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認識と模倣

笛は今のように黄銅で覆われ、トランペットと張り合う楽器ではなく、わずかの穴をもつ細身の簡単なものであったが、コロスの歌を伴奏し、これを助け、超満員になることもまだなかった観客席をその息吹きで満たすに十分であった。じじつ、そこへ集まったのは、わずかの、容易に数えられる人数で、正直で純朴な、つつしみ深い人々であった。しかし彼らが勝利をおさめて領土を拡大し、都を前よりも広い城壁で囲み、祭日には昼間から酒を飲んで御本尊を祀っても非難されないようになり始めてからは、リズムとしらべがいっそう奔放なものとなった。そもそも無教養な者に何が理解できるというのか?労働から解放された田舎者が都会人と混じり合い、卑しい者が上品な者と一緒になるなら。#ホラティウス詩学

オルテガが『大衆の反逆』で示したような問題は、古代ギリシアホラティウスの時代にも生じている。ホラティウスは、芸術は本来的に上品で教養ある者たちのためのものであり、下品で無教養な者たちに迎合して作るとロクなことにならない、と述べている。それはなぜか?

「上品で教養ある者たち」とは何を示しているのか?と言えば人工性である。人工性は、オルテガ的に言えば自然の荒野から脱出するために、荒野の一角を城壁を囲った内部で、文明として構築される。

自然というものは、人知を超えて非常に精巧に出来たシステムだが、それがあるにも関わらず、人類は自らの能力を使って、自然とは異なる「文明」というシステムを構築しようとする。

文明は、人間に自然に備わる言語能力によって構築される。しかし同じく言語であっても、文字がなければ文明は形成され得ない。音声言語は「文化」を形成し得ても、文明は形成出来ない。人間が音声言語によって文化を形成するのは、人間には動物としての本能が欠如しているからだと言える。

音声言語によって構築された人間の文化とは、動物の本能に相当する行動プログラムだと言える。だから言語が異なれば文化が異なり、動物としての行動プログラムが異なるのである。だから生物学的には同じヒトであっても、異文化の集団は「人間ではない」と、素朴な感覚で見做されることがある。

人間の音声言語は象徴機能を備え、これによって人間は動物として環境変化に抜群の適応力を発揮することができる。この音声言語の象徴機能を「二重化」したのが文字言語だと言える。言語の象徴機能は、もともと人間に自然に備わった能力であり、つまり本能である。そして自然としての象徴機能から生じたものが人工性である

原始時代の石器とは、人間の音声言語に自然に備わる象徴機能から生み出される。石器とは、人間以外の猛獣が身体に備える牙や角の象徴である。しかしこの場合の象徴が、音声言語ではなく石器という「物」に置き換わっている。ここに文字言語に先立つ象徴機能の二重化が現れている。

つまり獣の「ツメ」を音声言語によって象徴化し、これを対象化した上で、さらに「ツメ」を「物体としての石器」に置き換えているのである。いや、これはちょっと違うかも知れない。なぜなら実際の獣の爪と「ツメ」という音声言語は全く似ていないが、石器は獣の爪に「似せて」作られるからである。

そもそも道具は人間の例えばチンパンジーでも、自然状態での観察例が報告されている。道具は言うなれば「自然の法則」と一体になることで、その使用法を必然的に見いだすことができる。これに対して音声言語は、それ自体が自然の法則とは全く無関係の法則として自律している。

いやそうではなく、音声言語とは人間にとっての環世界のミメーシス(模倣)なのである。人間にとっての環世界は関係の連鎖であり、この関係の連鎖を音声言語はミメーシスする。それは「関係の連鎖」そのもののミメーシスであるから、関係を構成する個物とは無関係の「記号」が使われるのである。

音声言語システムの機能がミメーシスなら、認識とは即ちミメーシスなのか?例えばモンシロチョウの幼虫は、アブラナ科植物に含まれるカラシ油配糖体という化学物質を感知して、これを「食物」として認識して葉を食べる。この場合、どこに「模倣」があると言えるのか?

模倣とは何か?と言えば、別の場所にそのものの似姿を作ることである。だとすると、モンシロチョウの幼虫がカラシ油配糖体を認識するとは、モンシロチョウの幼虫の環世界のうちに、カラシ油配糖体の似姿を生じさせることであり、その認識とは即ち模倣ではないか?

