ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』読みながらtweet

誰のアドバイスも信用できない。なぜなら誰の判断にもバイアスがかかって間違っているからである。では自分の判断はどうか?と言えばこれもバイアスがかかって間違ってる。ではバイアスを取り除いた判断はどのようにすれば良いのか?判断、つまり未来の予測ができると判断することがバイアスなのだ。

判断とはつまるところ未来予測であり、だから自信を持って判断を下すことは間違っているし馬鹿げている。

あらゆる判断は「賭け」であり、その意味で人は常にさまざまなギャンブルを行い、こまめに勝ちを重ねてなんとか生き抜いている。

あるいは人間のやることなすことは全て「実験」なのである。すでに繰り返し行って結果が目に見えている事柄についても常に検証のための実験を繰り返す。

他人のアドバイスとは、「新たな実験の提案」なのであり、その実験がどのような結果をもたらすのか誰もわからないし、その実験を実行するか否かは失敗のリスクを背負った自分自身が決断しなくてはならない。

 

 

統計(とうけい、statistic)は、現象を調査することによって数量で把握すること、または、調査によって得られた数量データ(統計量)のことである。統計の性質を調べる学問は統計学である。

ja.wikipedia.org

 

 

ヒューリスティックとは、必ず正しい答えを導けるわけではないが、ある程度のレベルで正解に近い解を得ることができる方法である。ヒューリスティックスでは、答えの精度が保証されない代わりに、回答に至るまでの時間が少ないという特徴がある。

ja.wikipedia.org

 

 

人々は誰でもそれぞれに「判断材料」と言うものを持っている。人はこの「判断材料」によって日々の、そして時々のギャンブルに勝利する確率が上がるのだと信じている。

ところが多くの場合、この「判断材料」がかえって勝利の確率を低下させる要因となっている。具体的には例えば多くの人は「負け」が込んで貧乏な状態にある。このような「判断材料」に間違いをもたらす要因が「偏見」、すなわち「現実離れした統計の偏り」である。

多くの人は事物を漠然とした統計のイメージとして捉えている。それは漠然としたイメージだからこそ判断材料として利用しやすい一方で、それは所詮「イメージ」なだけに現実との一致がなんら保証されない。

「統計のイメージ」は利用可能な手近な判断材料によって形成される。そして「利用可能」で「手近」であることが、統計の確からしさを保証する、と多くの人が錯誤している。

なぜなら、手近な判断材料とはそれ自体が「直接知覚」であり、人は自分が直接見聞きしたものにリアリティを感じるからである。すなわち現実そのものの認識ではなく、あたかも現実であるかのようなイメージを受け取り、それを現実と錯誤する。

現実と錯誤させるものがイメージである。イメージを、現実とは異なるイメージとしてイメージする場合、そのイメージは現実に根差している。つまり現実に根差していないイメージが「現実」と混同される。

「現実」と「イメージ」が二重化して捉えられなければイメージを「イメージ」として捉えることはできない。世界を一重化して捉える人にとって現実とイメージの区別はない。

人は「類似性」に惑わされて判断を誤る。

「時間」の感覚が異なる二種の人間が存在する。短期的な視野と普遍的な視野と…この両者を調停することはできない。

けっきょく人は、大きな賭けに出る人と、賭けにならないような小さな賭けしかしない人とに分かれる。小さな賭けとは安全な賭け、無難な賭け、負ける確率が少ないとされる賭け、勝っても儲けが少なく、負けても失うものが少ないと思われる賭け…

いわゆるギャンブルとは「ギャンブルの外在化」あるいは「ギャンブルの二重化」である。そもそも人間にとって生きることそのものがギャンブルなのである。その生きることのギャンブル性が小規模に模型化することで対象化され、外在化され二重化されたものがいわゆるギャンブルなのである。

貨幣経済社会において、金を得ることが生きることに直結している。だからあらゆる意味において金を得ること自体がギャンブルなのだ。例えば会社員として安定した職についていたとしても、いつ会社が傾くかもしれず、いつ自分を辞める事になるかも知れず、究極的にはギャンブルなのである。

他人より多く金を儲けるには?他人より楽して儲けるには?自分の好きなことして儲けるには?このようなことが可能になるためには自らが「金儲けの専門家」にならなければならない。どの分野でも専門家は経験を積むことで「勘」を養い、素人には不可能な高度に総合的で確実性の高い判断を可能としている

「金儲けの素人」を雇って養うのが会社の役目。

積極的、主体的に経験を積み重ね、失敗を何度も経験しなければ「専門家」にはなれない。そのようにして専門家は素人が感知できないような「些細な兆候」を読み取る勘を養い、その能力によって「専門家」として生きて行くことが出来る。

