国家革命と自己革命

自己実現の一歩】
心の中に主流として存在しているものを排除する。それはまさに革命である。
しかしとにかく革命をして心の底にある自分の実際の感じ方を復権させることである。

自分を受け入れることが自己実現への道。
加藤諦三先生)

 
自己革命は一度ならず、一生を通じて何度も繰り返す必要がある。一度の革命は、フランス革命の場合は恐怖政治となって多数の無実の人々が死刑となり社会が混乱した。そこで革命以後のフランスは王政復古したり民主制に戻ったり、変革を繰り返すことになる。

プラトンは『国家』で「国家のあり方はその国民のあり方を反映している」と述べているが、国家の構造と個人の精神構造は入れ子状の相同形態を成している。だから「何の問題もない完全な国家」が実現できないのと同様「何の問題もない完全な個人」の実現もまた不可能なのだと言える。

理想の国家、完全な社会の実現は実際的には非常に困難であり、フランス革命にしろ、マルクス主義にしろ、民主主義にしろ様々な「理想論」を語るが、その理想はことごとく実現せず、予想が外れる。

それは個人に対しても同様で、私の経験で言えば岡本太郎加藤諦三もそれぞれの「理想」を語るが、それはあくまで「理想」であり、自己革命の一段階を推進する役目は果たし得るが、それで全ての問題が解決すると思ったら大間違いである。つまりそれぞれ「理想」は通過点であり卒業しなければならない。

ラカン『精神病(上)』のこれは本質を突いている。人間精神のメカニズムは多数の要素が複雑に絡み合い混乱している。だから「正常」と言うものを単純に設定できないし「この問題さえ解決すれば正常になれる」と言う解決策も、他の諸問題点から目を逸らした偽りの解決策に過ぎない。

逆に言えば、他のあらゆる問題から目を逸らせば、あらゆる問題は解決できる。多くの人々は忙しく、単純な解決を求めている。単純な解決を求めている人に対し、精神分析を勧めることは出来ない。

 

精神分析の治療とは、最終的には自分自身が精神分析家になる他はない。精神分析とは「正常な医者が異常な患者を治療すること」ではなく、フロイトが見本を示した通りまず自分自身を分析するところから精神分析は始まるのである。

 

だから精神分析の治療とは、精神分析の手法そのものを学ぶことであり、それはフロイトラカンの著作を読みながら、自分自身に対して精神分析を行う「実践」によって、徐々に習得されて行くものなのである。

 

皆それぞれが単純な問題に躓いている。なぜなら人は他人の欠点的するのは簡単だが、自分の欠点を認め、さらにこれを改善することほど難しいものはないからである。つまりあらゆる他人は単純な問題に躓き、自分だけが常に大きな問題に押し潰されている。

 

「他人事」に向ける視線を180度回転し自分自身に向けること。そうすればあらゆる問題は単純化され矮小化される。なぜなら人は自分の問題に向き合うと、何もかもが拡大されハードルが上がって見えてしまうのである。

聖書は読むたびに過激だと思うのだが、人間関係を家族に限定してしまうと問題が起きるのでありガス抜きが必要だとイエスは述べている。同時に人間関係を「自分」に限定するのも良くないと述べているところが良くある「心理学書」との違いだとも言える。

家族関係で苦しめられている人は、その事実を対象化し、家族と敵対して「自分」を取り戻す必要がある。しかしその段階に止まって「自分」に固執すると、それによって新たな問題が生じる。そうなると自分は「自分」と敵対しなければならない。その時人は、何を取り戻さねばならないのか?

