入門書と魔法使い

板垣恵介イラストが表紙の『史上最強の哲学入門』、読んだこと無いですがちょっと気になって作者の「飲茶」さんのサイトを見てみたのですが、これは哲学者ではなく「魔法使い」で、私も哲学の入門著は昔は何冊も読みましたが、こういうのはどれも魔法を使った金儲けなのですね。

http://noexit.jp/tn/

難解な哲学をわかりやすく解説させる、という事自体が「魔法」なわけです。まともに考えれば、フッサールを理解するにはフッサールの著作を読む以外に方法はない。フッサールが難解なのは当たり前で、その難解さにぶつかっていかなければ、理解への道は開けない。

難解なフッサールを、なぜ易しい言葉でわかりやすく解説した「入門書」に置き換えることが出来るのか?私は竹田青嗣フッサール入門をその昔に読んだのだが、そこでは確かに「魔法」が使われており、この「魔法」によって確かに誰にでもフッサールが理解できるようになっていたのです。

私がかつてよく読んだ、内田樹養老孟司竹田青嗣高田明典、仲正昌樹小室直樹橋爪大三郎、・・・などなど、入門書の書き手は全て「魔法使い」であったのです。みなさん、非常に優秀な魔法使いでいらっしゃいます。岡本太郎赤瀬川原平も、非常に「魔法力」が高くていらっしゃる。人をそのような「魔法力」によってはかることができるのです。


「魔法使い」がその力を振るうことが出来るのは、多くの人が自ら魔法に掛かりたいと思っているから。「魔法」とは一つには科学であり、科学とはある面で魔法の延長にあって地続きなのであり、科学の時代において人びとはますます魔法の力を求めるようになり、その一環に「入門書」があるのです。

哲学や現代思想や宗教の入門書は、実は「科学」の力によって書かれている。なぜなら現代は科学の時代だから、科学の力、魔法の力が有効であるのです。フッサールは科学者の素朴な態度を批判しましたが、そのような科学者的態度によって、フッサールの入門書は書かれるのです。

フッサールが批判していたのは、科学としての心理学ですが、この心理学が魔法を生み出すのであり、魔法とは人間の心理に根差した科学なのです。

この意味での科学は古代ギリシャから存在し、それがソクラテスによって批判されたソフィスト達であり、ソフィストは哲学ではなく心理学という科学を行った、その点でソクラテスソフィスト達を告発し非難したのです。

かつての私は岡本太郎赤瀬川原平の著作を読んでこれに学んだつもりであったが、私はこれらの先人を読み誤って、自分自身が「魔法使い」になるという発想がまったく持てなかった。その意味ではまったくもって間違えていたのです。

現代は、いやそれは近代の問題なのか、それともそれ以前からなのか…?ともかく実際的に現代は「剣と魔法の世界」であり、剣も持たず魔法も使わない哲学者はなんの力も持ち得ない。

いや、古代ギリシアや古代インドの昔から、文明社会とは本質的に「剣と魔法の世界」ではないか?だからそこから離脱したのが哲学者としてのソクラテスであり、ブッダではなかったか?

社会の中で生きていくことこそ魔法を使うことであり、文明社会というもの自体が魔法の力によって成立している。社会の構成員は社会を成立させる魔法に一人一人が加担しており誰もが魔法使いなのである。そしてその中で特に突出した力を持つ魔法使いが存在するのである。

社会は魔法によって支えられているが、魔法は哲学や宗教や芸術などの「魔法ではないもの」によって支えられている。魔法は哲学や芸術や宗教から産み出されるが、哲学や芸術や宗教は決して魔法ではない。

偽物は本物が支えている。本物なくして偽物は有り得ない。偽物の存在に本物は加担しているが、本物はあくまで偽物ではなく、偽物の外部に本物は存在している。

難解な哲学の分かりやすい入門書や解説書がなぜ成立するのか?と言えば、入門書や解説書は「論点ずらし」をしているから分かりやすいのである。

人は難解な哲学を「論点ずらし」によって理解する。例えばソクラテスは「悪法もまた法なり」と言って毒杯を仰いだことで一般に知られているが、実際にプラトンの著作を読むと、そのようなソクラテスの言葉は記されていない。

絵画と情報

絵画における黄金比とは何か?それは光配列であり情報なのである。絵画の画面構成に黄金比による画面分割を加えると、それ自体が光配列となり、作品により豊かな情報が含まれる事となる。

