他力と非人称芸術

そもそも私の「非人称芸術」のコンセプトは、自分自身のアーティストとしての「才能の無さ」という絶望から出てきたのである。私は自分の芸術作品を生み出す上で、「才能=自力」は全く頼りにならないことを悟り、それを「他力」によって実現しようとしたのである。

自分の才能に絶望した私に「他力」を示してくれたのが、赤瀬川原平さんにより提唱された「超芸術トマソン」なのであった。トマソンが芸術を意図したという意味での「作者不在」だと言うのは、「他力」を意味していたのであり、それに私は飛びついたのだ。

私がトマソンに影響を受けて間も無く、私は路上で「昆虫」を発見して昆虫写真も撮ることになったのだが、昆虫写真の完成度は被写体によるところ大であり、そのクリエイティビティは「他力」によるのである。

しかし今から考えると、私が自分で特殊だと思っていた「他力」による作品製作は、実は方法論としてまともであり、世間一般で信じられている「芸術家は才能によって作品を産み出す」という自力思想の方が間違っていたのである。

岡本太郎の「自力」による芸術論は、だから世間におもねっているだけで、だから「誰でも芸術家になれる」と主張するのである。

一般に、専門家の能力は、世間一般においては神秘化される。それで芸術家も才能という神秘の力で作品を作ると、一般には信じられている。そして、その神秘的な才能は誰にでも備わっているのだと、岡本太郎は世間におもねって主張するのである。

能力の神秘化は、一般素人の考えであり、専門家は自らの専門的能力をそのようには捉えない。自分が能力を発揮できるのには「理由」があり、その「理由」自分が習得したからこそ能力が発揮できるのだと、専門家は自覚しているのである。

だから岡本太郎のように、芸術の能力を神秘化して捉えるのは素人の考えであり、つまり岡本太郎は専門がではなく素人の代表として、世間体的な芸術論をかたり、それによって戦後日本の美術界に多大な影響を与えたのである。

私は岡本太郎の影響を受けながら、しかし紆余曲折あって偶然の作用の結果「自力」という間違った方法を捨て、本来的に正しい「他力」によって作品を制作する事になったのである。つまり私の「非人称芸術」はそれ自体が正しかったのではなく、「他力」として機能した点において正しかったのである。

自力と他力

全ての芸術は「非人称芸術」である。と言うのは私にとって大きな発見である。いや正確にはそうではなくて、一人称という言葉の定義が問題になる。「私とは何か?」とは哲学的な問題であり、素朴な認識による「自明な私」により「非人称芸術」の概念を構築したことは間違いであったが、それは全面的に否定されるものではない。

 

つまり「私の考え」と言うのも実は私一人だけの考えではなく、人類史的な共同作業の一環であり、その意味で何らかの必然があって生じているのである。問題は私の「非人称芸術」理論が間違っていたことよりも、それ以前に私の「芸術における作者とは何か?」と言う認識が間違っていたのであり、「私のは何か?」という認識が間違っていたのである。

 

そして正しくは、芸術における作者とは、実は非人称的な存在であり、「私」とは明確な一人称ではなく、実に非人称的な存在なのである。

 

けっきょくのところ、芸術家は自力ではなく他力によって芸術作品を現象させる。芸術とはものではなく現象である。芸術家は魔法使いのような存在で、魔法を使って芸術を現象させる。魔法とは方法であり、方法とは自力ではなく他力である。

 

科学は魔法の延長にある。科学とは実利的な現象を生じさせる方法であり、方法とは他力である。科学は物理法則という他力をコントロールすることによって、実利的な現象を生じさせる。

 

芸術も科学と同様に魔法の延長なのであり、芸術家は方法によって、即ち他力によって、芸術という現象を生じさせる。いや魔法をもっと普遍的な呪術という言葉に置き換えるならば、芸術は実に文明の発生と共にあり、芸術が文明を作ったという一側面がある。

 

文明を成立させるには、血族を超えた赤の他人による大人数の人々を終結させる必要があるが、それは方法としての呪術によって行うことができず、新たな段階による「芸術」という方法によってそれが可能になる。

 

つまり、誰かと王様を名乗る人物が、立派な装飾品を身につけ、立派な神殿を構えるなら、そこに多くの人々が集まってくる。呪術を使ってはそのように人を集めることはできないが、芸術にはそれが可能なのである。

 

還元主義的に捉えるならば、芸術も科学も呪術に還元できる。呪術とは「他力」であるが、しかし原始社会において「他力」というのはまず構成員の数が数十人規模と少ないことと、文字がないので記憶の蓄積量も乏しい。そこで原始社会における他力は「神頼み」になる。