 

エスの言葉に従えば、家族と敵対して自分自身を取り戻した者は自分自身が「神」になる。デカルト以来の近代的個人主義オルテガが指摘する大衆の時代はそのような「神としての自分」を大量に生み出した。

 

家族からの呪縛を解き放ち「神としての自分」を取り戻した人は何を失ったのか?と言えば「前提」を失っている。つまり自分の前提に親が存在するのにこれを否定してしまっている。だからそのような人は「親をさらに遡る前提」を取り戻さなければならない。

芸術とサブカルチャー

昨夜オン・サンデーズで行われた梅沢和木さんと筒井宏樹さんのトークは非常に面白かったのだが、梅沢さんはアニメやゲームや漫画などの影響を多大に受けていながら、現代アートをはじめとする美術の影響はほとんど受けて来なかった、という点がなかなか興味深い。

つまり梅沢和木さんはアニメやゲームや漫画などのサブカルチャーの影響を受けながら、作品としてはメインカルチャーであるところの現代アートを製作しておられる。これは私自身との問題とも重なるが、私もサブカルチャーの影響を多大に受けて来たのである。

サブカルチャーとは何か?と言えば、最近の私の認識ではひとつには左翼思想の産物なのである。だから梅沢和木さんのアート作品が何なのかと言えば、ひとつの見方としてこれは左翼系アートの系譜だと言うことができる。

いや本人は、自分は左翼思想なんか知らない、と言うかもしれない。しかしそれは私自身もそうであったのだが、左翼思想とは生まれ育った環境によって、自分が全く無自覚のうちに刷り込まれ染み付いてしまうようなものなのである。

それは例えば両親が創価学会の家に育った子供は自分が無自覚的に創価学会的な思想や感じ方に染まってしまうように、クリスチャンの家庭に育った子供が無自覚的にキリスト教的な思想や感じ方に染まってしまうように、現代日本の一般家庭に育った子供は多くの場合左翼的な思想や感じ方に染まってしまう

それは、自分がそうであってし、梅沢和木さんも例外ではないように私には思えたのであった。

内田樹 検証Blog

www.toibito.com 
内田樹先生の文章も、10年くらい前までの一時期は、それこそ片っ端から買って読んでましたが、今読むと色々とヘンな箇所に気づいてしまいますね…

例えばユダヤ教のラビと、キリスト教の神父や牧師を比較されていますが、そもそも新約聖書を読んでみると、そこには「神父」も「牧師」も「教会」すらも出てこないのです。

つまり神父や牧師などの資格はのちの時代に付け加えられたもので、その意味でキリスト教にとって本質的ではないと言えるのです。

実際、明治以降の日本にキリスト教をもたらした内村鑑三は「無教会主義」を掲げ、聖書に書かれていない教会や、神父や牧師などの資格について否定の立場を取ったのです。

そもそも、どこの馬の骨とも分からない乞食風の若者が、ユダヤ教のエライ人(パリサイ人)を次々に論破して、挙げ句の果てに人々の恨みを買って処刑されるのが、新約聖書の物語なのですね。

そんな一匹狼のキリスト教えから、なぜ聖書にも書かれない神父や牧師や教会が発生し「国教」にまでなったのか?

そうした重要なところはスルーして、ユダヤ教のラビと、キリスト教の神父や牧師を比較しても、あまり意味が無いように思うのです。

いや、そうした表面的な比較は一般にはわかりやすいですから、多くの人を分かった気にさせるロジックとしては意味があると言えるかもしれません。

それとページ2について

 

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>もともとユダヤ教は口伝なんです。

と書かれていますが、これはキリスト教も、仏教も、古代中国の諸子百家も、ソクラテスの哲学も同じです。

キリストもブッダ孔子ソクラテスも、自分では本を一切書いておらず、師の教えはしばらく口から口へ伝えられて、ある時点で文字に書き留められ、それらが編纂されて「聖なる書物」となるのです。

>本来ユダヤ教は口伝のものであって、文字化したのでは教えのもっともたいせつな「生命」が枯渇してしまう、と。いまでも、タルムードは文字のまま読んでも意味がなくて、必ず律法の導師に就いて、口伝でその解釈を学ばなければならないことになっています。

