芸術と呪術

「言葉」は誰にとっても自分が産まれる以前からすでに存在している。例えば「芸術」という言葉もそうである。だから本来的に「芸術」という言葉が具体的にどんな意味内容を指すかは誰も知らないのであり、だからこそそれを調べて探求する必要がある。

ところで「芸術」という言葉には「ステイタスの高さ」が意味内容に含まれる。芸術は価値が高く、芸術を生み出すのは優れた人であり、また、芸術を芸術として理解できる人もまた優れているとされる。

そして、そのようにステイタスの高い「芸術」という言葉に対し、人々の「欲」が生じるのである。それは自分が生み出した作品が芸術であって欲しいという欲であり、自分が良いと思った作品が芸術であって欲しいという欲である。

実に、その「欲」に従うならば、自分が生み出した作品は芸術になり、自分が良いと思った作品も芸術になる。それは「言葉」が持つ性質によって可能となる。

ここで、老子ソクラテスの共通点に思い当たるのだが、古代アテナイの知識人たちは「自分は全てを知る者でありたい」という「欲望」によって、かえって知識を損ねているのであり、そのことをソクラテスは「無知の知」の言葉で批判したのである。

ソクラテス無知の知」とは無欲によって実現するのであり、それは老子の「欲無くしてその妙を観る」と全く一致する。

「知りたい」という欲望と、「知者でありたい」という欲望とは異なる。あるいは真の意味での知者になりたいという欲望と、世間的に知者として認知されたいという欲望とは異なる。

「芸術」という言葉は誰にとっても自分が産まれる以前から存在する。この事実に対し老子ソクラテスが説くところの「無欲」な態度で接するならば、自分は芸術について何も知らず、これについてよく調べて知ろうとする欲望が自然と生じることになる。

ところが「芸術」という言葉に、社会的に高いステイタスを示す意味内容が含まれていることを知ると、そこに「社会的に高いステイタスを得たい」という欲望が生じ、「芸術」がその手段として捉えられることになる。

その人の志向がどこに向かうのか?によって認識の仕方も、言語の使い方も違ってくる。「言語は誰にとっても自分が産まれる前から存在する」という事実に向き合うならば、その志向は「普遍」へと向かい、老子の「無欲」、ソクラテスの「無知の知」が認識のベースとなる。

その人が「社会的ステイタス」を志向するならば、そのような「欲」に従って信仰すれば何事も実現するのである。これは実は、私も「非人称芸術」を提唱するに際して意識したのであるが「呪術」の領域なのである。

私は分が人類学を学びながら「呪術」の有用性を再認識し自らの芸術に応用しようとしたのだが、この方法論は最終的には頓挫して行き詰まる。なぜならそれは自分独自の方法論ではなく、世間的にはむしろありきたりな方法でしかなかったのである。

その意味で、この科学の時代において「呪術」は全く死んでおらず、活き活きと機能している。つまり社会というもの自体が、一面では呪術によって成立しているのである。

呪術が可能となる構造は、私が「非人称芸術」で実践したのであるが、ソシュール言語学の用語にによって説明できる。言語にはシニフィアン(記号表現)とシニフィエ(意味内容)の両側面があり、両者は不可分に結びついている。

しかしそうでありながら、言語のシニフィアンシニフィエは分離可能なのであり、そこに「呪術」が成立可能な余地が存在する。すなわちシニフィアンが何であれ、その意味内容を「欲望」に従って何にでも「置換」することがいかようにも可能なのである。

旧約聖書に示されたように、「呪術」とは現在利益、つまり「欲望」の産物なのである。そして人間の欲望には言語のシニフィアンシニフィエを分離させ、シニフィエを自らの欲望に従っていかようにも「置換」できるパワーを有している。そのようにして「呪術」が実現するのである。

だから「呪術による芸術の創造」という方法が存在するのである。私はこれを「非人称芸術」として理論化し実践したのであるが、これは実に誰でも使っているようなありきたりな手法でしかなかった。

ありきたりな手法と、普遍的な手法とでは、意味が異なっている。ありきたりとは「社会的にありきたり」という意味であり、普遍とは社会を超えた普遍性を意味している。

「呪術」の対義語はひとつには「対話」である。だからソクラテスは人々に「対話」を求め、弟子のプラトンによって「対話篇」が記された。これに対し、同時代のアテナイの知識人たちは「自己主張」をしたのであり、これが即ち呪術的な「呪文」なのである。

