相争う哲学的見解を超えて怒りを鎮める方法

*こちらの動画の文字起こしです。

糸崎公朗です。

今回もこの『ブッダのことば』なんですけども、これを私は再びちょっとずつ、かみしめながら、よく考えながら、吟味しながら、読んでいこうとしてるわけなんです。

 

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

 

 

それで前回『ブッダの言葉』を紹介した時にこの「怒り」の問題ですね、第一章の、とにかく一番最初に怒りの問題がこの本に出てくるんですよ。

で、翻訳者の中村元さんですが、ただ翻訳したわけじゃなくて、ものすごく詳細に研究して、そして翻訳したというものですけども、その中村元さんによる後ろの解説によると、最初の「蛇の章」が一番古いわけではないんですけども、とにかくこの経典の一番最初に「怒り」というものの鎮め方が書いてあって、それが非常に人間にとって難しい問題でありまして。

で、この前の動画では自分はこれ読んでよく解釈して、怒りの鎮め方をマスターしたみたいなことを言いましたけども、実際にはそう上手くいかないんですね。

で、そのあと色々と 考える事があったんです。

それでは、前回紹介した第一章の、最初の言葉を読んでみます。

「蛇の毒が体の隅々に広がるの薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。蛇が脱皮して、古い皮を捨て去るようなものである。」

ということなんですけども、だから「この世とかの世とをともに捨て去る」というのは、結局は自分を捨てると、そして公共のために生きるんだ、というふうにして私は解釈したわけなんですよ。

怒るのは自分ですからね、自分の怒り、自分の、たかが自分個人の怒りなんですよ。

そんなものはちっぽけなんですよ。

それより人間っていうのはもっと大きな「公共」のために生きなきゃいけないと。

ちっぽけな自分の怒りにこだわっても仕方がない、という風にして思ったんですけども、それだけだとまだまだ足りなくてですね、で、今日読もうと思ったのは、この「蛇の章」の中の3番目の「犀の角」という章がありまして、その中の、この55番目の詩なんですけども、ちょっと読んでみますね。

「相争う哲学的見解を超え、悟りに至る決定に達し道を得ている人は「我は知恵が生じたもはや他の人に指導される必要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。」

 

 

これも普通に読むと難しい詩なんですね。

「相争う哲学的見解を超えて」いうのはいいんですけども、「自分には智慧が生じたのでもはや他の人に指導される要がない」と。

これはね、もうなんか天狗になってんじゃないかって。そんな簡単に真理に到達することなんかあるの?ってね、言うわけですよ。

そもそも自分を真理に到達して、誰にももう教わることがない、なんてほざいてるから、喧嘩になるんじゃないかと。

「お前の真理は間違ってる」とかさ、「俺が正しい」とかさ、そういう風になるんじゃないかという風に、思っちゃうわけなんですよ。

これは以前ニーチェのことを話した時にも、そういう風に述べたんですけども、私はね。結局ね、哲学的見解ですよ。

例えば「ニーチェがわかった」とかね、「フッサールがわかった」とかね、この「わかった」って何かっていうとね、結局はフッサールの言っていることそのままわかったりとかはできないんですよ。

ニーチェの言ってることをそのままわかったりもできない。

なぜかっていうと、ニーチェにはニーチェの人生があって、ニーチェ生きた時代背景があって、社会的背景があって、それは今の、この我々が生きているこの日本とは、状況が全然違うわけですね。

で、その同じ日本人の中でも「糸崎公朗」というね、この私です。

私には私の固有の人生があって、他の人と同じ日本人だからね、共通している部分 もありますけども、全然違っている部分がありますし、そもそもその読んできた本とかね、私固有の経験もあるわけですよ。

「写真家やってます。」とか「フォトモみたいな変な手法の表現で作品をつくってます。」とかね、そういうのも含めてなんですよね。「子供の頃から虫が好きで、虫の写真撮ってます。」とか、そういうのも含め てなんですよ。

だからけっきょく「ニーチェがわかる」「フッサールわかる」っていうのも、その人の固有の分かり方をするしかないんですね。だから僕は僕で、長年ニーチェになかなか手がつかなくて、なかなか読めないっていう思いがあったんですけども。

去年かな?今年かな?とにかくニーチェを読み始めたら、まあ「わかる」っていう感じはしたんですけど、それも「自分なりにわかる」ということに。

一応このチャンネルの動画では「どうわかったのか」ということの説明しましたけども、しかしそれは「これがニーチェの正解だ」という風にしては思わないし、私固有の理解の仕方でしかないんですよ。