 

ところが「文明」段階になると、人の数が格段に増え、文字の発明により記憶の蓄積量も格段に増え、あらゆる面での「他力」が増大したのである。

 

人工物に覆われた文明世界は「他力」がみなぎっている。文明世界に偏在する「他力」を利用すれば、人はなんでも思ったことを成し遂げられる。つまり何かをしようと思った時、その「やり方」というもの自体が「他力」として存在することを捉え、これを学んで習得すれば良いのである。

 

フォースの力!スターウォーズのようなおとぎ話は、実に現実をたとえ話で表現しているのであり、その意味でフォースの力も実在する。『帝国の逆襲』のヨーダによると、フォースはどこにでも存在し、そのフォースを感じ取ることで、フォースの力を使うことができる。

 

これを現実的に考えれば文明世界というのは人工物に覆われており、全ての人工物には「他力」が宿っているのであり、その「他力」を感じ取ることができれば、「他力」と一体となりそれを自らの力のように利用できる。

 

つまり漫然とものを見るならば、それは自明的な「もの」でしかないが、ものが人工物である限りそこに「方法」と「歴史」が存在するのであり、そのようにして「他力」が宿っているのである。

 

ピカソは天才だと言われているが、実に大いなる「他力」の使い手なのである。ピカソの力、オリジナリティがありバリエーションに富む大量の作品を生み出す力は、ピカソの自力ではなく「他力」なのである。

 

私がデジカメを手にして間もない頃、昆虫写真家の海野和男先生の真似をして「チョウの飛翔写真」を撮ろうとしたが全くうまくいかなかった。チョウの飛び方は不規則で、これをカメラで追いかけて撮るのは至難の技なのだ。

 

しかしそれからしばらくして、海野和男先生と一緒にチョウの撮影をする機会を得て、実際に海野先生の撮り方を見ると、自分自身はほとんど動かず、チョウがカメラの近くに来た瞬間にパッと撮影されているのである。

 

これに対して私は飛んでいるチョウを闇雲に走って追いかけ、挙げ句の果てに一枚も撮れないでいたのである。つまり海野先生はチョウの習性をよく知り、自分の力は極力使わずに撮影を成功させている。海野先生は「他力」を使って自力を抑え、私は自力だけでなんとかしようとしながら失敗を重ねていた。

 

岡本太郎の芸術論とは、つまりは「他力」の排除なのである。岡本太郎は「芸術にリクツはいらない。自分の感性だけを信じろ。」というように説くが、「他力」を排除して「自力」だけを頼りにすれば、誰にでも芸術は生み出せると主張している。

 

それはつまり、一つには「他力」を使うためにはそれ相応の修行が必要であることを意味している。修行とは「他力」を身につけるために行うもので、だからこそ師匠が必要なのである。しかし「自力」でやるなら修行の必要はなく、だから誰でも芸術家になれると岡本太郎は主張するのである。

 

「他力」を排除して「自力」だけで作品を作ろうとすると、オリジナリティもバリエーションも乏しくなるのであり、そのことはピカソ岡本太郎の作品群を比較するとよく分かる。

 

実に岡本太郎が主張するような「純粋な自力」はあり得ない。自分が素朴に「自力」だと思っている力も実は「他力」なのである。

 

産まれたばかりの赤ん坊は無力で、様々な「他力」を習得しながら大人になる。しかし大人になったある時点で、自分が身に付けた「他力」を「自力」と勘違いし、そうそれ以上の「他力」をシャットアウトしてしまうならば、自らの「他力」の力量はそこで限界となる。

 

そのように限界のある「自力」のみで芸術作品を作ろうとしても、けっきょくは内容は空疎になり、似たようなものしか作れずに、やがては行き詰まってしまう。そのような人はピカソのように晩年まで「生きた芸術」を生み出すことはできず、長生きしても生ける屍のような作品しか作ることができない。

 

近代戦は武器という「他力」の所有によって勝敗が決まる。だからかつての大日本帝国は「他力」の保有量で圧倒的に勝るアメリカに負けたのである。また現代において北朝鮮は「核」という大いなる「他力」を手に入れることで、日本を脅威を与えいる。

 

しかしそれなのになぜ岡本太郎が言うように、芸術家だけが「他力」を手放さなければならないのか?これは実に平和憲法と重なる問題なのである。

 

戦後の日本人アーティストは岡本太郎の呼びかけにより武装解除し、戦争を放棄している。

 

芸術家が戦争をすると言うことは、他を圧倒するより優れた芸術を産み出そうとする事である。しかし岡本太郎は武装放棄すれば誰でも芸術家になれると主張する。つまりこれは芸術家としての戦争放棄であり、誰もが似たり寄ったりの、互いに優れることのない芸術を産み出す事なのである。

 

一体、芸術としての戦争のないところに芸術は存在しうるのか?平和を愛し武装放棄した戦後日本のアーティストが作る作品は、本当に芸術と呼べるものなのか?