最近、若手のアーティストの何人かに接する機会があったのだが、みなさん熱心にそれぞれ自分のアートが何であるかその想いを語ってくれたのだが、それは自分の作品をアートに変える「呪文」に他ならない。

「芸術でないもの」を「芸術」に変えるのが呪術であり、そのために必要なのは「呪文」である。私の「非人称芸術」はそれを全く意識的に行ったのであるが、多くのアーティストが無自覚的にしろこの方法論を採用している。

呪術の方法論において「対話」は存在しない。呪術的な呪文は対話の拒否である。呪術を唱えることでまず自分を信じ込ませ、さらに呪文を唱えることで多くの人々を信じ込ませ、そのようにして「呪術としての芸術」が成立する。

私の「非人称芸術」もそのような呪術に他ならなかったのであるが、それについて本を出版し雑誌にも記事を書いたにもかかわらず、自分以外の信者を増やすことができず、呪術としては不完全に終わってしまった。

それは「呪術」そのものを対象化して人々に示してしまったからであり、それは学問に片足を突っ込んだ状況であり、私自身はそのように中途半端なところに陥っていたのだった。そこから私は彦坂尚嘉先生との出会いをきっかけに学問的思考への転向を試みるのだが、これがなかなか難く一朝一夕には行かない

そのようなわけで、今の私に必要なのは「対話」なのである。「言語は誰にとっても自分が産まれる前から存在する」のであれば、それに対して臨む態度は「対話」しかあり得ない。そして「全ては言語である」ならば、それに対して臨む態度は「全てとの対話」なのである。

しかし私は「非人称芸術」のコンセプトにおいて「対話」とは全く逆を行なっていたのである。それは一方的な呪術の言葉を投げ掛けることであり、「非人称芸術」とは「呪文」に他ならなかったのである。

私は「非人称芸術」の向こうに確かに「神」を観てそれにのめり込んだのだが、その「神」とは何だったのか?改めて考えると、神には「内部の神」と「外部の神」の二種類が存在すると言えるかもしれない。それは言語の特徴と関係している。

言語には「言語は誰にとっても自分が産まれる前から存在する」という特徴があり、だからこそ逆説的に「言語の意味は自分で恣意的に決定できる」という性質を有している。つまり「自分が神になりたい」と思えば神になり、「自分が神だと思ったもの」が神になるのである。

人間は老子的な「欲」によって誰でも簡単に「神」になれるし、何でも簡単に「神」に仕立てる事が出来てしまう。それはまさに老子が指摘するように、本質を無視し、微細な様を無視する乱暴でイージーな認識によって成立する。

世の中には「呪術師」と「認識者・対話者」とが存在する。認識とは対話であり、認識者とは即ち対話者でありそれは「無欲」によって実現する。対して「呪術」とは「欲望」をベースとし、実にあらゆる欲望は呪術によって実現可能なのである。

呪術には「芸術でないもの」を「芸術」に変えてしまうパワーが備わっている。偉大なる呪術のパワー!

しかし呪術によって実現した芸術は、呪術のパワーによって支えられている。このことを逆に捉えると、呪術によって実現した芸術は呪術のパワーが切れると元の「芸術ではないもの」に戻ってしまう。

また呪術には「呪術の及ぶ範囲」が限定されているという特徴があり、その範囲内でしか「芸術でないものが芸術になる」という呪術は成立しない。

そのような限定性に目を瞑れば、呪術はその欲に従って何でも実現可能だが、それが虚しいと感じるならば呪術を否定して「対話」に臨む他はない。

どの道、事実として、芸術とは全ての人が理解するものではない。だから道は二つであり、一つは「呪術」によって自分の芸術信者を増やすことであり、もう一つは「対話」を重ねることで自分が産まれる前から存在する芸術とは何か?を探求することである。そしてその二つの混在という第三の道が存在する。

新しい芸術はどのように可能なのか?一つ言えるのは「呪術」によってそれを成すのは不可能であり、そのことは私も「非人称芸術」によって実証している。それは一つには「対話」によって可能となる。だから「他者の言葉」を無視して一律的な「呪文」を一方的に押し付けてはならない。

