもそも社会に寄生していない人間は存在しない。なぜなら人間は言語を使う点からして本質的に群体動物だからである。だからソクラテスマルクス・アウレリウス福沢諭吉も社会に寄生している側面を明瞭に有している。

ソクラテス福沢諭吉も、人間として社会に寄生いると同時に「自分は社会に寄生している」という認識を持っている。その認識を持つには社会の「外部」に出ながら「社会」というものを対象化しなければならない。

けっきょくのところ、社会の内部にあって外部を知らず閉じ込められている人が安心を求める。

「自分」には社会に寄生する存在としての自分と、宇宙の始まりから起源を一つにする枝葉としての自分との、二つの側面がある。このうち前者のみ意識して後者を無意識のまま生きる人は、宇宙の法則に従って安心を求める。前者と後者を意識する者は宇宙の法則を我が物として安心を求めることはない。

社会の内側にとどまる限り、社会的にどのようなランク付けの人であっても安心を求める。そもそも安心への志向性から、人は社会的ランキングの上位を目指し、あるいはこれに羨望するのである。そして社会の外部に出ることができる者だけが、安心の必要性から逃れることができる。

安心とランキング

人々はなぜこうも安心への志向性が強力なのか?自分の経験を反省しながら考えてみるならば、人は子供の頃から社会においてランク付けされながら生きている。このようなランク付けは便宜的なもので気にしなければいいはずではあるが、実際的にはそうはいかない。

社会になぜランク付けが存在するのか?と言えば、多くの人はその人が優れた人かどうかを見抜く目を持っていないのである。なぜなら優れた人を見抜くには、その人自身がある程度優れていなくては不可能だからである。

しかし多くの人は優れた人になろうという志を持って努力せることを嫌がる、という事実がある。そこで不可避的に社会において優れた人とそうでない人の間での左が生じる。しかしここが矛盾するところであるが、優れた人であろうと努力することに背を向けた人は、優れた人を見抜いて評価する目を持たない。

そこで、社会的ランク付けというものが必要とされるのである。つまり、その人が優れているかどうかを誰もが判断できるように、便宜的な方法によってランク付けを行うのであり、それが学校教育としての経験から始まる社会的なランク付けなのである。

安心と記号

フロイト『夢判断』を読んでいるが、フロイトの「夢の中では…」という言い回しは、目覚めている人にも当てはまる。なぜなら多くの人は安心への志向性が強く、目覚めながら安心を得るという夢を見つつ現実から目をそらし続けているからである。

その言い方をすれば、夢見る人の中では、本来はいくつかの別々の概念の複合体であるものが、分解不可能な一つの記号として扱われ、それでいて各記号はバラバラに存在し本来の意味的な繋がりを失っている。

安心とは記号であり、その記号はあらゆる文脈から切り離されている。目覚めながら夢を見る人の世界はそのようなものである。

権威と自然

権威の否定には二重の意味がある。一つは実質的が無いにもかかわらず権威だけがある状態に対する否定。もう一つは権威そのものの否定である。ところが、権威を否定しようとする側の者も「自分にこそ権威がある」と主張するのであり、誰も権威そのものを否定することはない。

すると、反権威主義とは権威そのものの否定ではなく、権威ぶったものの偽物性を摘発し、真に権威あるものを明らかにすることに他ならないが、実質的にはその救済への志向性において、自分に都合の良い権威を主張しようとするのである。

それで権威というものは、王権神授説によれば王が神様から授かるものなのである。つまり王よりも神ほうが権威がある。そして近代において神の摂理は科学に置き換わった。つまり近代においては「人によって書かれた歴史」よりも、神の摂理であるところの科学法則にこそ権威がある。

共産主義はこれを背景としている。自然物を観察し、その美しさと巧妙な仕組みに感動し、これは人が作る芸術より優れていると思いなすのも同様で、人の権威の上に神を置き、神を科学に置き換えているのである。