 

マキャヴェッリ 君主論 抜き書き2

●敵から身を守ること、味方をつかむこと、力またははかりごとで勝利をおさめること、民衆から愛されるとともに恐れられること、兵士には命令を守らせるとともに尊敬されること、君主に向かって危害を加えらる、あるいは加えそうな連中を抹殺すること、厳格であるとともに丁重で、寛大で、濶達であること、忠実でない軍隊を廃して新軍隊をつくること、自分に当然の尊敬をはらわせ、あるいは危害を加えるにも二の足を踏むように、国王や君侯たちとは親交を結ぶこと、以上すべてのことがらこそ新君主国において、必要欠くべからざるものである。

残酷さがりっぱにーーもし悪についてもりっぱにという言い方を許していただければーー使われたというのは、自分の立場を守る必要上一度はそれを行使しても、そののち、それに固執せず、できるかぎり臣下の役にたつ方法に転換した場合をいう。

ある国を奪いとる場合、征服者は残酷な加害行為を日々蒸しかえしたりせぬように一気呵成に実行するように配慮し、蒸しかえさないということで人心を安らかにし、恩を施して民心をつかまなければいけないということである。

要するに、加害行為は、一気にやってしまわなくてはならない。そうすることによって、人に長く味わわさないようにすれば、それだけ人を怒らせることも少なくてすむのである。これにひきかえ、恩恵は、よりよく人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない。

民衆の願いは貴族のねらいよりはるかに穏当であり、貴族がおさえつけることを望むのに対して、民衆は抑圧されないことを願うだけである。さらに加えて、民衆は多人数であるため、民衆を敵にまわす君主は安閑としておれないが、貴族に対しては、相手が少数だから、安心していられる。

君主が民衆を敵視するばあい、起こりうる最悪の事態は、民衆から見放されることである。 

事実、人間というものは、危害を加えられると信じていた人から恩恵を受けると、ふつう授けてくれるばあい以上に恩義を感ずるものだ。

平時にあっては誰もが皆はせ参じたり、約束してくれるのである。死が遥か彼方と見る時は、皆が皆、わが君の為には死をも辞さないと言ってくれるのである。だが、いざ風向きが変わって、君主がそうした市民を本当に必要とする時がくると、とてもそういう人間は見いだせるものではない。

さて、君主は、戦いと軍事組織と訓練以外に, いかなる目的も、いかなる配慮も、またいかなる職務も、もってはいけない。つまり、これが統治者に本来属する唯一の任務なのである。

 フランチェスコ スフォルツァは武力をもっていたため一市民からミラノ公になった。また彼の子息たちは軍備のわずらわしさを避けたためにミラノ公の身分から振り出しに戻った。つまり非武装があなたの上に及す弊害は色々あるが、特に問題なのはあなたが人に見くびられることである。

君主は、かたときも軍事上の鍛練を念頭から離してはならない。そして平時にあっても戦時をしのぐ鍛練を行なわなければならない。

君主は歴史書を読み、それをとおして偉人の残した行動を考察することが必要である。戦争にさいして、偉人たちがどういう指揮をしたかを知り、彼らの勝ち戦や負け戦の原因がどこにあったかを検討しつつ、前者を範とし、後者を避けるようにしなくてはならない。そして、とくにある偉人が過去に行なったとおりのことをやらなければならない。

君主たる者は、自分の臣民を結束させ忠誠を守らすためは、残酷だという悪評をすこしも気にかけてはならない。というのは、あまりに憐れみ深くて混乱状態をまねきやがて殺戮や略奪を横行させる君主に比べれば、残酷な君主はごくたまの恩情ある行ないだけで、ずっと憐れみ深いとみられるからである。また、後者においては、君主がくだす裁決がただ1個人を傷つけるだけですむのに対して、前者のばあいは、国民全体を傷つけることになるからである。

聡明な君主は、平時にあっても断じて安逸をむさぼるべきではなく、努力して、これをりっぱに実践し、逆境におちいった場合にも十分に生かすようにしなくてはならない。つまり運命が一変してしまったときでも、運命に耐えられるような心構えをもっていなくてはならないのである

昔からの君主国も複合国も、また新しい君主国も、すべての国にとって重要な土台となるのは、よい法律とよい武力とである。よい武力をもたぬところに、よい法律のありうるはずがなく、よい武力があって、はじめてよい法律がありうるるのである。