絵画とは『通常の環境の包囲光配列に見出されるのと同種の情報を含んだ、範囲の限られた光配列」を、観察者が、ある観察点において利用できるように処理された面である。#JJギブソン

ギブソンの定義によると、絵画とは「通常の環境に見出される光配列と同種の情報を含む、範囲の限られた面に表された光配列」となる。

例えば光配列としてのリンゴの絵は、環境に見出される光配列としてのリンゴと同種の情報を含んでいる。だからリンゴの絵を見てリンゴが描かれていることが認識できる。

しかしたとえリンゴの写真であっても、そこに表された光配列は、現実に見出されるリンゴの光配列とは「同一」ではない。だから人はリンゴの写真を現実のリンゴと見誤ることは決してない。写真は絵画の延長であり、現実と同種の情報を含むことで機能する。

写真を含む絵画は光配列として、環境に見出される光配列と同様の情報を含んでいるが、同時にその絵画だけに含まれる情報を光配列として有しており、それが作品として成立するための重要な要素となっている。

例えば東京都写真美術館で展示中のアジェのオリジナルプリントに、私は相当魅了されてしまったのだが、そこには失われたかつてのパリの街の姿の克明な情報が含まれているの同時に、それを超えた種類の何らかの情報が含まれていて、その類の情報はアボットをはじめのちの時代の写真家の作品に見出せない

上野の東博で先日まで公開されていた運慶の作品も、父親や息子達を含む他の慶派の作品とは劃然と違うのは、運慶の作品の情報量だけが圧倒的に多いのである。運慶は実に膨大な量の情報をコントロールしながら、光配列としての彫刻作品を作りしている。

運慶以後の慶派の作品は、運慶ならではのリアリズムを一見引き継いでいるようでいて、情報量が圧倒的に少なく、見ても物足りなく感動することがない。

いわゆる技巧だけの人、絵が上手いだけの人の絵は、芸術作品として情報量が足りておらず物足りなく見える。

私が美大受験生だった頃、デッサンは上手いけどその技術を活かして何を描けば良いのか分からない先輩が予備校に残留しているのを見たが、その人は光配列としてデッサン以外の情報を作品に表すことが出来ないでいたのである。

デッサンだけが得意な先輩の話は、写真に即当てはまる問題であって、今やカメラのシャッターを押すだけで誰でも綺麗な写真は撮れる。カメラを持てば誰でも何の訓練も受けずに正確なデッサンが描ける達人になれる。しかし写真は誰にでも撮れても、誰にでも「写真作品」が撮れるわけではない。

誰でも簡単に撮影できる写真によって「作品」や「芸術」が成立し得る根拠はここにある。写真は環境に見出される光配列と同様の光配列を容易に表すが、さらに環境を超えた様々な情報を光配列として写真の中に表すことも出来る。

そもそも写真が下手な素人が撮った写真には、環境に見出される光配列としての情報が、十分に現れていないのである。素人がネットショップに出品した商品写真に魅力が無いのも、そうしたところに原因がある。

写真を撮る人は環境に見出される光配列を注意深く観察し、そこからできる限りの情報を読み取る必要がある。その情報は、自分が過去の経験から得た様々な情報と対応している。より多くの情報を持つものが、より多くの情報を得ることが出来る。

つまり優れた写真家、画家、芸術家は情報強者であり、ダ・ヴィンチ北斎もアジェもそれを体現した人であった。

絵画と光配列

現象学的には「実在」と思える全ては「現象」に過ぎないが、アフォーダンス理論によって詳細に言えば、全ての視覚現象は「光配列」に還元できる。人間は網膜像を見ているのではなく、網膜像を利用して光配列を見ている。

光配列は人間のみならず、視覚機能を持つあらゆる生物が共通して認識する。網膜を持たない昆虫などの生物も、人間と同様に光配列を認識し情報として利用する。

網膜像とは何か?網膜は光配列を認識する器官として人体に備わっているのであり、自然な状態において人間が網膜に投影される「網膜像」そのものを意識することはない。人間が網膜像を意識するのは絵を描くという本来的に不自然で特殊な状況においてのみである。

絵画とは何か?人間が作るあらゆる道具が人間の身体の外部化であるのと同様、絵画とは人間の網膜像の外部化である。しかし例えば石斧が人間の手と違うものであるように、絵画は網膜像とは決して同じだとは言えない。