しかしこれはあくまで概念的な理想であって、現実的には「専門家」と自称する大半の人が自分の能力を過信して、盲目的に間違いを繰り返している。

だから究極的には自分自身が自分の専門家になるしかないのだが、多くの人が自分自身の専門家ではなく、だから誰か他の「専門家」に自分自身を任せているのだが、しょせん他人の専門家に自分のことが分かろうはずもなく、間違った判断をされた挙句それに満足されられている。

困難に対し何の勘も働かず、どうして良いのか分からずに立ち往生しているなら、その人には才能が無いのではなく、経験の蓄積が無いのである。

「好き・嫌い」の感情によって人間の判断は大きく左右される。にも関わらず、多くの人がこの、「好き・嫌い」の感情が何であるのか?について非常に無頓着である。つまり「好き・嫌い」の感情そのものが、それについての認識を阻害しているのである。

休息と暇つぶし(ニーチェ『ツァラトゥストラ』読みながらTweet)

哲学とは先ずなりより学ぶものであるが、自分なりに学ばなければそれは哲学にならない。つまり学校の勉強のように哲学について「皆と同じこと」を学ぶのを哲学とは言わない。

哲学の本質の一つは「変容」であり、例えばニーチェの哲学にしてもニーチェの意図通りに理解される事はあり得ず、必ず読む人によって変容してしまう。その場合、変容するのは読んだその人自身であって、その人自身が哲学によって変容しなければ哲学とは言えない。

哲学にとって重要なのは「それを語るのは何者なのか?」であり、哲学的でない人間がいくら哲学を語ってもそれは哲学にはならない。「哲学的でない人間」とは何かと言えば、新約聖書で示されたパリサイ人のような人を指す。パリサイ人はいかなる時代にも、いかなる分野にも現れ人々を惑わす。

パリサイ人は宗教者の偽物であり、芸術家の偽物であり、哲学者の偽物であり、その他「基準のハッキリしない」あらゆる分野に存在する。基準のハッキリしない分野にあって「ハッキリした基準」を示してその分野に居座るのがパリサイ人の特徴であり、だから多くの人が騙される。

科学の分野においてパリサイ人が存在するのは難しい。なぜなら科学は「真偽の基準がハッキリした分野」だから。しかし考えてみれば科学にも真偽のハッキリしない領域があり、そこにパリサイ人につけ入れられる余地がある。原発や精神医療など、他にもあるかもしれない…

人々の共感をぶっちぎるところに哲学の喜びがある。人々の共感をぶっちぎって上昇するところに哲学の快感がある。だからこそ芸術は哲学を幹とするその枝葉と言えるのである。

共感が生み出すものは再生産であり、それは退屈極まりなく堪え難い。結局のところ「哲学」の対義語の一つは「退屈」であり、だから「芸術」の対義語もまた「退屈」なのである。

結局のところ、哲学も芸術も「暇つぶし」に過ぎない。人間の本質とは、生まれながら何をして良いのかわからず、暇で暇で仕方がなく、どうにかしてこの暇を潰そうとする。この暇つぶしに最高の頭脳を使おうとするのが哲学であり芸術なのである。

例えば単に腹を満たすためだけでなく、美味しいものを食べればそれが「暇つぶし」になる。だから毎食同じものを食べると腹は膨れるが「退屈」になって耐えられなくなる。食べることが「暇つぶし」であるなら毎食の「変化」が重要な要素となる。

食べ物に関してはもう一つ、より美味しいものの味を知ってしまうと、不味いものが退屈に感じられるようになる。不味いものの正体は「退屈」であり、美味しいものの正体は「暇つぶしのネタ」である。優れた料理人は客に優れた「暇つぶしのネタ」を提供する。そうでない料理人は「退屈」を客に食わせる。

「暇つぶし」には実に結構なエネルギーが使われる。哲学をするにも、芸術をするにも、精神的にも肉体的にも結構なエネルギーが必要で、それをすると消耗し疲労する。だから人間にとって必要なのは「暇つぶし」と「休息」なのである。

人は「暇つぶし」をするとエネルギーを消耗して疲労し「休息」を必要とする。しかし休息するとだんだんに「退屈」になり、再び「暇つぶし」がしたくなる。そのサイクルで人間は動いている。

人間は本質的に暇を持て余した存在であり「暇つぶし」を必要とする。しかし「暇つぶし」はエネルギーを消耗し、だから「休息」が必要となる。そしてここが重要なのだが、人々の多くがエネルギーを消耗するような「暇つぶし」を望んでいないのである。