愛されるのと恐れられるのとはどちらがよいか。誰しも両方をかねそなえていることが望ましいと答えるであろう。だが、この二つを同時に具備することは難しい。したがって、かりにそのどちらかを捨てて考えなければならないとすれば、愛されるより恐れられるほうがはるかに安全である。というのは、人間については一般に次のことがいえるからである。そもそも人間は、恩知らずで,むら気で、偽善者で、厚かましく、身の危険は避けようとし、物欲には目のないものである、と。

人間は恐れている者より愛情を感じていた者を容赦なく傷つける。この理由は元来人は邪悪であり単に恩義の絆で繋がれている愛情などは自分の利害がからむ機会が起きればすぐにでも断ち切ってしまうからである。だが恐れている者に対しては、処刑の恐怖でしっかりと縛られており決して見殺しにしない。

君主は例え愛されなくても人から恨みを受けないようにして恐れられる存在にならなければならない。つまり恐れられる事と恨みを買わない事とは立派に両立しうるのである。これは君主が自分の市民と領民の財産や彼らの婦女子にさえ手を出さなければ必ずできることである。#マキャヴェッリ 君主論

人間は、父親の殺されたのはじきに忘れてしまっても、自分の財産の損失はなかなか忘れないものであるから、とくに他人の持ち物には手をださないようにしなくてはならない。

いま君主が軍を率いて、多くの兵士の指揮にあたるようなとき、そういうときであれば、残酷という悪名など頭から問題にしなくてよい。つまり、こうした評判が立たないようでは、軍隊の結束をはかり、軍事行動に出ることなどけっしてできないからである。

臣民が愛するのは、彼らが思うままにすることである。また恐れるのは、君主が思うままにすることである。従って賢明な君主は本来自分の方針に基づくべきであって、他人の思惑などに依存してはならない。ただ先に述べたように憎しみを買うことだけは努めて避けるようにすればよい。

戦いに打ち勝つには二つの方法がある。一つは法律によるものであり他は力によるものである。前者は人間本来のものであり後者は本来野獣のものである。だが多くの場合最初のものだけでは不十分であって後者の助けを求めなくてはならない。つまり君主は野獣と人間とを巧みに使いわける事が必要である。

昔の著述家はアキレウスはじめ多くの古代の君主たちが半人半馬のケイロンのもとに預けられて、この獣神のしつけを受けたことを書き記している。ここで半人半獣を家庭教師にしたという話は、君主たる者はこうした両方の性質を使いわけることがぜひ必要であるということを言おうとしているのである。

君主は野獣の性質を適当に学ぶ必要があるのであるがその場合野獣の中では狐とライオンに習うようにすべきである。というのはライオンは策略の罠から身を守れず狐は狼から身を守れないからである。罠を見抜くという点では狐でなくてはならず狼どもの度肝を抜くという点ではライオンでなければならない。

名君は信義を守ることがかえって自分に不利をまねくばあい、あるいは、すでに約束したときの動機が失われてしまったようなばあいでは、信義を守ることをしないであろうし、また守るべきではないのである。尤もこの教えはもし人間が皆よい人間ばかりであれば間違っているといえよう。だが人間は邪悪なものであって貴方に対する信義を忠実に守ってくれるものではないから貴方の方も人々に信義を重んずる必要はない。その上、信義の不履行を合法的に言いつくろうための口実は、君主にはいつでも見いだせる

大胆にこう言っておこう。そうした立派な気質を備えていて、つねに尊重しているというのは有害であり備えているように思わせる事、それが有益であると。つまり慈悲深いとか信義に厚いとか人情があるとか裏表がないとか敬虔だとか思わせることが必要である。それでいて、もしそのような態度を捨てさらなければならないときには、まったく逆の気質に転換できるような、また転換の策を心得ているような気がまえが、つねにできていなくてはならない。

君主という者は、とくに新君主のばあいは、国を維持するために信義に反したり、慈悲に反したり、人間味に反したり、宗教に反した行動にたびたびでなくてはならないということを知っておいてほしいのである。つまり一般に、よい人だと考えられるようなことばかりを後生だいじに守ってはいられないということである。それゆえ、君主は、運命の風向きと事態の変化とが命ずるところに従って、変幻自在の気がまえをもつことが必要である。

できうれば、よいことから離れずに、それでいて必要やむをえぬときは、悪にふみこんでいくことが肝要である。

君主に謁見し、彼の話にききいる人たちに対しては、君主がどこまでも誠実で、信義に厚く、裏表がなく、人情味にあふれ、宗教心に厚い人物と思われるように心を配らなくてはならない。しかも、この中でも最後の気質が身にそなわっているように思われることほど大切なものは他にない。