だからそれは、究極的に言えば、誰にわかってもらう必要もないし、変に誤解されて「お前の考えは間違ってる」って議論を吹っかけられても困るって、いう問題があるんですよ。

だからまあ、批判していただくのは結構なんですけども、批判してもらっても困る領域、っていうのはやっぱり哲学にはあると思うんですよね。

でそれが一つは「固有性」という問題なんですね。

だからさっきの怒りの問題で言うと、公共性の話をしましたけども、つまり「私」に対して「公共」ということですけども、哲学においては、共通の公共的な共通見解、ま、公共と共通見解はまた違いますけどね、これは「ニーチェの解釈の正解だ」っていうのはね、全然そういう要素がないと言えないですけども哲学の入門書的に、公式見解的に「ニーチェはこういう風に言ってました。」っていう風にしていうのもね、だいぶ違うなという風にして思うんですね。

それよりもやっぱりこの時代、この前ラカンの解釈の問題を、私言いましたけれども、ラカンが講義をしたのは1950年代とか1960年代、昭和でいうと昭和30年代、昭和40年代ですよ。

そうすると小津安二郎とか、『三丁目の夕日』とか、そういう映画でいうと、昔の世界ですね、その昔の世界の人の言ったことを、今の我々の、今の時代、この私が生きている今の時代に当てはめると、また新しい解釈が生まれてくると。

それが生きた思想であり、生きた哲学なんじゃないかな、というふうにして思うわけですね。

だから「生きる」っていうのはやっぱり「個人が生きる」わけですから、固有性というのが、重要になるんですね。

でそうすると一つ、怒りの問題で言うと、この『ブッダのことば』の別の箇所にも書いてありますけども、人が怒るっていうのは、一つは「自分のことを分かってもらえない」とかね、「自分の話し聞いてくれない」とかね、そういうことで怒りが生じることがあるんですけれども、まぁねぇ、そんなの関係ないんですね。

そもそも自分の哲学的見解を「誰かわかってもらおう」とかね、思わなくていいんですね。

「誰かに聞いてもらおう」とも思わなくていいんですね。

だからこの youtube は僕にとってはすごく相性がよくて、勝手にしゃべって勝手にアップロードして、勝手に聞いてくれればいい、という風に思うわけなんですよ。

それはソクラテスの昔からそうでありまして、ソクラテスは『ソクラテスの弁明』ってね、大広場でみんなに自分の弁明をして、話を聴衆に聴かせるんですけども、誰もソクラテスの話なんて聴いちゃいなくてね、もうとにかく「死刑にしろ」ってね、死刑にしちゃってるわけですよね。

だからその意味で言うと、同じなんですよ。

ソクラテスの固有性というのも、当時のギリシャ人、同時代のギリシャ人には理解できないわけですね。

それはキリストも同じですけどね。

だからまあ、「ぶっ殺しちゃえ!」って話になるんですけど、だからそれは「ぶっ殺しちゃえ」って言う裏には、誰も話なんか聴いてないっていうね、「あいつはインチキだ!」ってんで、もう決めつけてるわけですね。

究極的に、誰にも理解されなくて、自分が死刑になろうがなんだろうが「怒らない」と。

「自分を死刑にしやがってけしからん!」ってね、そういうことは、ソクラテスもキリストも言ってないわけですよね。

ですからこの怒りの問題と関連して言うと、ブッダのこの「犀の角のようにただ独り歩め」というのは、繰り返し、繰り返される詩なんですね。

この『犀の角』っていう章がありまして、いろんな詩が並んでますけども、最後に「犀の角のようにただ独り歩め」と。

だから今日読んだところで言うと、「相争う哲学的見解を超える」と、そして「悟りに至る決定に達して道を得ている人は、「我は智慧ーが生じた。 もはや他の人に指導 される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め」 と。

それは自分だけが本当の真理に到達したというよりも、「自分固有の理解の仕方」を手に入れるっていうのがね、一つ、哲学的な段階じゃないかと。

まぁ私が言うのもなんですけどね、 そんな哲学専門家でもないし、キャリアも浅いですけども、自分の中ではね、その一つ段階に移行たしたな、っていう思いはあったんですね。

だからある程度いろんな本を読んできて、まぁ、たかが知れてますけどね、自分の範囲ですけどね、でまぁ、いろんな経験をするなかで、自分固有の哲学の仕方を理解することができたと、それがある程度高揺るぎないものだ、という実感があるわけですね。