実に多くの人がエネルギーを消耗するような「暇つぶし」を望んではおらず、ただひたすら「休息」のみを求めている。多くの人が実に人生に退屈などしておらず、ひたすら「休息」を求めている。人々が求めているのは休息としての哲学、休息としての芸術、休息としての宗教、休息としての食べ物…である。

「休息」を望んでいる人に「暇つぶし」を与えても意味がない。例えば疲れて休んでいる人に対し「卓球やろうぜ!」と誘っても意味がない。

疲れて休んでいる人は、当然のことながらアクションを望まない。そして哲学することも、芸術することも「アクション」なのである。ところが哲学や芸術にとって「再生産」が退屈であるように、「再生産」とは「アクションではない」のである。だから「休息」を求める人が望むのは「再生産」なのである。

人々に「暇つぶしのネタ」を与えようとするのは間違いであり、多くの人はそのようなものを望んではいない。多くの人は退屈を感じる以前に疲れているのであり、暇つぶしよりも「休息」を何よりも求めている。人々は暇つぶしには一円も支払わす、休息のためにはいくらでも金を出す。

 

芸術と芸術の出来損ない

言語と現実は結びついている。と言った場合、二つの立場が考えられる。一つは「まず言語が先にあって、それによって現実が立ち現れる」とする立場。もう一つは、「まず現実があって、そこに言語を当てはめている」とする立場である。

そして私の「非人称芸術」は、前者の立場を取っていたのだった。それは「名付けによる創造」というコンセプトであったのだ。そしてこの「名付けによる創造」は真の意味で創造であり得るのか?という疑問が、後になって生じたのである。

「名付けによる創造」とは、そもそもが共産主義の方法論ではなかったか?つまり共産主義が成立しないという「現実」を目の当たりにしながら、非人称芸術が成立すると言えるのか?「名付けによる創造」とは、結局は「想像界」の産物であり、「信仰領域」の出来事に過ぎないのではないか?

「非人称芸術」とは錬金術で、手で触れたものが何でも金になる如く、目にしたものに「非人称芸術」の言語を当てはめるだけで、原理的に何もかもが非人称芸術に成り得るのである。そういう原理は成り立つのか?

現象学的に考えてみると、主観的な現象としては確かに存在したのである。これは自分のかつての実感としては、確実にあった。しかし「現象一般」として考えると、「現象」とは決してそういうものなのだろうか?

一般に、「自分だけがそう思ってるもの」あるいは「自分だけにそう見えるもの」は「錯覚」と言われるのである。だからその意味で「非人称芸術」とは「錯覚を生み出す技術」だと言えるのだが、現象としての錯覚にいかなる価値があるのか?

それでは錯覚と、錯覚ではない知覚との違いは何か?結局はフッサール先生が述べるように「現実への的中性」が問題となり、つまり「現実」というものが問題となる。すると「非人称芸術」とはいかなる「現実」なのか?

 

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ところで人間の意識は無意義に接続されている。だから私の非人称芸術は、無意識としての共産主義思想の影響を受けていると同時に、「フォトモ」の方も無自覚的に「別の無意識」の影響を受けている、と考えることができる。

これは私のフォトモと、もう一人フォトモを作っているマスダユタカ氏のフォトモを見比べるとよく分かる。私のフォトモは実に「正統美術」の影響を無意識的に受けているのに対して、マスダユタカ氏のフォトモにはそれが無い。

私のフォトモには確かに「正統美術」としての要素が十全だとは言えないが、しかし明瞭な「遠近法」と「節約律」が備わっているのである。私の「フォトモ」はだから、二つのイデオロギーの融合なのである。それは共産主義イデオロギーと、正統美術のイデオロギーである。

そして、「フォトモ」から共産主義イデオロギーを除外して見たとしても、そこに含まれる正統美術のイデオロギーだけで作品は十分に成立していると判断できる。これは何を意味するか?

つまり作品が成立する条件は、モチーフではなく、つまり意味内容としてのシニフィエではなく、物質としての記号表現であるところのシニフィエなのである!!!

ここで問題となるのが、自然こそが芸術だ、というイデオロギーである。かつての私は「自然こそが芸術だ」というイデオロギーの信奉者であり、その基盤の上に「非人称芸術」のコンセプトもあったのである。

しかしこれは一つのパラドックスを含んでいる。「自然こそが芸術だ」という価値観は、実はこの世に「芸術」と言うものが成立して、その後に成立したのである。そしてその「自然こそが芸術だ」と言う価値観は、真の意味での「価値」として成立していると言えるのか?