ギブソンの定義に従うと、絵画とは光配列であり、情報を含んでいる。なぜなら光配列と言うもの自体が情報を含んでいるからである。

私も経験があるのだが、写真スタジオの部屋全体に設置された白一色のホリゾントは、何の配列もない光であり、その前に立つと壁や床の存在が消えて、自分がどのような状態に置かれているのか分からなくなって怖くなる。つまり配列を含まない光には、情報が含まれていないのである。

絵画とは範囲が限られた光配列である。常識的に言えば、これは絵画のフレームである。範囲が限られない絵画はあり得ない。

レンズをスイングする方式のパノラマ写真(iPhoneのパノラマ機能もその一つ)を全方向に拡張すると、球体写真になる(リコー シータはこの方式のデジタル画像を生成する)。つまり球体としての範囲に限定される。

白い画用紙に何も書かなければ、その面には何の光配列が存在しない。しかし点を一つ書くだけで、そこに光配列が生じ、情報が生じる。いやそれ以前に、何も書かれていない白い画用紙は、それが環境に置かれた状況として認識されるならば、光配列一部となって「四角形の面」という情報として認識できる

つまり絵画にとって「画面の形」そのものが光配列をなし「情報」となるのである。だからこそ、絵画にとって「画面の形」は重要な要素となるのである。画家がカンバスの画面比率にこだわる理由もそこにある。

以前の私は「写真」に特有の「四角いフレーム」を否定するために立体の「フォトモ」や、不定形な縁を持つコラージュ写真「ツギラマ」、180°の画角で円形画面の「デジワイド」などの手法で作品制作をしたのだが、現在では「四角いフレーム」を受け入れるようになった。

その「四角いフレーム」の意味を、アフォーダンス理論は明らかにしてくれた。絵画のフレームは必ずしも視覚である必要はないが、そこには不可避的に何らかの情報が発生し作品そのものに関与してしまうのである。

人格と光配列

私が認識間違いをしていたのは、人間は動物に備わっているべき本能のほとんど失っていて、その本能に取って代わる行動プログラムを言語によって構築するのだと思っていたのだが、それは反面は妥当性があるものの、実際の人間には本能的な「動物言語」の多くが備わり、日頃からそれを多用しているのだ。

ところで、ギブソンが述べるように、絵画が光配列による情報を描いたものだとすれば、芸術とは光配列による情報の一種に他ならない。芸術ではない絵画作品には、光配列による芸術としての情報が含まれていない。芸術作品には光配列による芸術としての情報が含まれている。

人間の人格は、光配列による情報に変換されて表現される。「芸術の何たるか」を備えた人の絵画表現には、光配列による芸術としての情報が表現される。

人格そのものは光配列ではないが、人が絵を描いた際に、その人の人格が光配列による情報に変換される。その情報に、芸術が含まれる場合と、芸術が含まれない場合とがある。

光配列は、たかだか光配列でしかない。絵画とは限られた面積の範囲内の光配列でしかない。しかし、光配列は実に多様な種類の膨大な量の情報を含んでいる。その人が描いた絵画作品にも、その人が撮った写真にも、その人自身の全人格が光配列による情報となって現れているのである。

芸術とは「芸術」という言語であり、「芸術」という言語は、作品中に表現された光配列による芸術としての情報に対応している。

しかし「芸術」という言語と、光配列による芸術としての情報が、人によっては対応しない。その日の人格に「芸術」が備わっていなければ、「芸術」というシニフィアン(記号表現)は、芸術のシニフィエ(意味内容)に結び付くことがない。

ここでシニフィアンシニフィエが逆転するのだが、芸術が光配列そのものだとすれば、芸術とは極めて具体的なシニフィアンとして存在する。あるいは芸術とは極めて繊細なシニフィアンとして、光配列の中に現れている。それは人間の人格および精神の変換形態である。

鬱の克服

思い出したのだが、これはだいぶ以前にTwitterに書いたことだが、私は極度の鬱病を患っている。いや一般常識で言えば私は鬱病ではなく、医者もそのように診断しないだろうと思われる。鬱病と言うのはもっと酷い症状を指しているのだと言う意見も最もである。

しかしそんな世間の言うこととは関係なく、私ははっきりと鬱を患っていて、これは何としても克服しなければならないのである。鬱を鬱として自覚しなければ鬱を克服し治療することはできない。「あなたのような程度は全く鬱病とは関係ない」と言われようと、それこそ関係ないのである。