だから、誰かの入門書の言葉を鵜呑みにするんじゃなくて、自分なりの解釈ができるようになったと。

で、それは人にとやかく言われる筋合いはないわけです。

で、もしかしたら間違っているかもしれないですよ。

だから間違ってる時は、いやもう「間違ってました!」という風にして、全面的に言いますけど、しかしそれは、人から言われるとかじゃなくて、この自分に納得して「間違ってる。」とね、それも自分の固有の問題として「間違っている。」と認めるという。

具体的に言うと、私は「非人称芸術」というコンセプトを掲げてフォトモとか作品作ってましたけども、作品ともかく「非人称芸術」というコンセプトは「間違っている」と、いう風して最近は認めているわけなんですけども、その認めるにもいろいろ理由があるんですけど、
これは自分の私の固有問題でね。

それは私の生き方だけではなくて、日本の状況取り巻く全体ですね、時代背景ですね。

一つは共産主義運動ですけども、そういうところに自分なんか全然…私は40年生まれ、
1965年生まれですから、全共闘、終わっちゃった時代で、そういうのぜんぜん意識しないで生きてきましたけれども、実はかなりに深く影響を、知らない間に受けてるわけですね。そういう自己分析を通して、「自分の考えは間違った。」という風にして、やっとのこで到達することができたわけです。

そういうまあ固有性の問題なんで、「他人にとやかく言われる筋合いはない。」と。

だからこれも相反する要素なんですけども、「他人にとやかく言われる筋合いじゃない。」レベルと、「他人の意見は受け入れますよ。」と、そういうものの併存が必要なんですけども、ただね、やっぱり自分もとにかく「他人にとやかく言われたくない。」という領域を持つっていうのが大切なんですね。

これ難しい問題なんですけどね。

だいたい、たいていの人はね、他人にとやかく言われたくなくて、もう意固地になって自分の中に凝り固まったり、 他人の意見なんか聞きたくないんですよ。

それは困る。

今回話しているのは、なかなか人に伝えるのは難しいかもしれないですけど、それとは全然違う、違う問題なんですね。

それが畢竟、怒りを鎮める問題になると。

いつも落ち着いて、心は平安で、他人の意見に動かされないと。

他人の意見に動かされない。心が動かされなければ、他人の意見も 聞き入れることができるだろう。

と、そういうお話でありました。

 

ソクラテスの弁明・クリトン (1964年) (岩波文庫)
 

 

 

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ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

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精神病〈上〉

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顕教と密教

以下、空海の『三教指帰(さんごうしいき)を読んで連続tweetしたまとめです。

空海「三教指帰」―ビギナーズ日本の思想 (角川ソフィア文庫)

空海「三教指帰」―ビギナーズ日本の思想 (角川ソフィア文庫)

 

密教顕教、「密教」と言う概念は「大乗」仏教だからこそ生じ得た概念で、大乗仏教は「誰にでも教えられる教え」と言う前提があるから、だからこそ「誰にでも教えられるわけではない教え」の存在が対比として顕在化する。

 

仏教に限らず、一般的に人間は物を覚えることができる存在であり、従って人には物を教えることができる。それと同時に多くの人には教えられないけど、ごく一部の人間だけに教えられる事柄がある。それは端的に言えば人間の能力には「共通性」があると同時に「差異」も存在すると言う「事実」による。

 

哲学とは本質的に密教なのだが、大乗仏教が哲学を顕教化した。顕教とは「誰にでも理解可能な教え」でだから教えが誰にとっても顕在化している。

 

一方で密教とは、ことさら人々の目から隠蔽されていなくとも、一般に「難解な哲学は読めない」と言われているように、実際に多くの人からその内容は閉ざされている。

 

密教とか、秘密教義とか、秘奥教義などと言うと何か神秘的なイメージを持たれるかもしれないが、それはあくまで「顕教側のイメージ」であって、当の密教を実践している側としてはそんなつもりは微塵もない。

 

密教はつまるところ「自明性」を疑う知的営みに他ならない。しかし多くの人は「自明性」を疑うことを最も嫌うのである。これは非常なストレスを伴う行為で、このストレスに抗して知的行為を行うことを「密教」、ストレスを回避しながら知的行為を行うことを「顕教」という。

 

人は自分が嫌だと思うことに対し目を背け認識しない。そのことによって密教は必然的に多くの人から隠されることになり、実質的に「密教」となる。

 