詐欺師は先ず誰よりも「自分」を騙す。詐欺師は先ず自分が自分に騙されながら自分にウットリする。その状況から脱しない限り呪術としての芸術ではない真の芸術を生み出すことはできない。

欲と芸術

老子』第1章「常に無欲を以て其の妙を観、常に有欲を以て其の徼を観る」とあるが、実に「非人称芸術」とは「欲」の問題であった。つまり、このコンセプトの根底にあるのは「芸術だと思えばなんでも芸術に見える」と言う原理であり、それは「欲」の問題なのである。

「芸術だと思えば何でも芸術に見える」はある一面の真理を現している。非人称芸術の原理は、言語をシニフィアンシニフィエに「分離」し、シニフィアンが何であれシニフィエを一律に「芸術」に置き換える。すると「自分が芸術だと思ったものが芸術になる」という事が実現化するのである。

しかし、言語をシニフィアンシニフィエに分離し、シニフィアンが何であるかに関わらずシニフィエを一律に「芸術」に入れ換える手法は、現代日本のアーティストの誰もが、と言っていいほど多く行なっているのである。

そのように、一般的に行われている手法だからこそ、私はそれを極限化し普遍化しようとしたのである。しかしその場合の一般性とは「世間一般」の事でしかなく、これを極限化したところで何ら普遍には至らないのであった。私が見誤ったのはまさにそこであった。

私自身は世間体の外部へと逃れたかったのだが、そのための方法論を知らなかった…それは世間の中において巧妙に隠蔽されているのである。例えば、日本人的な世間体を痛烈に批判した哲学者の中島義道先生も、逆説的に日本人的世間体の内部におられるのである。

ともかく、あらゆる「入門書」は「世間体」によって書かれているのであり、入門書読んで何を勉強したところで世間体の中をたらい回しにされるだけである。そのような方法によってできた非人称芸術は、世間体的アート論の一つでしかなかったのである。

問題はシニフィアンシニフィエの分離ではないだろうか?つまり老子が説くように、人の欲はシニフィアンシニフィエを分離せしめ、シニフィアンシニフィエの微妙な関係を観る眼を失わせる。

欲に駆られた人間は物事の見方が粗雑になる。それはシニフィアンシニフィエが分離しているからである。シニフィアンが何であれ、シニフィエを己の欲に無理やり従わせている。そのようにして、「現実」を無視してあらゆる欲望を実現化するのである。

言葉と定義

言葉には定義がない。つまり言葉とは、西田幾多郎先生が述べた如く直接知覚である。

例えば「人間」という言葉の定義を考えても、その内容は非常に曖昧なものを含み、一義的に定義できない。生物学的に考えても、それを進化論的に見れば、ホモ・サピエンスのみを人間だと定義することはできず、猿人との境界が甚だ曖昧になる。

知覚とは言葉の直接知覚に他ならない。「人間」という言葉の定義は知らなくとも「人間」という言葉により「人間」そのものを直接知覚するのである。

結局のところ定義とは、もしくは説明とは、それが必要なのは直接知覚が成立していない場合においてである。例えば哲学の入門書を読むと、哲学についての様々な定義や説明がされているが、その説明する当人も、説明を受ける対象となる読者も、ともに「哲学」を直接知覚できないでいる。

プラトンフッサールなどの哲学書を読むと、これこそが哲学そのものであり、哲学についての説明ではないのである。つまり哲学書とは哲学の直接知覚であり、哲学の入門書は間接知覚であり、間接知覚は直接知覚に到達できない場合の代用品なのである。

直接知覚が成り立たないのは、その人が常識の範囲内に留まっているからである。つまり、自分にとっての常識の範囲外については、常識の範囲内の言葉によって説明がされなければならない。

言葉の直接知覚は、常に常識の外部に存在する。常識の範囲内に留まっている限り、あらゆる言葉は常識的な言葉によって「説明」される。

ブックオフで飲茶著『史上最強の哲学入門・東洋編』をちょっと立ち読みしたのだが、古代インド哲学のヤージュナヴァルキアについて書かれた下りを見たところ、そこには説明が書かれていたが、明らかに哲学は存在していない。