現象としての「フォトモ」の成立から考えると、実に自然をはじめとする「現実そのもの」は芸術ではあり得ず、「現実そのもの」を「芸術のフォーマット」に置き換えてこそそれは「芸術」となるのである。なぜならば芸術はそう言うものだと言う観察結果が、現実の観察から得られるからである。

あらゆる人工物が芸術なのではなく、人工物には芸術と芸術以外とが含まれている。だからこのような現実を「大半の人工物は芸術の出来損ないに過ぎない」と表現することができる。

そして「非人称芸術」とは実に、このような「芸術の出来損ない」を「芸術」だと誤解したイデオロギーに過ぎなかったのである。少なくとも戦後日本の現代美術においては、「芸術の出来損ない」を「前衛芸術」と誤解するイデオロギーが蔓延しており、「非人称芸術」その延長のある意味での最終地点だったのである。

だから自分で擁護するような言い方をすれば、私は最終地点まで行って、そこで行き詰まって折り返した。さらに言えば私だけが最終地点に行ったのであり、その他の人々はその手前で永遠に足踏みしている。

私はもう迷い無く「名付けによる創造」を否定しすべきなのである。これがなかなか出来ないでいたのは、「名付けによる創造」そのものが私自身の「発見」であったからである。

ショーペンハウアー先生の「教え」を延長して考えれば、人は「自分の発見」に縛られるのである。そして私はまさに「自分の発見」に縛られ続けており、だから「名付けによる創造」をはっきりと否定することが出来ないでいたのであった。

 

無意識とクリエイティビティ

クリエイティビティとは本質的に無意識の作用で、無意識の作用とは「動き」です。

 

この逆に「動きがない」のは言葉の丸写し、文章なら丸写しで、そのには無意識が作用する余地がありません。

 

そして言葉の要約、文章の要約にも、無意識の作用はありません。

 

加えて言葉の体系化、複数の文章を分類し整理して体系化することにも、無意識の動きは関与しないのです。

 

そのやうに「秀才」と呼べるタイプの人は、無意識が作用せず、だからこそ要約や体系化といった「秀才的」な仕事ができるわけです。

2019明けましておめでとうございます!

すいません、遅くなってしまいましたが、新年明けましておめでとうございます。

 

2019年もよろしくお願いいたします。

 

実はご挨拶が遅れてしまったのには理由があって、昨年末からYouTuberを始めまして、そうしたらそっちに軸足が移ってしまったのです。

 

ブログがおそろかになってしまい申し訳ありませんが、チャンネル登録ぜひお願いします。

 

https://www.youtube.com/user/itozakikimio

 

実際にしゃべると、やはり「書く」のとは違うのです。

 

というのも、ソクラテスの昔からフッサールソシュールラカンなど現代に至るまで、偉大な哲学者は書くよりもしゃべってきたのです。

 

そして実際に自分でしゃべってみると、「書く」に対する「しゃべり」の優位性が如実に自覚できるのです。

 

ことに言語活動が無意識の作用であるということが、「書く」よりも「しゃべる」の方により明瞭に現れて「自由」になるのです。

 

現にこうして文章を書くことも、しゃべりを経験した今の方が、以前よりも滑らかで自由な感じで出来ています。

 

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ただもちろん、ブログをやめるつもりはなく「書く」ことの意味も追求して行くつもりです。

 

一つには、私はYouTubeで本の紹介をしたかったのだけど、私のしゃべりは普通の意味での本の紹介にはならないのです。

 

それはこのブログでも同じですが、本の内容をわかりやすく、入門書的に要約するような仕事は私には出来ない、やる気が起きないのです。

 

私の場合は本を読むとその刺激によって新たな考えが生じてくるので、それを書きたい、あるいはしゃべりたい、そうやってクリエイティビティを発揮したくなるのです。

 

しかしそれではYouTuberとして人気者になることは出来ずお金は稼げません。

 

やはり売れっ子YouTuberはじめ、本にしても、世の「売れているもの」を見ると押し並べて「一般性」のあるものしか受けないのです。

 

そこではオリジナリティは求められていないのです。

 

オリジナリティとは、無意識の作用として生じます。

 

するとその対極にある「売れるもの」は意識の産物として生まれるということになります。

 

そう、哲学系YouTuber「ネオ高等遊民」さんという若い方の動画を見て思ったのですが、彼の哲学解説は初心者向けによくまとまっていてわかりやすい。

 

逆に言えば彼のしゃべりはまるで文章を読み上げているようなのです。

 

いや彼のしゃべりは自然で、決して朗読をしているような硬さがあるのではありませんが、わかりやすいおしゃべりは、一方では文章のようなおしゃべりでもあるのです。

 