実は、現在の日本では大学の哲学科を出ていなければ一般に哲学者と認められないし、さらに言えば大学で哲学科の教授をやっていなければ哲学者とは認められないが、このように経歴や立場と哲学とを紐づけるこの認識こそが「顕教」なのである。

 

純粋に密教的な認識をすれば、その人の学歴がなんで職業がなんであるかは関係なく、ただその人の「教え」を聞けば、その人が「何者」であるかが認識できるのである。

 

しかし「多くの人」にとって、その人が何者なのか?その内容のレベルが上がるほどに認識不可能になる。そこで「顕在化」した属性であるところの出身校や職業が認識の材料となる。

 

それは「教える」側の人間もそうで、自分が有名大学の哲学科を卒業し、大学の哲学科教授になるという、その「顕在的な認識材料」によって、自分を哲学者であるというふうに認識する。

 

しかし本来の、最初に大乗仏教を唱え始めた人たちは「顕教」と「密教」とを使い分けていたはずで、だからこの概念が言葉としても生じたと考えられる。

 

この「密教」と「顕教」の使い分けは、少なくとも日本の哲学界ではもうされていないように思えるが、しかし工業製品においては開発サイドが密教であり、ユーザーサイドが顕教であるという具合に、この二者の区別はさまざまな分野に存在するように思われる。

 

ただしこの「密教」と「顕教」の区別がなくなり、もっぱら「顕教」だけとなった分野は「終わっている」と言える。その意味で日本の哲学も現代アートも「終わっている」。この二つの分野において顕在化した目に見える徴(しるし)以外の何ものをも人々は認めようとしない。

 

密教顕教のフィルターを通して顕在化するとこのような「イメージ」として現れるが、この構造はオウム真理教と全く同じである。
https://www.cmoa.jp/bib/speedreader/speed.html?

www.cmoa.jp

 

本当の意味での密教僧がいくら真面目に授業したところで、金銭や名声はじめとする世俗的な成功を手に入れることが出来ない。

 

本来、顕教の思想の根底には金儲けではなく救済の思想があった。つまり密教僧を理解せず認識せず差別し排除する側の人々を「救済」する思想、これが密教僧が顕教を使用する本来的な動機となる。

 

密教僧は自ら学んで修行するが、文字通り人々に教えることは「何もない」。だから密教僧がその他の人々と関係をとり結ぶとしたらそれは「救済」しかあり得ない。だが一体、密教僧は自らを理解せず認識せず差別し排除する人々を一体何から救済しようというのか?…

 

いや確かに、多くの人が現世で苦しんでいるのであり救済を求めている。そして密教僧も同じく苦しみ、だからこそ自己救済のために授業する。しかし密教僧がそのように体得した「教え」のことごとくを人々は断固として拒絶する。そこで密教僧は自らの教えを「顕教」として変換する。

 

実に万人は「救い」を求めているのではないか?つまり密教僧の修行もつまるところは自己救済に違いなく、しかしその「救い」は多くの人々が求めている救いとは異なっているために「密教」なのである。

*下記、同日に撮影した関連動画です。Twitterで書いたのと同じ内容をしゃべろうとしたのですが、それができずに違う内容になってしまったので(笑)、ぜひご覧頂ければと思います。


顕教と密教/大乗と小乗①




密教と顕教/大乗と小乗②


顕教と密教/大乗と小乗③

ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』読みながらtweet

誰のアドバイスも信用できない。なぜなら誰の判断にもバイアスがかかって間違っているからである。では自分の判断はどうか?と言えばこれもバイアスがかかって間違ってる。ではバイアスを取り除いた判断はどのようにすれば良いのか?判断、つまり未来の予測ができると判断することがバイアスなのだ。

判断とはつまるところ未来予測であり、だから自信を持って判断を下すことは間違っているし馬鹿げている。

あらゆる判断は「賭け」であり、その意味で人は常にさまざまなギャンブルを行い、こまめに勝ちを重ねてなんとか生き抜いている。

あるいは人間のやることなすことは全て「実験」なのである。すでに繰り返し行って結果が目に見えている事柄についても常に検証のための実験を繰り返す。

他人のアドバイスとは、「新たな実験の提案」なのであり、その実験がどのような結果をもたらすのか誰もわからないし、その実験を実行するか否かは失敗のリスクを背負った自分自身が決断しなくてはならない。

 

 

統計(とうけい、statistic)は、現象を調査することによって数量で把握すること、または、調査によって得られた数量データ(統計量)のことである。統計の性質を調べる学問は統計学である。

ja.wikipedia.org

 