これもどの宗教も同じであって、キリスト教にしても、聖書に書かれた文字をただなぞるだけではなく、まず内村鑑三エックハルトなどさまざまな「師」による解釈があり、これは師から直接聞かされるのがベストですけど、そうで無い場合は書物で読んで、最終的には自分自身で対話を重ねながら解釈して行くしか無いのです。

そもそも精神分析家で哲学者のラカンの『ゼミネール』にしても、それはラカンの講義を文字起こしして書籍化したものですが、基本的に意味があるのはラカンの喋りであって、それを文字化したのは「死んだ言葉」でしか無いと、その本の冒頭に書かれているのです。

だから内田樹先生があげられた例の多くは、他の宗教や哲学にも当てはまる事で、「ユダヤ教ならではの特徴」とするには違和感があります。

と言うか、そう言う「違和感」は、物事を根本的にきちんと考えようとすると出てくるのであって、物事をごく表面的に捉える限り「なるほどそう言うものか」と問題なく納得できてしまうのです。

つまり内田樹先生は「無内容な納得」を売り物にしており、かつての私もそれを得るのに夢中になっていたわけです(笑)

芸大と学歴

ayaka-tanamura.net

誰かがシェアしていた記事でしたが、元の投稿が誰だかわからなくなって再検索して探し出しました。

最初に見たときは、大手メディアのインタビュー記事かと思ったのですが、改めて確認したら藝大生が本人のブログに書いた記事でした。

なのであまりキツイことを書くのもなんだと思ったのですが、これに気づいたのは自分の投稿をほぼ書き終えた後だったので(笑)そのまま掲載することにします。

まぁ、藝大生や美大生がメンヘラなのは「メンヘラ」という言葉がまだなかった私の美大時代からそうでしたが、それよりも藝大生も藝大も「最近、藝大生のレベルが落ちた」と世間でよう言われるようになったことを、問題にした方がいいのではないかと思うのです。

これは私が思ってるというよりも、本当にさまざまなところから「藝大生のレベルが落ちた」という話を聞くようになったのです。

その原因を私なりに考えてみると、みなさん「学歴」というものを大袈裟に捉え過ぎではないかと思うのです。

それは藝大、美大に限らず、東大を頂点とする日本の学歴社会全体の問題ではないかと思います。

記事中にも下記の記述がありますが、

>私は東京藝術大学 美術学部 絵画科 油画専攻を現役で合格しました。
>私の年は倍率22倍、現役合格の倍率は100倍とも言われていました。
>1000人もの屍の山の上を歩く日々も、来月の卒業式で終わりを迎えようとしています。

こんなことを自慢げに書くから精神を病むのだし、作品も良くならないのではないかと思います。

いやそれは、逆に「藝大に入れなかった人」にも同じことが言えて、実は私自身も学生時代は「藝大に入れなかった」という失意から、今から思うと自分で自分の才能を潰していたのでした。

考えみれば、日本において学歴は受験によって決まりますが、受験の内容は現実の複雑さに比べるとかなり単純化されています。

たとえば「芸術とは何か?」とか「どれが優れた作品なのか?」は非常に複雑で難しい問題ですが、藝大美大受験の際はそのような問題が「棚上げ」されたまま、取り敢えずデッサンが上手い人順に合格させるのです。

しかしデッサンが上手い人が必ずしも良い作品が作れるとは限らず、私も「デッサンだけがやたら上手くて、自分の作品が全く描けない人」の例をいくつも見ているのです。

それは美大以外の一般の大学も同じで、受験というのは人間のさまざまな能力のうちごく一部を切り取って、その優劣を判断しているに過ぎないと思うのです。

しかし、実際的にその人が本当に優秀かどうかは「優秀な人間とは何か?」という問いも含めて大変に複雑で難しいはずです。

いや、その人が優秀かどうかは、その人が現実に対しどう対応しているのかを見れば分かるのですが、現実というのは複雑で、それに対応する人の能力も複雑で要素が多くなりますから、「受験」という一律なシステムで判断する事は出来ないと思うのです。