自然観察の魅力、これに夢中になるのは原始への回帰の欲求が満たされるからである。それは近代的な概念が反転して、近代以前はおろかそれをはるかに超えて文明以前の原始への回帰なのである。もともと科学には、文明以前の原始への回帰の要素を含んでいる。

そもそも科学とは人間の原始的な欲求に応えるためのものであり、その意味で人々への救済として存在する。科学は真実の追求のようでいて、決してそうではないのである。

認識と志向性

私の場合は「階級闘争」などという言葉は一応聞いたことがある程度で、それが具体的に何を意味するのかは知らないし、自分には全く関係のない古い時代の概念だと思っていたのだが、いま改めてマルクスエンゲルスの『共産党宣言』を読むと、私自身の思考の志向性そのものが、階級闘争の解消へと全面的に向かっていたことが、明らかになった。

そして自分が階級闘争において勝利できないと認識した時点で、階級そのものを無効化する方法を見出そうとする。そのために階級とは書かれた歴史の産物であり、それ以前の階級の存在しなかった世界に回帰しようとする。それと、近代を背景とした生産量の増大を利用し、持つ者と持たざる者という格差を解消しようという、その「志向性」において非人称芸術の概念は見出されたのであった。

認識において志向性はいかに重要であるか、ということは、人間が本質的に騙されやすい性質を持つことで理解できる。すなわち、自分はどのように騙されたいのか?というその志向性が、認識の志向性なのである。そして共産主義的思考とは、それにおける共通の志向性を指している。つまり自分がどのように騙されたいのかの志向が、共産主義的思考を持つ者の間で共通しており、それで皆同じように失敗するのである。

魔法というものは、信じればそれが「本当」になるという性質を持つ。信じることができなければ、魔法がとけて本当だと思っていたものが「ウソ」に転じて消えてしまう。だから人々の志向性は、魔法がとけて欲しくないという方向に働き、つまり自ら望んで騙されようとする。

魔法を生み出して、それを信じるようにすれば、何でも「本当」になる。そこで自分も含めた人々が気持ちよく騙されるための、どのような「魔法」を構築するかを、頭の良い人は考えようとする。このような「志向性」が人間には明確に備わっている。

人間には積極的に騙されようとする志向性と、そのための嘘を構築しようとする志向性が備わっている。

人間の認識は、現実と必ずしもぴったりと対応していない。にも関わらず、人間は現実と自分の認識とがぴったりと一致していると錯覚する。人間の認識はダイレクトではない。人間の認識が「間接的」なのは、自分の認識を他人に預けているからである。

平たく言えば、自分で直接認識するのではなく、他人があるものをこう認識したという話を聞いて、それを鵜呑みにして、自分の認識に置き換えるのである。つまり脳というのはマルチメディアであって、自分が見た記憶と、他人から〇〇を見たという話を聞いた記憶とが、同列に扱われ、そこで認識の間接化が生じるのである。

人間は言語機能によって「偵察」の能力を獲得した。例えば狩の集団が敵に襲われそうになった時、全員が同じように敵の存在を確認しようとすると、発見され襲われる率が高まる。そこで一人だけ偵察に出て、他の集団は隠れていれば、的に見つからずにその姿を発見する率が高まる。

そのかわり、偵察に出なかった他のメンバーは、敵の存在を間接的に知るようになる。そして、日常生活においても多くの人が、自分では直接見聞せず偵察隊を放ってその報告を聞いているのである。

多くの人は安全な穴倉に隠れながら、偵察隊の報告を待っている。そして時に偵察隊は、みんなを喜ばせるため積極的に嘘をつく。なぜなら多くの人は真実ではなく自分たちに都合の良い嘘の報告を待ちわびているからである。

そして、嘘をつくためには、自分で嘘を構築しなければならない。そのようにして頭の良い人は、巧妙かつ壮大な嘘を構築し、自分を含む多くの人を騙すのである。そのような共犯的な志向性が、人々の間に存在する。