 

ヒューリスティックとは、必ず正しい答えを導けるわけではないが、ある程度のレベルで正解に近い解を得ることができる方法である。ヒューリスティックスでは、答えの精度が保証されない代わりに、回答に至るまでの時間が少ないという特徴がある。

ja.wikipedia.org

 

 

人々は誰でもそれぞれに「判断材料」と言うものを持っている。人はこの「判断材料」によって日々の、そして時々のギャンブルに勝利する確率が上がるのだと信じている。

ところが多くの場合、この「判断材料」がかえって勝利の確率を低下させる要因となっている。具体的には例えば多くの人は「負け」が込んで貧乏な状態にある。このような「判断材料」に間違いをもたらす要因が「偏見」、すなわち「現実離れした統計の偏り」である。

多くの人は事物を漠然とした統計のイメージとして捉えている。それは漠然としたイメージだからこそ判断材料として利用しやすい一方で、それは所詮「イメージ」なだけに現実との一致がなんら保証されない。

「統計のイメージ」は利用可能な手近な判断材料によって形成される。そして「利用可能」で「手近」であることが、統計の確からしさを保証する、と多くの人が錯誤している。

なぜなら、手近な判断材料とはそれ自体が「直接知覚」であり、人は自分が直接見聞きしたものにリアリティを感じるからである。すなわち現実そのものの認識ではなく、あたかも現実であるかのようなイメージを受け取り、それを現実と錯誤する。

現実と錯誤させるものがイメージである。イメージを、現実とは異なるイメージとしてイメージする場合、そのイメージは現実に根差している。つまり現実に根差していないイメージが「現実」と混同される。

「現実」と「イメージ」が二重化して捉えられなければイメージを「イメージ」として捉えることはできない。世界を一重化して捉える人にとって現実とイメージの区別はない。

人は「類似性」に惑わされて判断を誤る。

「時間」の感覚が異なる二種の人間が存在する。短期的な視野と普遍的な視野と…この両者を調停することはできない。

けっきょく人は、大きな賭けに出る人と、賭けにならないような小さな賭けしかしない人とに分かれる。小さな賭けとは安全な賭け、無難な賭け、負ける確率が少ないとされる賭け、勝っても儲けが少なく、負けても失うものが少ないと思われる賭け…

いわゆるギャンブルとは「ギャンブルの外在化」あるいは「ギャンブルの二重化」である。そもそも人間にとって生きることそのものがギャンブルなのである。その生きることのギャンブル性が小規模に模型化することで対象化され、外在化され二重化されたものがいわゆるギャンブルなのである。

貨幣経済社会において、金を得ることが生きることに直結している。だからあらゆる意味において金を得ること自体がギャンブルなのだ。例えば会社員として安定した職についていたとしても、いつ会社が傾くかもしれず、いつ自分を辞める事になるかも知れず、究極的にはギャンブルなのである。

他人より多く金を儲けるには?他人より楽して儲けるには?自分の好きなことして儲けるには?このようなことが可能になるためには自らが「金儲けの専門家」にならなければならない。どの分野でも専門家は経験を積むことで「勘」を養い、素人には不可能な高度に総合的で確実性の高い判断を可能としている

「金儲けの素人」を雇って養うのが会社の役目。

積極的、主体的に経験を積み重ね、失敗を何度も経験しなければ「専門家」にはなれない。そのようにして専門家は素人が感知できないような「些細な兆候」を読み取る勘を養い、その能力によって「専門家」として生きて行くことが出来る。

しかしこれはあくまで概念的な理想であって、現実的には「専門家」と自称する大半の人が自分の能力を過信して、盲目的に間違いを繰り返している。

だから究極的には自分自身が自分の専門家になるしかないのだが、多くの人が自分自身の専門家ではなく、だから誰か他の「専門家」に自分自身を任せているのだが、しょせん他人の専門家に自分のことが分かろうはずもなく、間違った判断をされた挙句それに満足されられている。

困難に対し何の勘も働かず、どうして良いのか分からずに立ち往生しているなら、その人には才能が無いのではなく、経験の蓄積が無いのである。

「好き・嫌い」の感情によって人間の判断は大きく左右される。にも関わらず、多くの人がこの、「好き・嫌い」の感情が何であるのか?について非常に無頓着である。つまり「好き・嫌い」の感情そのものが、それについての認識を阻害しているのである。