すると受験や学歴に何の意味があるのか?と言えば、それはあくまで便宜的なものに過ぎないと思います。

たとえば最近、Facebookのグループに加入しようとすると、簡単な質問をされるようになりましたが、それはスパムや冷やかしを防止するため便宜的に設けられたもので、受験も本質的にはそれと変わらないのではないかと思うのです。

受験によって便宜的に選別をしなければ、誰でも入学できることになってキリがなくなりますが、受験にそれ以上の意味があるのか?と問われると、実際的には難しいものがあります。

私が学歴にこだわらなくなったのは、一つには美術と写真のコンペに応募して、それぞれ賞を貰ったことがキッカケです。

アートのコンペというのは、学歴とは違った基準で審査されますから、学歴とは全く関係なしに評価されるのです。

それと同時に、いくらコンペで賞を貰ったところで、その評価はその時限りのもので、なんら普遍性がありません。

わかりやすく言えば、賞をもらうと授賞式では皆さんに褒められてチヤホヤされますが、それは本当に、その場限りのことに過ぎないのです。

それ以来、私は「学歴」も「受賞歴」も大袈裟に考えることなく、いや無いよりはあった方励みになるとは思いますが、その程度の「便宜的な基準」の一つに過ぎないと思うようになったのです。

それと、哲学を翻訳本で読むようになったことも大きいと思うのですが、以前の私は「どうせ自分は美大出だから」と、哲学は誰にでもわかりやすく書かれた「入門書」で読んでいたのです。

ところが彦坂尚嘉先生に勧められて、フッサールなどの難解と言われる哲学の翻訳本を読んでみると、初めはチンプンカンプンでしたが、何度かチャレンジするうちに徐々に読めるようになってきたのです。

この場合の「読める」とは、「フッサールの頭」が「自分の頭」に少しはインストールされで、その分だけ「自分の頭」がバージョンアップされた、ということ意味します。

そのようにしてバージョンアップされた頭で、かつて自分が読んだ「入門書」を再読してみると、その著者は中島義道先生にしろ、内田樹先生にしろ、橋爪大三郎先生にしろ、みなさん「東大卒」の学歴を持つ先生方ではありますが、結局はそのような「学歴」に縛られるあまり、本当に「哲学」を理解されているのかどうか?が大半に疑わしく思えるようになってしまったのです。

これについて詳しく書くとさらに長くなるので別の機会に譲りますが、ともかく「学歴」と「哲学の理解」は無関係だというのが最近の私の認識です。

私が哲学を読むのは美術家であるからで、写真を含む美術とはまず「認識」の問題であるし、作品を制作することも全人格的な行いであるので、そのためにどうしても哲学を読む必要が出てきてしまうのです。

要するに、芸術にしろ哲学にしろ、その人が何を「必要」としているかが重要なのであり、だから藝大にしろ東大にしろ、学歴を取得して満足してしまうと、その先の「必要」というものが無くなってしまいます。

最後に記事の下記の箇所ですが、

>(2)病んでる時ほど良い絵が描けてしまうから
>私がうつ病だった時、とある教授が私に言いました。
>「棚村は病んでる方がいい絵描くよなぁ」と。

これは世間によくある芸術に対する誤解の一つで、こうした発言自体、教授自身が芸術とは何か?をよく分かっていない証拠だし、そのような「指導」で学生を精神的に追い詰めるたとしたら、教授としては問題ではないかと思います。

いや、病的な精神から良い絵が生まれることがあるのも事実ですが、それはほんの一時のことでしかなく、そのままでは急速に劣化して崩壊します。

なぜなら「人間精神の負の要素」と向き合って制作することと、精神を病むこととは似ているようで違うからです。

外山滋比古 検証blog

president.jp



かなり酷い内容の記事ですが、まず読書を「知識を詰め込むため」という風に一律に規定するのがおかしい訳です。

例えば小説ですけれども、小説というとは一般的に知識を詰め込むために読むものなのでしょうか?