鬱病だと診断されるレベルに達しない人の中に、かなりの割合で私のように鬱を患っている人はいるのではないかと思う。それは程度の問題であり、質としては確かに鬱を患っている。医者にかかる程度とは言えなくとも、克服すべき鬱は確かに人それぞれに存在し、それは鬱病だと自覚し克服せねばならない

そもそも私の見たところ、現代日本人の殆どが鬱を患っているように思えるのであり、私自身も例外ではないのである。例えば街を歩く人々の顔を見ても、電車に乗っている人々の顔を見ても、大抵が意識レベル、気力レベルが低下した顔をしているように思える。

つまり世の中のほぼ全員が鬱病だと、その状態が「標準」となりその層から「鬱病」の概念が無くなり、さらに病的程度の高い層に対してのみ「鬱病」の概念が適用されるようになる。

こうなると実に鬱病を克服した人間の方が「異常」であると言えるかもしれない。そもそも人はなぜ鬱病になるのか?現代という複雑怪奇な時代が人間にとって「不自然」であり、そのような環境で鬱を発病するのは自然で当たり前な事であり、それを克服するのもまた「不自然」な行為と言えるかも知れない。

だが私としてはそれがどれだけ「不自然」で「反自然」的であっても、自らの鬱病鬱病として自覚して、何としてもこれを克服しなければならない。それには「反自然」的に決断し「不自然」に行動しなければならない。

そもそも芸術は「反自然」的認識から生じた「不自然」な行為であり、自然的な認識から生じた自然的行動から芸術は生じ得ないのである。

イヌと言語

発売中の『子供の科学』2018年1月号は「イヌ特集」だが、その中に「イヌはオオカミのネオテニーである」と言う説が紹介されていて衝撃を受けたのだが、言われてみれば確かにその通りだと思える。



同じく『子供の科学』のイヌ特集だが、温血動物で目に「白目」がはっきり表れているのは人間、オオカミ、イヌくらいで、これらの動物は「白目」の表れ方で感情などを表現し、コミュニケーションする。

「犬」「ネオテニー」で検索してヒットしたこのページも面白い。これで分かるのはイヌにもオオカミにも本能的に「言語」が備わっており、その「本能的な言語」は人間と共通のものだ、ということである。
https://s-solidgold.com/faq/archives/685

動物にも「言語」は存在する。それは先ほどリンクした記事で明らかなように、イヌにもイヌの言語が存在する。イヌの言語は本能的に備わっているものであり、かつ子イヌは大人のイヌが使っている言語を理解できない。

そして、ネオテニーとしての性質が強い犬種は、成犬になっても「大人のイヌの言語=オオカミ語」を理解することが出来ず、時として他のイヌとコミュニケーションが取れずにトラブルを起こす。

しかし子犬にも子犬の言語が備わっていて、だから親や兄弟など他の犬とコミュニケーションできるし、人間とも通じ合うことが出来る。

「生物言語」はおそらく生物進化と共に進化し、温血動物で頂点に達し、その先にヒトの言語が生じたと考えられる。

例えば、チョウやガの「目玉模様」も、「生物言語」であると考えられるかもしれない。植物の実が赤くなるのも、鳥類などの動物に対し「食べごろである」というサインであることを考えれば、これも「生物言語」である。人間が甘いリンゴを味わうのも、その「甘さ」が生物言語となっているのである。

「言語とは何か?」を考える上で、「人間だけが言語を使用する」という前提から完全に脱却する必要がある。「人間になぜ人間に固有の言語が使えるのか?」はその前提に全生物に共通の「生物言語」が存在するからである。

「生物言語」は全生物に共通するとは言っても、生物進化と共に「生物言語」も進化したのであり、生物種によって、つまり進化の過程によって、使用する「生物言語」の範囲は異なっている。

私は実は犬と戯れたり、小さな子供と戯れたりするのが苦手なのだが、それは私の中で「生物言語」のある部分が失われてしまっていることの現れだと言えるかもしれない。

コンラート・ローレンツ先生も『ソロモンの指輪』の中で、犬を引き合いに出して、「人間は動物ガ備える多くの自然言語を失って、そのかわりに人間独自の言語を構築して認識やコミニュケーションしている」(意訳)と述べている。