ブッダ以前の古代インドのヤージュナヴァルキアの原典は実に驚くべき哲学の真髄そのものであるが、それを説明した入門書には一片の哲学も含まれていない。これは改めて確認して、明瞭に理解できたことである。

芸術もまた然りで、芸術を理解したければ芸術についての説明や解説や定義をいくらこねくり回したところで全く無駄であり、ただ「芸術」という言葉を直接知覚する他はなく、そのためには自分が閉じこもる常識を打ち破りその外部に出る必要がある。

常識と、常識の外部とが存在する。常識には自分の常識、他人の常識、世間の常識などがあり、それぞれ微妙にズレがあるが、各自が常識の範囲内に閉じこもっている点は同じである。

例えば自分を含む世間の一般的な人々の常識と、非情なサイコパスが持つ常識とは随分異なっている。しかしどちらも自分の常識に閉じこもっている点では同じなのである。

もし犯罪者が真の意味で改心したならば、その改心とは直接知覚であり、その人は自分の常識の外部に出たと言えるのである。新約聖書でイエスを迫害していたサウロも、そのように「眼から鱗が落ちて」突然として改心し、イエスの弟子であるパウロとなったのである。

ところで私の「非人称芸術」とは何だったのか?と言えば、私は世間の常識の外部に出たつもりが、新たな「自分の常識」を構築したに過ぎず、それには普遍性がなく、従ってこれを究めたところで「芸術」到達し得ない。

何故そうなったのか?と言えば、人は自らの常識に自足して、十分に生きて行けるからである。そこには大いなる満足と幸福がある。それは主観的に検証する限り、疑い得ず確固として存在する。

これは信仰の問題であって、人は何を信仰しても生きて行くことができる。

しかし自己の信仰に対する疑いが生じた時、そこに学問が発生する。学問とは、白土三平の漫画『忍者武芸帳』のような剣豪の世界に共通するものがある。

村で一番喧嘩が強く、その強さに確かな満足を得て一生を終えることは出来るが、これこそが信仰である。しかし自分の強さを疑うならば、村の外に出て、他の強そうな奴と対決しなければならない。

村の中でいくら喧嘩が強くとも、村の外で対戦相手を求めるならば、自分より強い人間がいくらでもいることが判明する。理由の一つはいくら素質に恵まれていようとも、我流の喧嘩ではきちんとした訓練を受けた人間に勝つことはできない。

田舎者は町の道場に入門して修行を重ね、さまざまな相手と対戦するうち「本当の強さとは何か?」を知るようになる。対戦に勝ち進み強さを究めれば究める程、「真の強さ」への直接知覚へと近づいて行く。

これは哲学や芸術についても同様で、もし自己満足に飽き足らないのであれば、我流を脱してしかるべき方法論による修行をする必要がある。しかしだからと言ってこれは東大や芸大への入学を意味しない。これらの道場は平和な時代にあって形骸化しすっかり弱くなっている。

哲学を学びたいのであれば、町の道場に入門するよりも過去の偉大な哲学者が遺した哲学書を読めば良い。

哲学者の中島義道先生は「哲学書は一人で読んでも意味がなく、東大などきちんとした教育を受けた者の指導を受けなければ理解できない」としているが、この先生自体が哲学を矮小化して捉え、多数の「入門書」を書き散らかしておられることもあり、聞く耳を持つ必要はない。

ラカンのゼミナール序文に「ラカンの講義は聴くことを意図され、これを文字起こしして書物にする事に意味はなく、まして日本語に翻訳する事においておや」などと書かれているが、それはソクラテスの言葉にも言えて、プラトンが書き起こした対話篇もその意味で無意味だと言える。

古代インドのブッダの言葉は、それがブッダから発せられた後は弟子から弟子へと語り伝えられて行き、文字に記録され経典が成立したのは大分経ってからのことである。それはイエス孔子の言葉も同様で、あらゆる書き言葉は死んでいると言える。

しかしそんなことは関係ないのであり、過去の偉大な哲学を記した書物を読んで、自分自身が生きた哲学をすればいいのである。そうでなければ、どうして自分は自らの常識に騙されることなく、その外部に出ることができようか?