あるいは「秀才」と言えるような人には、その精神に本質的に「しゃべり言葉がなく、書き言葉だけがある」と言えるのかもしれません。

 

そしてこれを逆手に取れば、まず文章で分かりやすい哲学の入門書的な内容を書いて、それを読み上げるか自動音声に置き換えるかして、YouTube番組を作成できるかもしれない、そうやって擬似的に秀才的な番組制作ができるかもしれない。

 

まぁ、実現可能かは別として、そんなことを思いついた次第てます。

 

 

文明と宗教

「宗教」についてさらに分かってきたのだが、まず先日、東京国立博物館で見た『快慶・定慶』展について。一般に「運慶・快慶」と並び称される鎌倉仏師の二人だが、それ以前に同じ東博で見た『運慶展』の運慶と、今回見た快慶とそして定慶とは、文字通り雲泥の差があったことが確認できた。

 

快慶は(そして定慶も)確かに上手いのには違いがなく、人物像としては非常にリアルで、特に写真のように人の表情の一瞬を切り取ったかのような生き生きとした表現は、見事だとしか言えない。

 

しかし快慶があくまで「人」を表現しようとしているのに対し、運慶は明確に「人を超えた超人」を現しているのが実に凄いのであり、この差は歴然としている。『運慶展』で私が見た運慶の彫像は、実物の人間のリアリティを超えて、さらに「その先」を表現しようとしており、その点に圧倒されるのである。

 

つまり運慶と快慶とは、いや運慶とそれ以外の慶派の仏師たちとは、たとえ技術的に同等であってもそれ以外の「何か」が違うのである。そしてその何かとは「宗教」であり「信仰心」であろうと直感したのである。

 

いやそもそも運慶も快慶も仏師であり、彼らが彫ったのは芸術作品ではなく宗教的な礼拝物であり、「芸術」とは宗教的な要素から切り離された「純粋芸術」を指すのであり、日本には明治になって西洋からもたらされた概念で、それ以前の日本には存在しなかった…などという「俗説」を信じる人もいるだろう。

 

あるいは、「芸術」や「美術」という言葉はARTという外来語に対して明治になって作られたので、江戸時代までの日本に芸術も美術もなかった…という俗説も同様で、それらの認識は間違っている。

 

なぜなら美術史では「ギリシア美術」「エジブト美術」「キリスト教美術」などという言葉が普通に使われており、それらの作品は当然のことながら宗教的な礼拝物なのである。

 

つまり物事を本質に立ち返って考えようとするならば、美術作品とは本来的には宗教と不可分な存在であり、そのことを運慶の作品は改めて思い起こさせてくれた。いや運慶と快慶の比較によって、そのことが改めて対象化されたのだった。

 

われわれ近代人は忘れてしまっているが、そもそも芸術の根底に宗教が存在するのである。いや芸術だけでなく、そもそも文明の根幹には宗教がある。宗教なくしては文明は成立せず、宗教は文明とともに常に存在する。

 

宗教とは何か?その定義はなかなか難しいが、一つには「文明」が成立するために必要な、各自に内面化された倫理観やマナーは、明らかに宗教の産物である。

 

私の友人で海外青年協力隊の仕事で南米のホンデュラスに赴任した人がいるが、その友人の話ではかの国の国民はおしなべて倫理観もマナーもなっておらず、そうしたものが定着ない地域というのは確かに存在するようである。

 

これに対して日本には、日本に特有の、というより「文明」を成立させるために不可欠な、その意味で普遍的な倫理観やマナーが確固として存在する。

 

文明とは原始時代までの血縁による「群」をはるかに超えた大人数の人々が一つの都市に暮らしながら、自然の脅威から身を守り、食物を生産し分配するシステムだと言えるが、そのような「赤の他人」同士がトラブルなく暮らすには相応の倫理観やマナーが不可欠なのである。

 

この文明に必要な倫理観やマナーを、宗教を抜きにして無神論的に、完全に合理主義として考えようとすると無理があることがわかってくる。合理的に考えれば、法を犯していない限り、誰にも迷惑をかけず、誰も見ていないところで倫理観やマナーに反する行いをするのは構わない、ということになる。

しかし実際には多くの人が、他人が見ていないシチュエーションであっても「良心に基づいた」「キチンとした行」をするもので、それが「内面化」ということである。このような内面化なくして、理屈で考えた合理性だけで「文明」というものを支え切れるものではないのである。

 

だから現代日本においても、多くの人が「無宗教」を自称して特定の宗教を信仰していなくとも、その人が自らの倫理観やマナーで自らを律しようと常にしているならば、その意味での「宗教」なり「信仰」なりが、その人の内に存在していると言って、差し支えないのである。