人間は総じて実際に手にとって触れるよりも目で見たことだけで判断してしまう。それは見ることは誰にでもできるが、触れることは少数の者にしか許されないことによる。すべての人が外見だけであなたを見てしまい、実際にあなたに触れているのは、ごくわずかの人である。

私と存在

自分は存在しない。いや少なくとも「自分が存在する」と素朴に認識するようには自分は存在しない。実際に、目に見えるあらゆるものは、他人が作ったものであり、自分が作ったものは何一つ存在しない。自分で自分の顔が直接見ることができないのと同様、自分の目には他人が作ったものだけが見えている。

自分が存在しないのに、なぜ他人が存在し得るのか?他人もその一人一人がそれぞれの「自分」であるはずなのに、自分が存在しないならば他人も存在しないのではないだろうか?

「他人」とはいったい誰なのか?例えば、今私の目の前に見える道路や自動車や街の建物は皆、私ではなく他人が作ったものである。しかしその他人とは誰かと言えば、誰か一人の他人ではない。人がものを作ると言うことは本質的には共同作業であるので、それを作ったのは誰かと言うその一人を特定できない。

いやしかし、少なくとも芸術作品に作者は存在する。モナ・リザの作者はレオナルド・ダ・ヴィンチだし、アヴィニョンの娘の作者はピカソである。しかしモナリザと言う作品をダヴィンチが一人で作り上げたのか?と言えば厳密にはそうではない。

ダヴィンチはモナリザを描くにあたって、そこで使われた写実技法や油彩技法などの全てを一から自力開発したのではなく、先人たちの技術や知識を引き継いで、これを発展させたのである。つまりモナリザの作者はダヴィンチ一人ではなく、人類史的な共同作業の結果として作品が存在するのである。

かつての私は作者不在の「非人称芸術」のコンセプトを提唱したのであったが、しかし改めて考えると作者が存在するとされる芸術作品も、本質的には非人称芸術なのである。

一般に役者や音楽を使った映画作品は共同作業で、対して絵画は独りで描けるとされている。しかし絵を描くには、誰かから描き方を学ばなければならないし、紙や絵の具も買わなければならない。正確には自分独りだけで絵を描くのは不可能で、たとえ独りで描いたとしても、それは必然的に共同作業になる。

小説や詩も共同製作ではなく、独りで書けるとされている。しかし「言葉」を覚えなければ何も書けないし、言葉とはそもそも人類の共有物として、長い歴史を重ねている。そのような歴史的な共同作業の一環として、小説や詩が書けるのである。

また、小説や詩を「書く」場合、文字や筆記具や紙といった存在は、原始時代には存在し得なかった「文明」の産物なのである。そして文明というのは、原始時代にはなし得なかった、膨大な数の人びとを集めて共同作業を行うためのシステムなのである。その文明的な共同作業の一環として、小説や詩を「書く」行為がある。

すると作者とは何か?と言うことが問題になるが、少なくとも原始社会における神話には名前のある作者が存在しない。古代ギリシャ神話にも名前のある作者はいないが、プラトンの著作にはプラトンという名前の作者が存在する。

ところがプラトンの諸作はプラトン自身の言葉ではなく、ソクラテスの発言が記されており、しかもそのソクラテスの発言も、ソクラテスから直接聞いたのではなく、その言葉を又聞きした他人の記憶を頼りに再現する形で書かれている。なのでプラトンの著作は、実際には非常に複雑な構造によって語られて、人が何かを語るという事自体が共同作業であることを示している。

つまり人間とは何か?と言えば、誰もが何らかの共同作業に参加してその一翼を担っているのであり、人間は何をしようとしても必然的に共同作業に参加してその一翼を担ってしまう存在なのである。

今日の初めの問題に戻れば、眼に見えるあらゆる人工物の全ては人類史的な共同作業の結果であり、それは作者が明確とされる芸術作品も本質的には同じなのである。そして、そのような人類史的な共同作業の結果である人工物をただ見て認識するだけで、「私」も必然的にその共同作業に参加するのである。

人間とは何か?と言えば共同作業をする存在であり、それがキルケゴール死に至る病』冒頭に記された「人間とは関係への関係である」と言うことである。

「自分」で哲学的思索を深めようとも、「自分」で芸術作品を製作しようとも、それは必然的に人類史的な共同作業なのである。すると優れた哲学者や優れた芸術家とは何か?と言えば、共同作業をするのが上手い人を指すのである。