言語の直接知覚は総合的な知覚であるが、漠然とした知覚とは異なる。ところが、そのように考えると私の「非人称芸術」とは漠然とした知覚なのであって、総合性がない。総合性があるということは、中心性があるということであり、それが知覚としての非人称芸術には欠けている。

そもそも非人称芸術とはソシュールシニフィアン/シニフィエの機能の応用による言語の否定だったのである。それは単に、聞きかじりの不完全な知識から編み出された、奇形的な「役に立たない道具」に過ぎない。同様の「自分だけの常識」に陥ったアーティストは、現代日本ではごくありふれている。

私は「非人称芸術」を提唱しながら、誰もがするようなごくありふれたミスに陥っていたに過ぎない。実に多くのアーティストが「特別な自分」を意識しながら、みな同じように平凡なミスに陥っているのであり、私も例外ではなかったのである。

シニフィアンと人工物

私は「私の中のサヨク」を除去するというより転化しなければならない。除去よりも転化の方が資源の無駄にならないからである。何をどう転化するのか?

サヨク思想は「自然」を偏重して賛美し、私もそれに絡め取られたのだったが、これを「無意識」へと転化するのである。思えば「非人称芸術」とは「自然」と「無意識」の奇妙なハイブリッドであったが、これをあらためて「無意識」の問題へと転化する必要がある。

「世界」を哲学的に転覆させなければ哲学の意味はない。すなわち私はサヨク的なものの見方、感じ方、判断の仕方を根底のところから転覆できないでいる。心の奥底に沈殿したものは重く、安定しきっている。

まず我々は、アート作品を含むあらゆる人工物をあまりにも自明的に捉え過ぎている。人工物とは何か?それはもちろん人類が登場する以前には存在しなかった。では人工物はどのように発生したのか?

確認可能な最古の人工物が石器だとすると、330年前の猿人が作った石器が最古だという研究がある。この記事のキャプションに「人類の祖先によって意図的に粉砕された形跡がはっきりと見られる 」とある。

natgeo.nikkeibp.co.jp

つまりその石器を作ろうとする「意図」そのものが、すなわち石器そのものなのである。

また同記事には、260万年前のオルドワン石器について多くの研究者が「人類の祖先が初めて作った石器にしては、あまりにも注意深く作られていると考えていた。」とある。つまりその「あまりにも注意深く」というその意図そのものが、オルドワン石器そのものなのである。

石器の例で分かる通り、あらゆる人工物は「もの」ではなく「意図」そのものである。人間とはキルケゴールが言う如く肉体ではなく精神であるならば、人工物も同じく「もの」ではなく「精神」そのものなのである。

精神とは何か?これもキルケゴールによると「関係への関係」であるからこれは「言語」である。言語とは何か?と言えば「個人言語」が有り得ないことから分かる通り、フロイト的な集合無意識と深く関係している。例えば住宅地には多くの家が建ち並んでいるが、この一軒一軒の家それぞれが精神の産物であり、つまり人間の精神そのものである。精神には「意図」も含まれるが、「意図しないもの」も含まれる。それこそが言語の作用であり、無意識の作用である。

言語の作用は必然的に無意識の作用を引き起こす。なぜなら言語には「個人言語」が存在し得ず、必然的に言語は「集合無意識」の作用を引き起こすからである。だからあらゆる精神としての人工物は一義的な「意図」ではなく、多義的な意味内容が隠されている。

つまりシニフィアンシニフィエで考えると、人は多くの場合、音声言語や文字言語をシニフィアンとしてよりもシニフィエとして認識するが、「もの」に対しては「それが何であるか?」というシニフィエは一義的な認識で済ませて、もっぱらシニフィアンの具体的存在感として認識する。

あらゆる人工物はシニフィアンシニフィエの二つの側面があるにもかかわらず、素朴な人はシニフィアンとしての面だけを詳細に捉え、シニフィエとしての多様な意味を「読もう」とはしない。

あらゆる人工物はそれを構成する様々な「言語」に分解できる。しかしこの場合の言語は製作者の「意図」のみならず集合無意識としての言語を含んでおり、これらを「読む」ためにはフロイト的な精神分析や、レヴィ=ストロース的な構造分析と同様のテクニックが必要となる。

この技術に対して私が大きな障害を負っているのが他ならぬ「非人称芸術」の概念であり、これが未だに根底のところで覆らないままでいる。つまり私は芸術への誤解をどうしても払拭し切れず、過去の成功体験に囚われ続けている。