またフロイト先生も『精神分析学入門』の中で、「原始時代の人間の言語は語彙が少なく単純で、それを身振り手振りや表情で補っていたであろう」と言うように述べている。

人間は人間としての言語を発達させるにつれて、生物としての人間に備わっていた「生物言語」の多くを失っていった。しかし、どんな人間も「生物言語」の全てを失ったわけではない。また「生物言語」の失い方も、「人間言語」の習得度合いに関連して、個人差がある筈である。

だいぶ以前だが、NHKテレビの科学番組で、小学生を使ったコミニュケーションの実験が行われるのを見た。初対面同士の子供を数人ずつ二つのグループに分け、一つは全員にマスクをさせ喋らないようにさせ、もう一つは全員にサングラスをさせお喋りを自由にさせる、というものであった。…

その結果は、マスクをしておしゃべり禁止のグループは、初対面同士で自己紹介も出来ず、互いの名前も知らないままでいたものの、お互い目配せなどしながら、また感情を読み取りあって、仲良くなって鬼ごっこなどして遊ぶようになった。

一方でサングラスでお互いの目を隠し、おしゃべり自由にしたグループは、お互いに自己紹介してコミュニケーションを始めたものの、どうも他人行儀でぎこちないまま、いまひとつ打ち解け合うことなく終わってしまった。

NHKテレビのこの実験の結果は、「目は口ほどに物を言う」が証明されたと言うか、われわれ人間は「言葉」共に、目配せをはじめとする「非言語的」な方法を併用しながらコミュニケーションを行なっている事が証明されたのである。

しかしこの場合の「非言語的」コミュニケーションとは、人間に特有の言語とは異なる、生物に普遍的に共通する「生物言語」の一部だと考えることができる。『子供の科学』誌の特集にあるように、犬と人間は共通して「白目」の表情でお互いにコミュニケーションする。

「白目」が見えない温血動物である例えばオウムは、全身の身振りによって感情表現するが、それが人間であるわれわれに通じると言うことは、その身振り自体が人間を含む生物に共通の「生物言語」であり、それは学習によらず本能的に備わっているのである。

寛容と現代アート

現代アートを理解するには寛容さが必要であり、何故なら現代アートは基本的にどのような対象をどのような方法に表現するのも許されるからである。

現代アートが一般に分かりにくいとされるのは、理解に寛容さを必要とするから。多くの人は自らの常識に閉じこもって不寛容な態度でアートに接している。

 

現代アートは何をどう表現するかは(犯罪にならない限り)制約なく全く自由であり、だからこそそれを評価する側には寛容さが要求される。実に、自由と寛容とは対になっているのである。つまり自由は寛容さによってのみ保証される。自由とは自由を許す寛容に他ならない。

 

自由とは自分自身が自由に振る舞うことではなく、他人の自由に寛容であり、他人の自由に対し理解を示すことである。

 

他人の自由に不寛容な人は、自分の自由に対する他人の不寛容さを許している、と言う意味において自分の自由を制限してしまっている。

 

自分の自由を主張する一方で、他人の自由を許さない態度は矛盾している。自由の主張とは、つまりは自由の許しを他人に乞うているのである。

 

他人の自由に不寛容な人は、自分の好みや常識という狭い範囲に囚われている、という意味で自由ではない。他人の自由に寛容で理解を示すことにより、自分の自由度を広げることができる。

 

寛容さとは何か?現代アートにおける寛容さとは、全ての作品を一律に優れていると評価することではない。現代アートの各作品の優劣を判断する前提として、寛容さが必要となるのである。

 

現代アートの作品はかつてないほど多様であり、そのように多様な作品の優劣を判断するのは、常識的感性では難しい。何故なら常識は、基本的に不寛容なところがあるからである。

常識は、常識と非常識とを分けるという点において不寛容である。だから、常識を打ち破りながら発展しようとする現代アートを、常識で理解しようとするのは難しいのである。

 

常識は不寛容である、ということは古代ギリシャソクラテスも、古代インドの初期仏典も、古代中国の老子孔子も指摘している。常識の不寛容さに抗する営みが哲学であり、アートであり、だからアートを理解しようとする者は常識に抗して寛容であろうとしなければならないのである。

 

常識が不寛容であるならば、寛容なのは学問である。何故なら常識の対極に学問があるからである。ソクラテスの裁判とは常識的な不寛容と、学問的な寛容さの争いなのである。