一般に、優れた映画監督は共同作業が上手く、その結果として総合芸術としての名画が出来上がる。また優れたメーカーも、共同作業によって優れた製品を生み出す体制が整っている。同じように優れた哲学者や優れた画家も、人を集めて共同作業をするのが上手いのである。

哲学も芸術も、本質的には「独りの作者」が特定できない人類史的な共同作業だが、映画に映画監督の名を冠するように、メーカーの製品にメーカー名を冠するように、「印」としての作者名を、哲学書や芸術作品に冠するのである。

つまりあらゆる表現分野の作者とは、実質的には映画における「監督」と同じであり、人びとは「印」としてその作品の監督名を知りたがる。監督名=作者名とは分類のための印であり、それがあった方が別の新たな共同作業をする上で便利なのである。作者の名前は人類史的な共同作業の利便性により存在する。

「私」とは何か?なぜ私は「私」の存在を明瞭に認識するのか?と言えば、他人もまた私(糸崎公朗)の存在を明瞭に認識するのである。なぜかと言えば、私が「私」を必要とする以上に、他人が私(糸崎公朗)を必要としているからであり、それが「人間は共同作業をする存在である」ことの意味なのだ。

そして私自身も「私」を必要とする以上に、他人を必要としている。私が何をしようとしてもそれは必然的に共同作業となり、そのため私は他人を必要とする。それは他人にとっても同じことで、私が「私」を必要とする以上に、私の存在は他人に必要とされる。そのような関係として、私とそれ以外の他人が存在する。

現実と物語

物語と現実の何が違うかといえば、何も違うところはなく、物語を生きる人と、物語を生きない人とがいる。物語とは筋であり、筋を生きる人と、筋を生きない人とがいる。「世界」は混沌としているからこそ筋が必要になるのだし、筋がなければ混沌に流される。

人生計画とか、野望とか希望とか夢などは、つまりは物語であり筋である。混沌から筋が構成されると生物の身体となり、生物の身体はそれ自体が一つの物語なのである。混沌から筋が構成されるとそれがその人の人生となる。人は言語を習得し言語を構成して筋を構成し、人生という物語を生きる。

ところが物語の構成力が弱いと、その物語は混沌に流される。明瞭な筋がなく混沌に流される人生は物語として意味が乏しく虚しい。そこではたと気づいたのだが、人生には物語型人生と、ゲーム型人生とがある。

なぜ世の中に物語やゲームが存在するのか?と言えば、人生に物語型人生と、ゲーム型人生とがあるからである。人生に物語を必要としない人は、日々ゲームをクリアするように人生を送るのではないだろうか?しかしこれは決めつけが大きすぎて精度が的中率が疑わしい。

話を我がこととして考えないと、抽象に陥ってしまう。私もアーティストとして、意味のある物語の中を生きる必要がある。そうでなければ、世界本来の混沌に流され、目の前の目標をその都度クリアするだけの、ゲーム型人生に終わってしまう。

アリストテレスが『詩論』で述べる「筋」と言うものか「混沌」の対義語であるならば、これは非常に重要な概念ということになる。

物質と痛み

生活と学問における自然的態度の思考、すなわち認識の可能性のいろいろな難問題には無頓着な思考と認識の可能性の諸問題に対する立場によって規定される哲学的思考。#フッサール 現象学の理念

 

実在について論じたように、物体というも我々の意識現象を離れて別に独立の実在を知り得るのではない。我々に与えられたる直接経験の事実はただこの意識現象あるのみである。空間といい、時間といい、物力といい皆この事実を統一説明する為に設けられたる概念にすぎない。#西田幾多郎 善の研究

西田幾多郎フッサールが言うように、我々は自分が慣れ親しんだ認識を、慣れ親しんでいるという理由によって信頼し過ぎている。いくら自分が慣れ親しんでいるからといって、その認識は「正しい」とは言えない。

慣れ親しんだ人を「自分が慣れ親しんでいる」と言う理由で信用する人は、簡単に詐欺師に騙される。同じように、人は自分が慣れ親しんだ認識に騙され、嘘の世界を生きる。

物体は存在しない。いや少なくとも、私が素朴に「物体は存在する」と認識するようには存在しない。物体は精神の外部に存在し、私の精神が、その外部の物体を認識するのではない。物質とは即精神現象であり、精神現象として物質は存在する。

物質は、私に対し殺傷力を備えている。つまり、目の前の石ころがいくら精神現象であっても、それを私に向かって投げてぶつけられたなら、私は実際的に傷付けられるか、さもなくば死んでしまう。