休息と暇つぶし(ニーチェ『ツァラトゥストラ』読みながらTweet)

哲学とは先ずなりより学ぶものであるが、自分なりに学ばなければそれは哲学にならない。つまり学校の勉強のように哲学について「皆と同じこと」を学ぶのを哲学とは言わない。

哲学の本質の一つは「変容」であり、例えばニーチェの哲学にしてもニーチェの意図通りに理解される事はあり得ず、必ず読む人によって変容してしまう。その場合、変容するのは読んだその人自身であって、その人自身が哲学によって変容しなければ哲学とは言えない。

哲学にとって重要なのは「それを語るのは何者なのか?」であり、哲学的でない人間がいくら哲学を語ってもそれは哲学にはならない。「哲学的でない人間」とは何かと言えば、新約聖書で示されたパリサイ人のような人を指す。パリサイ人はいかなる時代にも、いかなる分野にも現れ人々を惑わす。

パリサイ人は宗教者の偽物であり、芸術家の偽物であり、哲学者の偽物であり、その他「基準のハッキリしない」あらゆる分野に存在する。基準のハッキリしない分野にあって「ハッキリした基準」を示してその分野に居座るのがパリサイ人の特徴であり、だから多くの人が騙される。

科学の分野においてパリサイ人が存在するのは難しい。なぜなら科学は「真偽の基準がハッキリした分野」だから。しかし考えてみれば科学にも真偽のハッキリしない領域があり、そこにパリサイ人につけ入れられる余地がある。原発や精神医療など、他にもあるかもしれない…

人々の共感をぶっちぎるところに哲学の喜びがある。人々の共感をぶっちぎって上昇するところに哲学の快感がある。だからこそ芸術は哲学を幹とするその枝葉と言えるのである。

共感が生み出すものは再生産であり、それは退屈極まりなく堪え難い。結局のところ「哲学」の対義語の一つは「退屈」であり、だから「芸術」の対義語もまた「退屈」なのである。

結局のところ、哲学も芸術も「暇つぶし」に過ぎない。人間の本質とは、生まれながら何をして良いのかわからず、暇で暇で仕方がなく、どうにかしてこの暇を潰そうとする。この暇つぶしに最高の頭脳を使おうとするのが哲学であり芸術なのである。

例えば単に腹を満たすためだけでなく、美味しいものを食べればそれが「暇つぶし」になる。だから毎食同じものを食べると腹は膨れるが「退屈」になって耐えられなくなる。食べることが「暇つぶし」であるなら毎食の「変化」が重要な要素となる。

食べ物に関してはもう一つ、より美味しいものの味を知ってしまうと、不味いものが退屈に感じられるようになる。不味いものの正体は「退屈」であり、美味しいものの正体は「暇つぶしのネタ」である。優れた料理人は客に優れた「暇つぶしのネタ」を提供する。そうでない料理人は「退屈」を客に食わせる。

「暇つぶし」には実に結構なエネルギーが使われる。哲学をするにも、芸術をするにも、精神的にも肉体的にも結構なエネルギーが必要で、それをすると消耗し疲労する。だから人間にとって必要なのは「暇つぶし」と「休息」なのである。

人は「暇つぶし」をするとエネルギーを消耗して疲労し「休息」を必要とする。しかし休息するとだんだんに「退屈」になり、再び「暇つぶし」がしたくなる。そのサイクルで人間は動いている。

人間は本質的に暇を持て余した存在であり「暇つぶし」を必要とする。しかし「暇つぶし」はエネルギーを消耗し、だから「休息」が必要となる。そしてここが重要なのだが、人々の多くがエネルギーを消耗するような「暇つぶし」を望んでいないのである。

実に多くの人がエネルギーを消耗するような「暇つぶし」を望んではおらず、ただひたすら「休息」のみを求めている。多くの人が実に人生に退屈などしておらず、ひたすら「休息」を求めている。人々が求めているのは休息としての哲学、休息としての芸術、休息としての宗教、休息としての食べ物…である。

「休息」を望んでいる人に「暇つぶし」を与えても意味がない。例えば疲れて休んでいる人に対し「卓球やろうぜ!」と誘っても意味がない。

疲れて休んでいる人は、当然のことながらアクションを望まない。そして哲学することも、芸術することも「アクション」なのである。ところが哲学や芸術にとって「再生産」が退屈であるように、「再生産」とは「アクションではない」のである。だから「休息」を求める人が望むのは「再生産」なのである。