 

これは私だけの問題ではなく、多くの人は芸術を誤解しているのであり、芸術の問題とは誤解の問題である。かつての私は「誤解による創造性」を説いたのであるが、一面はある意味では正しく、もう一面は全面的に間違っている。

 

「誤解による創造」のある意味での正しさとは、一義的な人の意図を超えた無意識を「読む」という点が、その人の意図からすれば誤解として捉えられる、という意味において正しい。

 

しかし一方で全面的に間違っているのは、芸術における「誤解による創造」はごく一般的なありふれた間違いの仕方に過ぎないのである。戦後日本のサヨク的なアートにおいては、皆好き勝手に芸術を誤解しながら自分のオリジナリティを追求し、その実類型に陥っている。

 

無知による誤解は類型しか生み出さず、真のオリジナリティは知的な変換操作によって生じる。

 

人間とは精神である。精神とは精神活動であり、精神活動とは表現である。たとえ誰かに伝えようとしなくとも、人が何かを考えるときは心の中で言語が表現されるし、悲しみにしろ喜びにしろ驚きにしろ、何かを感じるときは自分の中で感情が表現される。7

ということで見れば、あらゆる人工物は表現であり、人間の精神活動そのものなのである。人はどのような精神活動を行なっているのか?それはあらゆる人工物として表現されている。

 

人工物を作るとは素材を加工することである。私は経験があるのだが、素材を上手く加工するには素材と対話する必要がある。素材とはシニフィアンであり、だからシニフィエ=意味内容を含み、それを「読んで」さらに言葉を練り上げることで人工物として表現される。

 

フォトモのワークショップを行うと初心者がカッターナイフの使い方を知らないことが分かりそれを説明しようとするのだが、私はカッターナイフの使い方を無自覚のうちに身体的にマスターしており、それを改めて言語化して人に説明する必要性を感じたのであるが、これは実に「非言語」の例ではない。

 

以前にも書いたが、人間の身体そのものは「もの」であって、つまり固有のシニフィアンであるから、必然的に固有の意味内容を含む「言語」なのである。言語とは人が話す言語だけではなく、人間をはじめとする各生物に固有の身体そのものが「言語」なのである。

 

非言語とは「人間が使う音声言語や文字言語とは異なる言語」なのであり決して「言語でないもの」を指すのではない。むしろ「人間が使う音声言語や文字言語」がなぜ発生し得たのか?その理由は「人間が使う音声言語や文字言語とは異なる言語」が先立って存在したことにある。

そう考えると、すべての存在はすなわち言語であり、言語でないものは存在しないことになる。

 

「もの」は存在しない。シニフィアンだけが存在する。すなわち人間の言語に先立ってシニフィアンは存在し、シニフィエも存在する。だから人間は「素材」としての石を加工して石器を作り、「素材」としての木を加工して椅子やテーブルや船を作ることができるのである。

 

素材とは何か?石や木や鉄などの素材がシニフィアンでありシニフィエを伴うからこそ、それらを加工して人工物を作ることができるのである。

「もの」と無意識

 マルクス唯物論も、唯物論が根拠とした近代的科学思考も、フッサールが「科学者の素朴さ」を批判した時点で本質的には終わっている。

 

20世紀はじめにフロイトが無意識の存在を発見し、ソシュールが言語の構造を明らかにしたことと、20世紀半ばにワトソンとクリックによって生物の遺伝子が発見されたことは無関係ではない。つまり人間言語に先立ち、生物の身体形成に関わる遺伝子という「言語」が存在していたのだ。

 

ところで岡本太郎は日本で「もの派」が生まれる以前に芸術における精神論を説いたのではなかったか?しかし岡本太郎がいう人間の純粋な精神は、文明化する以前の原始へと還元しているのである。

 

それはマルクスの『共産党宣言』冒頭にもあるが、マルクスこそが人間の「純粋な精神」なるものを、文明化する以前の原始の人間という「もの」へと還元している。

 

岡本太郎は「人間はものではない」と述べながら、その実、自分を含めた人間を「もの化」して捉えていたのではないだろうか?つまり「もの」は使用するうちに消耗して使用不能になるのである。それで岡本太郎的な「才能論」に従って製作すると、アーティストはやがて消耗して自己模倣に陥るのである。