 

実に今の時代に「宗教」というものを考えると、「キリスト教」とか「仏教」などと言った特定の宗教を信仰するのは、ちょっと話が違うのではないかと思うのだ。そのような私の「思い」は明確なものではなかったが、最近になってようやく見えてきたものがあったのである。

 

それはつまり近代以前と以後では「宗教」のあり方が違っているのである。近代以前は、交通が未発達なので人々は基本的に自分たちがいる土地に縛られている。すなわち中世ヨーロッパの多くの人々にとって宗教と言えば「キリスト教」を指すのでありそれ以外は存在しなかったのである。

 

いや実際にはイスラム教もユダヤ教もあるいは土着の宗教もあったかもしれないが、いずれにしろその地域や時代に固有の宗教を絶対的なものとして信仰し、それに縛られていた。

 

しかし産業革命が起きると交通網の発達に乗って情報網が発達し、ヨーロッパに日本や中国やインドの宗教がもたらされ、日本にもキリスト教はもちろん、それまで日本に入ってこなかったインドの初期仏教などがもたらされるようになった。

 

つまり現代の日本において、宗教を信仰しようと思ったら、まず「仏教」とか「キリスト教」とか「幸福の科学」などの“選択肢”が存在するのである。その選択肢は近代以前には存在せず、キリスト教の家に生まれた人は基本的にキリスト教一択なのが近代以前だったのである。

 

さてそのような選択肢を前にして、「では私はキリスト教を選択しよう」とか「私は仏教を選択しよう」などと決定するのは、どうも違うような気がするのだ。

 

私は自分が美術家だと言うこともあって、美術と不可分とも言える宗教全般に興味があって、キリスト教にしても仏教にしてもその他の宗教にしても、それなりに独学で勉強してきたのである。しかしだからと言って、そのうちどれか一つの宗教を選択して信仰するというのは、どうも話が違う気がするのだ。

 

そこであらためて気づいたのだが、現代において宗教や信仰は、本質的に「抽象化」されているのではないだろうか?先に示したように現代日本人の多くに宗教心、信仰心は見られるものの、それは「仏教」とか「キリスト教」などのように特定化、具体化がされずに抽象化されているのである。

 

これもあらためて気づいたのだが、マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と近代資本主義の精神』を読んで、同時に京セラ会長の稲盛和夫さんのビジネス書などを同時に読むと、近代資本主義というものそれ自体が一つの「宗教」として機能していることに気付くのである。

 

いやヴェーバーによると、近代資本主義の精神からは、その元となったプロテスタンティズムの信仰心は抜け去ってしまったとされているが、僭越ながら私が見たところではそうではなく、近代資本主義の精神そのものが、抽象化された信仰心を形成しているのである。

 

そもそも『プロテスタンティズムの倫理と近代資本主義の精神』という書物自体に、ヴェーバーその人の非常に篤い信仰心が現れているように私には思えるのである。つまりこの本でヴェーバーは、学問としての倫理と誠実さに基づいて、かなり慎重な帰納法を駆使して論を進めている。

 

同時にヴェーバーは、勝手な思い込みや決めつけによって杜撰に論を展開するような、言ってみれは「学問にとっての不信心者」に対し折に触れて苦言を呈しているのである。

 

だから近代資本主義の根幹に、キリスト教由来の信仰心が存在すると言うヴェーバーの指摘は、「文明」の本質から鑑みて全くもって正しいと言えるのだ。そしてその指摘は、ヴェーバー自身の信仰心に由来する真摯な学問的な態度とも重なる、というのがこの本の真髄でもあるのだ。

つまり芸術の根幹には宗教が存在し、学問の根幹にも宗教が存在する。なぜなら文明の根幹に宗教が存在するからである。それでは商売はどうなのか?と言えば、実は事情がちょっと異なる。ヴェーバーが指摘するように、商売そのものは古代から存在し、プロテスタンティズム以前にも資本主義は存在した。

 

良く知られるように、古来からユダヤ人は商売熱心で、それ故に差別されていたくらいなのである。しかしヴェーバーによると、ユダヤ人の商売熱心は「近代」資本主義を生み出すには至らなかった。

 

なぜか?と言えば、ユダヤ人は教義によって金儲けや金貸しを「禁じられてはいなかった」、だからそれらに従事することができた。しかしだからと言って、ユダヤ教が金儲けや金貸しを「推奨」しているわけではなかった。

 

つまりユダヤ人の商売は宗教的な例外として「宗教の外部」で行われていた。これに対してプロテスタンティズムの精神は、宗教としての中心的な信仰心を資本主義の中に折り込んでしまった。そのようにして資本主義そのものが宗教化し、文明の根幹をなす宗教となったのが近代資本「主義」なのである。