モンシロチョウの幼虫はカラシ油配糖体を模倣して、彼の環世界にその似姿を生じさせるからこそ、それを認識できるのである。つまりある物が存在するとして、そのある物以外に存在するのは、それ以外の物と、そのものの似姿のみである。

そして例えば硬い石に柔らかい粘土を押し当てて引き離すと、その粘土に押し付けた石の似姿が生じる。カラシ油配糖体とモンシロチョウ幼虫の関係もこれと同様で、カラシ油配糖体に接触するカラシ油配糖体以外の物体としてのモンシロチョウ幼虫に、その似姿が環世界として生じるのである。

認識とは模倣であり、模倣なくして何の認識も生じることがない。動物が何か見たり聞いたりして認識した時点で、認識したものの模倣が生じているのである。しかし普通、人が何か物を見ただけでそれを「模倣した」とは言われない。

ところがあるものの前に、人が数人いたとして、その同じものを皆が見ていると、認識することができる。つまりそれぞれの人の環世界の中に、その同じものの似姿が生じていると観察できる。見ることが即ち模倣であるからこそ「みな同じものを見ている」ことが成立するのである。

何かを見るとは、同じものを他の人も見ていることを前提として、自分も見ているのである。自分が太陽を見るとき、その同じ太陽を過去何人もの人々が見てきて、そして未来にわたって何もの人がその同じ太陽を見る、と言うことを前提としている。そのように、認識するとは模倣なのである。

しかし繰り返しになるが、人が何か物を見ただけで、普通はそれを「模倣した」とは言わない。普通には、見ることと模倣することは、別の行為として区別される。つまり「認識=模倣」が二重化すると、普通の感覚ではそこに「模倣する」という行為が顕在化する。

小中華と大中華

小中華から大中華へ!当の中国文明は、とっくの昔から実際的に小中華に陥っており、だから孔子も嘆いているのである。小中華とはSMAPの『世界に一つだけの花』であり、世界の中心に自分だけの小さな華が咲いていると言う思想であり、いっぽうで大中華とは唯一の大きな華は誰にとっても自分の外部に咲いている。

小中華の「小」とは人間の脳内リアリティを指しており、大中華の「大」とは現実そのものを指している。人間は現実認識したものを脳内にプールすることができ、そこで呪術が成立する。呪術とは脳内リアリティの産物であり、小中華を生きる人は脳内リアリティの呪術的世界を生きている。

写真に受け継がれているルネサンス発祥の一点透視図法は、視覚世界の中心を自分に据えると言う点で、小中華思想だと言える。ところが、素人が感覚的にリアルな絵を描こうとしても、正確な一点透視図法にはならない。

つまり「自分の感覚」という小中華思想だけでは正確な一点透視図法は描けず、自分の「外部」に存在する大中華であるところの「一点透視図法」を取り入れる必要がある。このように科学とは大中華の一部であり、その採用で日本に遅れをとった中国や朝鮮は中華から決定的に外れてしまったのである

自分が世界の中心であると素朴に感じる小中華思想と、自分が世界の中心ではないと認識する大中華思想とがある。自国中心主義、自民族中心主義は本来的には大中華ではなく、小中華思想に過ぎない。

自分は世界の中心に存在しない、という小中華思想の否定が哲学にとって最も重要で基本的な認識であり、だから大中華とは一つには哲学を指しているのである。

文明と中華

多くの人は自信家で、夢を見ている。自信家で夢を見ている人に対し、現実を伝えようとすることは無意味である。寝ながら夢を見えいる人にいくら声をかけても意味がなく、無理やり目覚めさせても怒りを買うだけである。多くの人は何よりも睡眠を妨害されることを嫌がるのであり、それをすべきではない。

実に、文明の本質において古来より朝鮮が採用してきた事大主義は正しいのではないか。つまり文明の起源が一つであるならば、文明の本質とはコピーであり、コピーするにはコピー元を自分より優れたもの=文明である事を認めなければならない。

真に優れた者は、自分が優れていると言う幻想を抱かず、自分より優れた者が誰であるかを見抜き、つまり誰が文明の源流につながる文明の選考者であるかを見抜き、それをコピーしようとする。これが事大主義と言うことの、一つの説明である。

その意味で、日本の明治維新というのは事大主義であり、欧米文化を自分たちより優れた文明の先行者として認め、これを積極的に学んで自らも「先行文明」の仲間入りを果たそうとしたのである。

一方で同時期の朝鮮は誰が自分たちより優れているかの判断を間違えて、実際にはもはや遅れてしまっている中国(清に滅ぼされた明)を中華として認識し、そして欧米文化を退けようとし、そのように事大主義そのものを間違えてしまったのである。

世の中には、自分に自信があって夢を見ている人と、事大主義の人の二種類がいる。人々に根拠のない自信を持たせた元凶の一つが岡本太郎的な「小中華思想」であり、それは小さな自分を世界の中心に咲く華のように夢見る思想なのである。