また、哲学のようないわゆる知的な本にしても「知識を詰め込むため」に読むというのは完全に間違っています。

知的な本というものは、それはある種の小説も含めてですが「他人の頭」をインストールして「自分の頭」をバージョンアップするために読むのだと私は思うのです。

いくらハードディスクにデータを溜め込んでも、OSをバージョンアップしなければパソコンは速くならない…いや例えが単純すぎましたが、そもそも「自分の頭で考える」とはどういうことか?を考えなければなりません。

まず「自分の頭」とは産まれながらに出来上がっているものではなく、まず言葉を学びながら、そして親や先生をはじめとする他人の考えを様々に学びながら、徐々に「自分の頭」を形成してゆくのです。

ところがある一定程度に「自分の頭」が出来上がると、自分が赤ん坊の頃から学んできた過程を全て忘れて、それがもう産まれながらの「自分の頭」だと勘違いしてしまう。

そうなるともう、それ以上の「他人の考え」はことごとく「自分の頭」からシャットダウンしてしまい、「成長」と言うものがなくなってしまうわけです。

つまり、本を読むことを「知識を増やすこと」だけだと考えている人は、「自分の頭」をそのままにして知識だけを増やしている。

これではいくら本を読んでも本当の意味で頭は良くならなず、「自分の頭」のバージョンアップが出来ないのです。

私がフッサールラカンフロイトを読むのは、それによって知識を増やそうとするのではなく(元来物覚えが悪いのでその意味での知識は増えないのですが)、自分の頭をバージョンアップするためなのです。

とは言え、そのような哲学や思想者は「他人の頭」そのものですから、「自分の頭」にインストールするのはなかなか難しい。

しかし難しくてインストールしにくい「他人の頭」ほど、「自分の頭」にインストールのしがいがあり、それだけ大幅なバージョンアップが可能になるのです。

この、外山滋比古さんは、おそらく高校生くらいで「自分の頭」が出来上がってしまい、それを頑なにバージョンアップしないまま、ひたすら本を読んで「知識」を溜め込んで、30代を終えたのではないかと思います。

まぁその方が、売れっ子の評論家にはなりやすいのだろうとは思います、分かりやすいでしょうから…

「自分の頭」がバージョンアップしてゆくと、一般的な人々からかけ離れていって分かりにくくなりますが、「自分の頭」をそのままにしながら知識を増やすタイプの人は一般的にその「頭の良さ」を示しやすいのですね。

言語論と聖書

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。『ヨハネ福音書 』冒頭

 

教科書的には、20世紀哲学において「言語論的転回」というものがあったとされるが、実に新約聖書の「ヨハネによる福音書」冒頭に、「全てが言葉である」と既に書かれている。

 

全ては言葉であり、言葉は神であり、言葉によって出来ていないものは存在しないと、聖書には記されている。そして西洋哲学は20世紀になってようやくこの認識に立ち返ることができたのだと言えるかもしれない。

 

全ては言葉である、とすると、例えば文字で書かれた「詩」だけが詩であるとは限らないことになる。あるあは音声によって謳われた詩だけが詩なのではないはずである。全ては言葉なのだから、詩は音声や文字に限らずあらゆる「もの」もして存在し得る。

 

言語論的回転のwikiはこちらですが、私がみたところではフッサール現象学もこれに影響を与えているように思える。実際、竹田青嗣さんの『現象学入門』は現象学構造主義とが錯誤されたようなレトリックで書かれており、私はしばらく両者の区別が付かなたった

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/言語論的転回

ボルヘス『詩という仕事について』抜き書き

私の信ずるところでは、生は詩から成り立っています。詩は、ことさら風変わりな何者かではない。いずれ分かりますが、詩はそこらの街角で待ち伏せています。いつ何時、我々の目の前に現れるやもしれないのです。#ボルヘス 詩という謎

 

#ボルヘス 詩という仕事について p30-31