精神現象にすぎないはずの石ころを自分にぶつけられると、なぜ物理的ダメージを自分は受けるのか?と言えば、石をぶつけられて痛い思いをしたり怪我をすること自体が、精神現象なのである。それで言えば精神現象が消滅する死も、精神現象だと言える。

目の前の石ころが、素朴な認識において、自分の精神の外部に実在するかのごとく認識されるのは、実に「恐怖」によるところ大ではないだろうか?あらゆる物質は自分を傷つけ死に至らしめる可能性を持つ。その恐怖が、物質の実在性を自分に信じさせる。一般に恐怖は人の認識力を萎縮させるのである。

恐怖が、人の認識力を萎縮させている。自分が慣れ親しんだ認識に慣れ親しんでいる、と言うことも、恐怖を和らげているのである。物質に対する恐怖が、物質に対する認識を錯誤させている。死の恐怖を克服しなければ、哲学的認識は得られない。

自動車にぶつかれば死んでしまうし、ビルの屋上から飛び降りても死んでしまう。そのような素朴な恐怖が、自分に物質の素朴な実在をまことしやかなものとして信じさせるのである。

人は死の恐怖に取り憑かれるあまり、物質に対する根本的認識を取り違えている。

物質が素朴に「ある」と思えてしまうのは、痛みへの恐怖がそのようにさせている。例えば転んで地面に倒れると「痛い」と感じるだろうと、ありありと想像できるが故に、硬い地面が物質として「ある」ようにリアルに感じられるのである。

石をぶつけられると「痛い」からこそ、石が「ある」ように感じられ、包丁で切られると「痛い」からこそ包丁が「ある」ように感じられる。しかし、この「痛み」自体は、存在ではなく主観的な感覚なのである。

「痛み」は実在しない。しかし、実在しない痛みは、実在する「物質」によって引き起こされる。そして、実在しない痛みが、物質が実在する証拠として扱われるのである。

多くの人は「痛み」を避けながら生きている。もし「痛み」が生じてしまった場合には、その痛みが「消える」ことを願って、そのために最大限の努力を行おうとする。

人にとって「痛み」の存在感はとてつもなく大きい。痛みは物質として存在しないのは明白だが、非常に大きな存在感を有しているのもまた確かである。

ここで還元主義の立場を取るならば、物質の存在感は、痛みの存在感へと還元可能である。つまり、物質は痛みと同じように存在するのではなく、存在感だけがあるのである。

物質は存在しないが、物質には存在感がある。それは、痛みは存在しないが、痛みには存在感があることと同一である。なぜなら物質の存在感は、痛みの存在感が原因で生じているのである。

映画を見て、それが映像にすぎないことが理解できるのは、映画の映像からは「痛み」が生じないからである。映画の中の石ころが自分に向かって投げつけられても、映像の石ころは自分の実際の痛みの原因とはならない。つまり人は自らに生じる痛みの可能によって、物質と非物質を見分けている。絵に描かれた石ころや、写真に撮られた石ころにも、同じことが言える。

いかに痛みに存在感があろうとも、それを物質と同じ存在とはみなされないのは、他人の痛みは自分の痛みの原因にはなり得ないからである。あるいは自分の手の痛みが、自分の足の痛みの原因となることもない。自分の足の痛みに触れると、その触れた手に痛みが生じることはなく、痛みは物質と区別される。

痛みは物質ではなく、肉体的現象であり、精神現象である。肉体的現象というのは、痛みは自分の身体以外を傷付けても生じず、自分の身体を傷付けた時にのみ痛みは生じることを指す。また身体の部位によっても痛みの生じ方が異なる。

痛みは自分の精神にのみ生じる精神現象である。自分の感じる痛みは、直接的には他人と共有することができず、その逆に他人の痛みは直接的には自分と共有ができない。

物質の存在もまた、痛みと同じように肉体的現象であり精神現象だということができる。目に見える物質は、目という肉体的部位に生じており、その証拠に手をつぶると物質の姿は消え去る。また手で触れる物質の存在感は、手という肉体的部位に生じる。

手で物質の姿を見ることができないのと同様、目で物質の質感を直接に確かめる事は出来ない。そのように物質は、人間の身体部位に固有の現象として生じ、その点で「痛み」と同様なのである。

描く力と考える力

美術批評家・キュレーターの黒瀬陽平さんのインタビュー記事に、

「なぜ描かないんだ?」って、ときどき聞かれますが、それは僕に才能がないからですよ(苦笑)。実際に絵を描く力と、理論を考える力とは全く違います。その両方が備わっている人は凄くラッキー。

とあって、なるほどそんな風に考えるんだと思う一方、自分も以前はそう考えてたのを思い出す。

http://www.cinra.net/column/kaiganoarika-report?page=3

私も絵は描かなくなってしまったけど、絵画や写真などを含む、作品を生み出す力と、理論を考える力は、本当に違うと言えるのか?