 

だから私がこれまで読んでこなかった稲盛和夫さんのビジネス書を読んだり、キミアキ先生のビジネス動画などを見ると、彼らがいかに「宗教者」として生きているかがよく分かる。

 

稲盛さんにしてもキミアキ先生にしても、まず「社長」と言われる人たちに向かって話をしているのが特徴である。そして共通しておっしゃることは、社長業は決して楽ではなく、誰よりも長く働いて休みもとらず常に人一倍勉強して努力する存在なのである。

 

だからネットに出回っている情報商材の謳い文句にあるような「楽して儲ける」というような思想とは全く異なっている。社長とはまずひたすら稼ぎを増やし続けようとする存在だが、同時にそのための度量を惜しまず、そのために全人生を捧げる覚悟のある人を指す。

 

社長になるような人は、能力面においても、それ以上に精神面において「特別な人間」であり、そのような社長が「普通の人々」である従業員を養いながら、なおかつ世の中に広く役立つような尊い目的のための仕事を成そうとする、つまりそのように文明の形成に寄与するのが「社長」という存在なのである。

 

しかしいかに稲盛さんやキミアキ先生やその他の社長さんのあり方が信仰心に篤い宗教者のようだとしても、この方たちが直接に宗教を語ることはもちろん決してない。なぜなら今の時代はそのように宗教が抽象化されているからである。

 

現代の抽象化された宗教、それこそが「無宗教」と呼べるものではないか?実はあらためて調べると「無宗教」と「無神論」は別の概念なのである。

 

無神論とは積極的に「神」の存在を否定する思想であるのに対し、無宗教は神の存在を一概に否定しないものの特定の宗教への信仰をしない、消極的で保留的態度である。

 

しかしどうも現代の「社長」と言われる人々をみると、この「無宗教」の精神にかなり積極的に突き動かされているように思えてしまうのである。

 

さてここであらためて「宗教とは何か?」を考えてみたいのだが、ヴェーバーを読むと、とにかく近代以前のプロテスタントは「予定説」という現代の我々からみてもかなり珍妙な説、それこそ脅迫神経症とも言える理論を本気になって信じて、それに縛られて一生を終えていたのである。

 

ちなみに予定説とは、神様は人がそれぞれ死後に天国へ行くか地獄に行くかをあらかじめお決めになっており、しかもその決定は人間には知ることが出来ず、その運命を変えることはできない。だから人は自分が死後に天国へ行けることを確信するために、神の意にかなった正しい生活を送らなければならない。

 

…と、そのように荒唐無稽な強迫観念を生きていたのである。それはスペインに滅ぼされるまでアステカ帝国の人々が、太陽の落下を恐れて神に生贄を捧げ続けていたのと本質的に変わりはない。

 

ともかくレヴィ=ストロース的に言えば、各時代の各地域におけるそれぞれの文化の人々は、それぞれにお互いが荒唐無稽で珍妙と思えるような世界観を生きているのである。

 

なぜそのような状況になるのか?それを根本に遡って考えるならば、人間とは本質的に自分が何のために生まれてきたのか?どのようにして生きていけばよいのか?を全く知らないでいるのだ。

 

それは全くアンパンマンの歌そのものだが、さすがやなせたかし先生の作詞だけあって、人間の本質が鋭く捉えられている。人間は「本能が壊れた動物」だとも言われ、なおかつ自己意識がある。だから「なぜ生まれたのか?どう生きるのか?」という悩みも生じる。

 

いや環境が厳しく生きるのに忙しければ、そんな余計なことを考える余裕はないかもしれない。しかしレヴィ=ストロースの調査では、ある未開部族は食物や薬として有用な植物を細かく分類して生活に役立てると同時に、全く有用性のない爬虫類も精密に分類している。

 

つまり人間は少しでも暇ができると何をやっていいのかが分からなくなり、爬虫類の分類などの余計なことをつい始めてしまうのである。まして文明人の大半は、厳しい自然環境では本来生きられなかった人々であり、生まれてくるはずのなかった人々なのである。

 

そのように本来的に「余計な存在」である大半の「文明人」は、なおさら「何のために生まれ、何をしていいのか」が分からない。そこでそのような人々の疑問に応える形での「宗教」が生じるのである。

 

稲盛和夫さんやキミアキ先生のような「社長」たちが、飽くなき金儲けを追求しようとするのは、究極的には合理的理由は存在しない。あるのは「何のために生まれどう生きるのか?」という疑問に答えを与える「無宗教」への篤い信仰心で、それは現代文明の根幹をなす「主流としての宗教」の系譜なのである。