人々に「暇つぶしのネタ」を与えようとするのは間違いであり、多くの人はそのようなものを望んではいない。多くの人は退屈を感じる以前に疲れているのであり、暇つぶしよりも「休息」を何よりも求めている。人々は暇つぶしには一円も支払わす、休息のためにはいくらでも金を出す。

 

芸術と芸術の出来損ない

言語と現実は結びついている。と言った場合、二つの立場が考えられる。一つは「まず言語が先にあって、それによって現実が立ち現れる」とする立場。もう一つは、「まず現実があって、そこに言語を当てはめている」とする立場である。

そして私の「非人称芸術」は、前者の立場を取っていたのだった。それは「名付けによる創造」というコンセプトであったのだ。そしてこの「名付けによる創造」は真の意味で創造であり得るのか?という疑問が、後になって生じたのである。

「名付けによる創造」とは、そもそもが共産主義の方法論ではなかったか?つまり共産主義が成立しないという「現実」を目の当たりにしながら、非人称芸術が成立すると言えるのか?「名付けによる創造」とは、結局は「想像界」の産物であり、「信仰領域」の出来事に過ぎないのではないか?

「非人称芸術」とは錬金術で、手で触れたものが何でも金になる如く、目にしたものに「非人称芸術」の言語を当てはめるだけで、原理的に何もかもが非人称芸術に成り得るのである。そういう原理は成り立つのか?

現象学的に考えてみると、主観的な現象としては確かに存在したのである。これは自分のかつての実感としては、確実にあった。しかし「現象一般」として考えると、「現象」とは決してそういうものなのだろうか?

一般に、「自分だけがそう思ってるもの」あるいは「自分だけにそう見えるもの」は「錯覚」と言われるのである。だからその意味で「非人称芸術」とは「錯覚を生み出す技術」だと言えるのだが、現象としての錯覚にいかなる価値があるのか?

それでは錯覚と、錯覚ではない知覚との違いは何か?結局はフッサール先生が述べるように「現実への的中性」が問題となり、つまり「現実」というものが問題となる。すると「非人称芸術」とはいかなる「現実」なのか?

 

******


ところで人間の意識は無意義に接続されている。だから私の非人称芸術は、無意識としての共産主義思想の影響を受けていると同時に、「フォトモ」の方も無自覚的に「別の無意識」の影響を受けている、と考えることができる。

これは私のフォトモと、もう一人フォトモを作っているマスダユタカ氏のフォトモを見比べるとよく分かる。私のフォトモは実に「正統美術」の影響を無意識的に受けているのに対して、マスダユタカ氏のフォトモにはそれが無い。

私のフォトモには確かに「正統美術」としての要素が十全だとは言えないが、しかし明瞭な「遠近法」と「節約律」が備わっているのである。私の「フォトモ」はだから、二つのイデオロギーの融合なのである。それは共産主義イデオロギーと、正統美術のイデオロギーである。

そして、「フォトモ」から共産主義イデオロギーを除外して見たとしても、そこに含まれる正統美術のイデオロギーだけで作品は十分に成立していると判断できる。これは何を意味するか?

つまり作品が成立する条件は、モチーフではなく、つまり意味内容としてのシニフィエではなく、物質としての記号表現であるところのシニフィエなのである!!!

ここで問題となるのが、自然こそが芸術だ、というイデオロギーである。かつての私は「自然こそが芸術だ」というイデオロギーの信奉者であり、その基盤の上に「非人称芸術」のコンセプトもあったのである。

しかしこれは一つのパラドックスを含んでいる。「自然こそが芸術だ」という価値観は、実はこの世に「芸術」と言うものが成立して、その後に成立したのである。そしてその「自然こそが芸術だ」と言う価値観は、真の意味での「価値」として成立していると言えるのか?

現象としての「フォトモ」の成立から考えると、実に自然をはじめとする「現実そのもの」は芸術ではあり得ず、「現実そのもの」を「芸術のフォーマット」に置き換えてこそそれは「芸術」となるのである。なぜならば芸術はそう言うものだと言う観察結果が、現実の観察から得られるからである。

あらゆる人工物が芸術なのではなく、人工物には芸術と芸術以外とが含まれている。だからこのような現実を「大半の人工物は芸術の出来損ないに過ぎない」と表現することができる。

そして「非人称芸術」とは実に、このような「芸術の出来損ない」を「芸術」だと誤解したイデオロギーに過ぎなかったのである。少なくとも戦後日本の現代美術においては、「芸術の出来損ない」を「前衛芸術」と誤解するイデオロギーが蔓延しており、「非人称芸術」その延長のある意味での最終地点だったのである。