 

赤瀬川源平さんはどうなのか?赤瀬川さんは『桜画報』の時代は左翼の旗手だと期待されたが、本人は興味が無くなったとして左翼とは関わらなくなっている。その後、赤瀬川さんは不思議と「もの派」の存在に言及せず、お陰で私は「もの派」の存在を認識するのが遅れてしまった。

赤瀬川さんは『桜画報』の時代からウィットに富んだ仕事をされており、そのようなセンスによって「超芸術トマソン」の概念も産み出されたのだと言える。しかし赤瀬川さんは本来的に学問的な方ではなく、フロイトもおそらく読んでおられないように思える。

 

つまり赤瀬川さんは無自覚的に「集合無意識の端末」として作動し、そこから独自のウィットが生じたのであるが、それは自覚的な学問ではなかったが故に徐々に消耗し、晩年はすっかりワンパターンになり私はそれに失望して、結局赤瀬川さんとはお目に掛かることがなかったのである。

 

かつての私はあらゆる人工物を「非人称芸術」へと還元しようとしたが、正しくは芸術作品を含むあらゆる人工物を集合無意識に還元して捉えなければならず、それをすることにこそ意味がある。

 

私自身は日本のいわゆる「戦後後遺症」の煽りでだいぶ寄り道をして遠回りしてしまったが、目指す方向自体はそれほど間違っていなかったようで、それまでの歩みも無駄ではなかったの言えるのかもしれない。

 

現代人の多くは、もちろん私もだが、世界を物理法則を基盤として身過ぎている。しかしポスト近代である現代において、そのような世界の見方はもうとっくに「古い」のである。ポスト近代においては、まだまだメカニズムが解明されていない「無意識」を基盤に世界を見なければならない。

動物と想像界

 この鳥(駒鳥)が赤い胸羽を示すことは縄張りの主張であり、この赤い胸羽を見せるだけで、相手に或る行動を引き起こすことが観察されています。赤という色は、この場合、想像的機能をもっているわけです。

この想像的機能が、了解関連という次元へと翻訳されてしまうと、この赤い色が、相手がそれを見ると、相手自身の中に敵意や怒りという感情的、直接的なものを引き起こしたのだろうということになってしまうのです。

この想像的機能が、了解関連という次元へと翻訳されてしまうと、この赤い色が、相手がそれを見ると、相手自身の中に敵意や怒りという感情的、直接的なものを引き起こしたのだろうということになってしまうのです。

#ラカン 精神病(上)p14

 

最後に、赤い車を象徴的な次元で理解できます。すなわち、トランプ遊びの中での赤いマークを理解するように、つまりただ黒と対比されるものとしてだけの意味で理解するように、あらかじめ組織化されているランガージュの中で何かに対比されるものとして理解することができます。

#ラカン 精神病 p14

 

 

私は「天才」と言いました。そうです。フロイトには真の天才があります。しかし、それは直観的洞察にはいささかも負うていません。それは一つのテキストに幾度も同じ記号が現われるのを見て、それは何かを意味しているに違いないと考えることから出発して、その国語のすべての使用法を再構築する言語学者の天才なのです。「空の鳥」を「若い娘」のことだと考えるといったフロイトの並はずれたやり方はそのような現象の一つです。#ラカン 精神病 

 

ラカンが著書『精神病』で珍しく「想像界」「象徴界」の定義を示している。まず翻訳書にあった「駒鳥」は日本のコマドリではなくヨーロッパコマドリの事で、イギリスでは「ロビン」の名で親しまれている。

 

ヨーロッパコマドリは縄張りが強い上に攻撃性が高く、ラカンが記したように胸の赤色がトリガーとなって喧嘩が始まり、時として洗濯物の赤色にも反応して攻撃を仕掛けるそうである。ラカンによるとこの赤色がコマドリに攻撃のイメージを喚起させるのである。

 

ラカンのこの記述に従ってイメージとは何か?を考えると、私がTwitterで度々リツイートしているイヌやネコをはじめとする動物の動画を見て、その動物が何を感じ、何を思っているのかが直感的に理解できるという、そのイメージが「イメージ」なのである。

 

ラカンの記述によると、鳥や獣などの動物は想像界を生きているのだろうか?言語を持たない動物は象徴界を持たない。従って言語を持たない動物は、様々に喚起されるイメージの世界を生きている。しかしギブソンによれば、それはアフォーダンスなのである。