 

 

二つの世界と二つの正しさ

正しい答えは常に一つではなく二つある。なぜなら世界は二つに分かれているから。

 

つまり文明は必然的に二つの世界を作り出す。そこに二つの異なる正しさが生じる。

 

文明は必然的に支配者と被支配者、管理者と被管理者、強者と弱者、能動的な者と受動的な者、など様々に名付けられるような「二者」を生み出し、その二者にとってとそれぞれに異なる二種類の「正しさ」が生じる。

 

我々はそれぞれに「逆さま」に異なった正しさの世界を生きている。ある者たちにとって「正しい」とされる同じことが、別のある者たちにとっては「間違い」とされるような、そのように正しさが逆さまな二つの世界が重なっている。

 

私がこのところ入れ込んでいる「事業者向けチャンネル」のYouTuberタナカキミアキ先生は、この二分した正反対の「正しさ」をよくご存知で、だから「ここは事業者向けチャンネルです」とことわって番組を放映されている。https://youtu.be/AHZjacip9Y4

 

 

このキミアキ先生が動画の講義で盛んにおっしゃっている「勉強」と言うことも、それは「一方の正しさ」を示しているに過ぎず、だからキミアキ先生も「勉強」をあくまで事業者や、デキル社員あるいはデキルことを望む社員にしか求めない。

 

だから「正しい答えは一つではなく二つ」の原則に従えば、「勉強」は「努力」は正しくで善だとされる一方で、同じことが明白に「間違い」であり「悪」なのである。

 

ここは大変に重要なことだが、世界には正反対に異なる善悪の軸が存在する。これをきちんと透徹して理解しないと、まさに善悪を見誤ることになる。

 

一方の文明にとっての「普遍的」価値基準として、勉強や努力は明白に「悪」であり徹底して排除すべきものである。それはそもそも文明は何のために生じたのかを考えればわかる。文明は厳しい自然環境から逃れて皆が楽をして幸せに暮らせるように築いたもので、そのようにして進化し、進化しつつある。

 

もちろん何事も理想通りに実現しないとは言え、なるべく苦労せず、ストレスなく、人生を送ることができれば、「文明」の在り方としてそれこそが「正しい」と言えるのだ。

 

だから文明の本義として子供のうちにイヤイヤでも勉強をするのは仕方ないにしても(そうでなければ文明人としての基本が身に付かないから)、大人になってまで勉強なんぞする必要は全く「ない」と言えるのだ。

 

 

大人になってまで、苦労して嫌な勉強をする必要なんかない。嫌な勉強から解放されることが、大人の特権であり、そうでなければ子供の頃我慢して学校に通った意味がない。

 

また、自分が苦労した親が子供に苦労をさせたくないと思うのが「自然」であるように、人は可能であれば「苦労しない」に越したことはない。だから要らぬ努力も勉強もしないで済むに越したことはなく、そのようにして現代文明は進歩してきたのである。

 

ただしこのような、勉強が善か悪かの二分した正反対の価値観は、あくまで二つの「ビット」であって、このビットの組み合わせによって無限のバリエーションを生じる。逆に言えば多様に見える現象も、二つの単純なビットに還元できるのである。

 

例えば、一口に「勉強がしたい」と思っている人のうちでも、その「程度の差」と言うものが存在する。すなわち、自分の全人格を賭けて学問を極めようとするのか?会社を黒字にしさらに経営規模を拡大するために勉強するのか?社会人として必要な一般教養を身につけるために勉強するのか?

 

あるいは自分の趣味領域を極めるために勉強するのか?などなど、それぞれに「勉強は善」「勉強は悪」の正反対のビットが、異なる割合で配合されている。例えば「会社を黒字にしたい」と思って勉強する人は、その目的を超えてまでは「勉強をしたくない」と思っている。

 

これはあくまで図式に過ぎないが、しかし確かに複雑で入り組んだ「ビット」の組み合わせは存在するのである。そう、そして、ビットは人の深層心理にまで複雑に入り込んで作用している。

 

 

 

さてそのような「ビット」の考えを導入すると、とりあえず3つの異なった「勉強のありかた」を提示することができる。この3つは二つの相反したビットの組み合わせの違いに過ぎないから、どれが優れてどれが劣っていると言うことは本質的にはない。

 

そして私自身はこの三つの異なる勉強のありかたを、思い起こせば全て体験してきたのであった。とは言えこの三つにはあくまで本質的な優劣はなく、従って全て体験する必要は全くないと言える。自分の場合はたまたまそうなってしまっただけ、と言うに過ぎない。