だから自分で擁護するような言い方をすれば、私は最終地点まで行って、そこで行き詰まって折り返した。さらに言えば私だけが最終地点に行ったのであり、その他の人々はその手前で永遠に足踏みしている。

私はもう迷い無く「名付けによる創造」を否定しすべきなのである。これがなかなか出来ないでいたのは、「名付けによる創造」そのものが私自身の「発見」であったからである。

ショーペンハウアー先生の「教え」を延長して考えれば、人は「自分の発見」に縛られるのである。そして私はまさに「自分の発見」に縛られ続けており、だから「名付けによる創造」をはっきりと否定することが出来ないでいたのであった。

 

無意識とクリエイティビティ

クリエイティビティとは本質的に無意識の作用で、無意識の作用とは「動き」です。

 

この逆に「動きがない」のは言葉の丸写し、文章なら丸写しで、そのには無意識が作用する余地がありません。

 

そして言葉の要約、文章の要約にも、無意識の作用はありません。

 

加えて言葉の体系化、複数の文章を分類し整理して体系化することにも、無意識の動きは関与しないのです。

 

そのやうに「秀才」と呼べるタイプの人は、無意識が作用せず、だからこそ要約や体系化といった「秀才的」な仕事ができるわけです。

2019明けましておめでとうございます!

すいません、遅くなってしまいましたが、新年明けましておめでとうございます。

 

2019年もよろしくお願いいたします。

 

実はご挨拶が遅れてしまったのには理由があって、昨年末からYouTuberを始めまして、そうしたらそっちに軸足が移ってしまったのです。

 

ブログがおそろかになってしまい申し訳ありませんが、チャンネル登録ぜひお願いします。

 

https://www.youtube.com/user/itozakikimio

 

実際にしゃべると、やはり「書く」のとは違うのです。

 

というのも、ソクラテスの昔からフッサールソシュールラカンなど現代に至るまで、偉大な哲学者は書くよりもしゃべってきたのです。

 

そして実際に自分でしゃべってみると、「書く」に対する「しゃべり」の優位性が如実に自覚できるのです。

 

ことに言語活動が無意識の作用であるということが、「書く」よりも「しゃべる」の方により明瞭に現れて「自由」になるのです。

 

現にこうして文章を書くことも、しゃべりを経験した今の方が、以前よりも滑らかで自由な感じで出来ています。

 

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ただもちろん、ブログをやめるつもりはなく「書く」ことの意味も追求して行くつもりです。

 

一つには、私はYouTubeで本の紹介をしたかったのだけど、私のしゃべりは普通の意味での本の紹介にはならないのです。

 

それはこのブログでも同じですが、本の内容をわかりやすく、入門書的に要約するような仕事は私には出来ない、やる気が起きないのです。

 

私の場合は本を読むとその刺激によって新たな考えが生じてくるので、それを書きたい、あるいはしゃべりたい、そうやってクリエイティビティを発揮したくなるのです。

 

しかしそれではYouTuberとして人気者になることは出来ずお金は稼げません。

 

やはり売れっ子YouTuberはじめ、本にしても、世の「売れているもの」を見ると押し並べて「一般性」のあるものしか受けないのです。

 

そこではオリジナリティは求められていないのです。

 

オリジナリティとは、無意識の作用として生じます。

 

するとその対極にある「売れるもの」は意識の産物として生まれるということになります。

 

そう、哲学系YouTuber「ネオ高等遊民」さんという若い方の動画を見て思ったのですが、彼の哲学解説は初心者向けによくまとまっていてわかりやすい。

 

逆に言えば彼のしゃべりはまるで文章を読み上げているようなのです。

 

いや彼のしゃべりは自然で、決して朗読をしているような硬さがあるのではありませんが、わかりやすいおしゃべりは、一方では文章のようなおしゃべりでもあるのです。

 

あるいは「秀才」と言えるような人には、その精神に本質的に「しゃべり言葉がなく、書き言葉だけがある」と言えるのかもしれません。

 

そしてこれを逆手に取れば、まず文章で分かりやすい哲学の入門書的な内容を書いて、それを読み上げるか自動音声に置き換えるかして、YouTube番組を作成できるかもしれない、そうやって擬似的に秀才的な番組制作ができるかもしれない。

 

まぁ、実現可能かは別として、そんなことを思いついた次第てます。