 

 

構築と消費

私は「私の中のサヨク」と戦わなくてはならない。私の中のサヨクとは、戦後から現在に至るまで日本中を覆っているサヨクと同じなのであり、そうしたものを私は敵性認識して戦わなくてはならない。

引き続いて中島義道先生についてですが、私はかつてこの方の書く入門書を片っ端から読んで、その意味では大変にお世話になったし、尊敬もしているのです。しかし今だから言えますが、私が見たところこの先生は「サヨク」なのです。それはこの人生相談を見てもよく分かります。

中島義道先生の人生相談の3にある【小学校低学年の頃から、いつもいつも「どうせ死んでしまう」と考え】ということは著書で繰り返し述べられており、子供にしては哲学的に透徹した認識のようでいて、実に「子供のころの成功体験」に基盤を置くその根底がまず「サヨク」なのです。

続いて人生相談の4では「自然」という言葉を使ってますが、人間の本質を「自然性」に据えることと、哲学の基盤を「子供の素朴な感性」に据えることは共に「サヨク」の思想なわけでして、今の私にはそれが明瞭に見えるのです。

そもそも「哲学者」を名乗る人が、このような人生相談をしたり、哲学の「入門書」を多数執筆することが問題として浮上してきます。つまり大衆向けに書かれた「入門書」それ自体が「サヨク」思想の産物であるのです。

 

哲学の名の下に、大衆にも分かる言葉で人生相談に乗る事自体が「サヨク」思想でなくて何であるのか?

 

大衆にも分かる言葉で書かれた哲学の「入門書」とは、国民の誰もが手に入れることが可能な大衆車、T型フォードやフォルクスワーゲンと同じような「社会主義」の産物であったのです。

 

だから私が物心ついた頃から慣れ親しんだ「サブカルチャー」と言うもの自体も、サヨク思想の産物であったのです。かつて呉智英先生は「左翼」と「サヨク」を区別されてましたが、今となってはどっちも同じではないでしょうか?

 

戦後の日本は実は、現在に至るまで一貫して「日本民主主義人民共和国」だったのではないでしょうか?そう考えると、例えば日本人ならではの「同調圧力」というものも何なのか?も腑に落ちるものがあるのです。

 

戦後日本のアートとは何か?と言えば、「共産主義アート」である、と考えるとこれも非常に納得できるのではないでしょうか?誰にでも理解可能な大衆的なアート、そして誰もがアーティストとして参加できる「素朴な子供の感性」を基盤としたアート、それが日本の「共産主義アート」ではないでしょうか?

 

中島義道生の哲学はそうしたもので、誰にでも理解可能な大衆的な哲学を語り、誰もが哲学者として参加できる「素朴な子供の感性」を基盤とした哲学を説いたのです。ですから大衆から絶大な人気を得ている。岡本太郎が説くアート論と実に同じ構造をしているのです。

 

構造主義的な意味での「構造」を理解しない人は、自覚することなしに「構造」に絡め取られてしまうのです。「サヨク」というのも一つの「構造」でありまして、私はこれを十分に対象化できていなかったが故にすっかりこれに絡め取られていて身動きが取れないでいたのです。

 

だから私は「自分の中のサヨク」と戦って、あらゆるしがらみを断ち切らなければならないのです。しかしこれはかなり難しい戦いです。つまり「アル中患者を治すのは奈良漬けを元の瓜に戻すのと同様不可能だ」という言い方があり、自分の奥底にまで染み込んだものが果たして浄化できるのか?

 

私が敵対するところの「サヨク」の対立概念は何か?詰まるところ社会主義思想とは「消費」であり、これに対するは「構築」である。

 

大衆に基盤を置いた社会は「消費」を旨とする。なぜなら大衆とは短期的視野に於いて原生利益を求め、それは消費へと結びつく。そう考えると日本は聖徳太子の十七条憲法の昔から社会主義の国だったとも言える。

 

とは言え日本には古代より文明としての構築性が存在する。奈良には法隆寺が存在し、運慶や葛飾北斎の作品が存在し、そのような構築性があったからこそ、中国も朝鮮もなし得なかった近代化をなし得たのである。