以前の私は、自分の作品制作の裏付けとして「非人称芸術」の理論を構築しようとしたのだけど、実のところ自分は理論の専門家ではないので、もし私の理論になんらかの妥当性があるなら、誰か「専門家」が私の不十分さを補って、きちんとした理論へと発展させてくれるだろうと、何となく思っていた。

しかしこれは図々しい話で、実際に私の「非人称芸術」理論に興味をしてしてくれるような専門家は皆無で、その理論はけっきょく自分で考えて発展させて行くしかなかったのである。そこで色々勉強を重ねて思索を深めていき、その結果として自分自身でこの理論を否定するに至ったのだった。

実は、私が「非人称芸術」の概念を提唱し始めた当時は、思想や哲学の入門書しか読んでなかった。ところが、しばらく経ってその思索を深めようとした時点で、思想や哲学の原著を読むようになり、自分の中で変化が訪れた。

しかしそもそも一般的に言えば、人工物は考えないと作ることはできない。例えば椅子を作るにも、考えないで作ったものは座りにくかったり、すぐに壊れてしまったりするだろう。そこで椅子を一つ作るにも、それなりの理論的思考が必要になる。

ところが芸術の場合はそこのところが転倒していて、人工物であるにもかかわらず、理論的な思考無しで作れるのが芸術であると、今の日本では一般に思われている。

黒瀬陽平さんは同じインタビューで

http://www.cinra.net/column/kaiganoarika-report?page=2

美術教育を受け、訓練された作家と比べると、びっくりするくらい自由

と答えているが、これが芸術以外の分野だったら、例えば何の専門教育を受けてない人が、びっくりするくらい自由な発想で、全く新しいタイプの車のエンジンを設計することはあり得ない。

そもそも「美術教育を受け、訓練された作家と比べると、びっくりするくらい自由」と言う価値観を極限化しようとしたのが私の「非人称芸術」理論だったのだが、これはどの専門家にも受け入れられず、そして自分自身で否定するに至ったのであった。

私の「非人称芸術」理論が専門家に受け入れられなかったのは、その「極限化」に興味を持たれなかったからで、逆に言えば専門家たちは極限化する手前の「美術教育を受け、訓練された作家と比べると、びっくりするくらい自由」で立ち止まり堂々巡りしているように思えてしまう。

そして私自身は前途のように「非人称芸術」を自ら否定するに至ったのだが、それは芸術というものは、他のあらゆる人工物と同様に、理論的に考えて作るものだという事に、改めて気づいたからだった。

それはレオナルド・ダ・ヴィンチ葛飾北斎を見ればわかるように、芸術とは本来、理論的に考え抜かれて作られるのである。最近、ピカソの全作品が載っていると言う画集を見たのだが、頭が良くて知識がなければ、あれだけの多彩な絵画を一人で描くことはできないだろうと、感心してしまった。

しかしそもそも古代ギリシャソクラテスも、古代インドのブッダも、絵画や彫刻などの造形芸術は、頭を使わず手を使う仕事だとして、一段下に見ていた。だからこそ例えばレオナルド・ダ・ヴィンチは、それまでの人物画を「血の入ったズタ袋」だと非難し、解剖学や幾何学や化学などありとあらゆる分野の理論に精通しながら、芸術を成立させようとしたのである。

しかし勿論、優れた芸術は理論だけで作れるものではなく、非理論的な感覚が重要である。しかし工業製品しても、理論だけでは凡庸だったり、的を外したような製品しか作ることは出来ない。理論と理論を超えた直感が合わさることで、ライカやiPhoneなどの優れたメカが生み出されるのである。

そこで始めの問題「実際に絵を描く力と、理論を考える力とは全く違います」に戻ると、今の私としては「作品を作る力は、理論を考える力と同じ」と答えざるを得ない。それは人間がものを作る事の本質であり、芸術も例外ではあり得ないからである。

確かに「実際に絵を描く力と、理論を考える力とは全く違います」と言うイデオロギーは存在し、私もかつてそれに取り憑かれていたのだが、そのような分離が生じるのは「科学」が主流となった近代ならではの現象だと思われる。

「科学」とは日本語の文字通りにはあらゆる事物を科=カテゴリーに分けて考える学問であり、その思想が芸術を含むあらゆる分野にまで波及したのが近代という時代なのである。そして現代は、近代が終わっている。