私自身は小中華思想と決別して、中華思想と事大主義で行こうと思うのである。中華思想とは、本来的にはいわゆる中国文明を指すのではなく、人類そのものの文明の起源は一つであり、その意味で一つの中心が存在するのでありその中心からの道筋を正しく認識してこれに学ぼうとするのが事大主義なのである。

結局、近代以降の中国文明は本来的な意味での中華ではなく、中心から外れ華も枯れている。近代とはイギリスの産業革命から始まったのであり、だからイギリスとイギリスの血を引くアメリカのアングロサクソン文明こそが近代以降における「中華」であり、江戸から明治への日本の事大主義は正しかったのである。

言語と呪術

私が提唱する「非人称芸術」とは、自覚的に呪術の産物であった。私はソシュール言語学に起源を持つ構造主義から呪術の何たるかを学び、その方法論を自らの芸術の創造に応用したのだった。

呪術とは、人間が「言語」を使って世界認識をするその性質を応用することで機能するのである。

現実と願望

フロイト『夢判断』読んでいるが、夢判断のためには、自分の見た夢の全てを報告(記録)し、こんな細部は馬鹿馬鹿しいからなどと思い、自分の判断で省略してはならない、とある。しかし現実とは夢のようなものであるなら、自分が今見ている現実を、自分が見た夢のように観察し、仔細に報告し分析する必要がある。

フロイトが言うように夢が願望充足であり、また現実とは夢のようなものであるなら、現実もまたそれを見る人の願望充足として立ち現れる。つまり人は無数に生じる認識可能な事象のうち、願望充足に叶う事象のみを認識し、願望充足としての現実を構築する。

自分が見た夢のうち、自分が無価値だと思って気にも留めていなかった要素が、実は自分にとって重要な意味を持つ事があるように、自分が見た現実のうち自分が無価値だと思って気にも留めていなかった事柄が、自分にとって重要な意味を持つことがある。なぜなら現実とは夢のようなものだからである。

動物と本能

江ノ島でトビを観察すると、彼らが実に上手に飛ぶのに感心するが、ほとんど羽ばたくことなく、微妙に羽を動かながら気流に乗って悠々と空中停止しているが、餌の食パンを放り投げると一転急降下し、さっと空中キャッチし、それどころか油断すると、パンの袋ごとさっと掴まれて持ち去られてしまう。

トビに比べると、カラスはずいぶん飛び方が下手で、放り投げたパンを空中キャッチする事はできないし、風に乗って羽ばたかずに空中停止することもできない。江ノ島でトビに向かってパンを放り投げてると、地面に落ちたパンを狙って食べに来るのがカラスなのである。

トビとカラスを比較すると、その飛び方のうまさには明らかな差が認められる。しかしトビの飛行能力の高さは、正常なトビであればどの個体もほぼ同様に備えている、生得的な能力なのである。またカラスがいかに努力しようともトビのような飛行能力を身につける事はできず、生得的な能力の限界が存在する

本能と努力

思い返すと「自分には出来ない」と認めた事が出来るようになっている。例えば私は子供の頃から文章を書くのが苦手で、「書く事ができない」と認めたからこそ努力して徐々に書けるようになって来た。ところが「いつかやろう」と思っていることは「やれば出来る」と思うだけで一向に実現できない。

自分には、やらなければならないのに出来ていない事が膨大にたまっていて、それらはいずれも「いつかやろう」と思いながら「やれば出来る」と思っているが故に永遠に実行されることはない。

人は自分が思っている以上に無能で、その無能さを認めなければいかなる能力も開発することはできない。即ち、人間にとって能力とは、生得的に身についているのではなく、努力して身につけるものなのであり、努力して様々な能力を身につけられること自体が、人間に備わった能力なのである。

努力とは何か?と言えば、一つには「本能が壊れている」とされる人間という動物に備わった能力だと言える。人間は本来的に、他の動物が生得的に備えている生きるために必要な能力(本能)を欠いており、それを努力によって身につけるように出来ている。だから能力の獲得の前提に「無能」の自覚がある。

人間は動物としての本能が壊れている。よって人間は努力しなければならないのである。

かの葛飾北斎も、自分は何て絵が下手なんだと嘆きながら、終生その腕を磨き続け、スケートの羽生結弦選手も自分は努力の人だとインタビューで語っていたし、ピアニストの腕前も才能ではなく練習量で決まるそうで、人間の能力とはそういうものなのである。

もちろん「才能」や「向き不向き」の要素はゼロではなく、例えば同じ量の練習をしても誰もがオリンピック選手並みに速く走れるようにはならない。しかしどんな能力にしろ努力によってそれを身につける事が出来るということは、誰にも共通する人間にとっての本質だと言える。