認識と志向性

私の場合は「階級闘争」などという言葉は一応聞いたことがある程度で、それが具体的に何を意味するのかは知らないし、自分には全く関係のない古い時代の概念だと思っていたのだが、いま改めてマルクスエンゲルスの『共産党宣言』を読むと、私自身の思考の志向性そのものが、階級闘争の解消へと全面的に向かっていたことが、明らかになった。

そして自分が階級闘争において勝利できないと認識した時点で、階級そのものを無効化する方法を見出そうとする。そのために階級とは書かれた歴史の産物であり、それ以前の階級の存在しなかった世界に回帰しようとする。それと、近代を背景とした生産量の増大を利用し、持つ者と持たざる者という格差を解消しようという、その「志向性」において非人称芸術の概念は見出されたのであった。

認識において志向性はいかに重要であるか、ということは、人間が本質的に騙されやすい性質を持つことで理解できる。すなわち、自分はどのように騙されたいのか?というその志向性が、認識の志向性なのである。そして共産主義的思考とは、それにおける共通の志向性を指している。つまり自分がどのように騙されたいのかの志向が、共産主義的思考を持つ者の間で共通しており、それで皆同じように失敗するのである。

魔法というものは、信じればそれが「本当」になるという性質を持つ。信じることができなければ、魔法がとけて本当だと思っていたものが「ウソ」に転じて消えてしまう。だから人々の志向性は、魔法がとけて欲しくないという方向に働き、つまり自ら望んで騙されようとする。

魔法を生み出して、それを信じるようにすれば、何でも「本当」になる。そこで自分も含めた人々が気持ちよく騙されるための、どのような「魔法」を構築するかを、頭の良い人は考えようとする。このような「志向性」が人間には明確に備わっている。

人間には積極的に騙されようとする志向性と、そのための嘘を構築しようとする志向性が備わっている。

人間の認識は、現実と必ずしもぴったりと対応していない。にも関わらず、人間は現実と自分の認識とがぴったりと一致していると錯覚する。人間の認識はダイレクトではない。人間の認識が「間接的」なのは、自分の認識を他人に預けているからである。

平たく言えば、自分で直接認識するのではなく、他人があるものをこう認識したという話を聞いて、それを鵜呑みにして、自分の認識に置き換えるのである。つまり脳というのはマルチメディアであって、自分が見た記憶と、他人から〇〇を見たという話を聞いた記憶とが、同列に扱われ、そこで認識の間接化が生じるのである。

人間は言語機能によって「偵察」の能力を獲得した。例えば狩の集団が敵に襲われそうになった時、全員が同じように敵の存在を確認しようとすると、発見され襲われる率が高まる。そこで一人だけ偵察に出て、他の集団は隠れていれば、的に見つからずにその姿を発見する率が高まる。

そのかわり、偵察に出なかった他のメンバーは、敵の存在を間接的に知るようになる。そして、日常生活においても多くの人が、自分では直接見聞せず偵察隊を放ってその報告を聞いているのである。

多くの人は安全な穴倉に隠れながら、偵察隊の報告を待っている。そして時に偵察隊は、みんなを喜ばせるため積極的に嘘をつく。なぜなら多くの人は真実ではなく自分たちに都合の良い嘘の報告を待ちわびているからである。

そして、嘘をつくためには、自分で嘘を構築しなければならない。そのようにして頭の良い人は、巧妙かつ壮大な嘘を構築し、自分を含む多くの人を騙すのである。そのような共犯的な志向性が、人々の間に存在する。

幽霊と共産主義

ヨーロッパに幽霊が出る__共産主義という幽霊である。と言うのはマルクス共産党宣言』の書き出しだが、反省すると結局のところ私自身も共産主義の亡霊に取り憑かれていたに過ぎなかった。

私が物心ついた頃は、全共闘運動などの日本の左翼運動は終わっていて、私も共産主義がなんなのか、ちゃん勉強せずよく知らないままで来てしまっていたが、それだけに、自分では全く無自覚のまま、共産主義的な思考にすっかり染まっていたことが、今になってようやく明らかになって来た。

と言うのも、人は一般に、ろくに勉強しないで自分独自の頭で思考しようとすると、必然的に自分の知らないうちに、既存の思考方法を採用して思考することになる。言ってみれば、人は自覚的に勉強しようとしなくとも、他人とコミニュケーションしながら社会生活を営む中で、必然的に、無自覚的に何かを学んでゆく。

そもそも「考える」とは「言葉を使って考える」ことなので、言葉を他人とのコミニュケーションの中で学ぶと言うことは、思考の方法も含めて学ぶことになる。

つまり学習には無自覚的な学習と、自覚的な学習とがあるが、無自覚的な学習は非反省的で、自覚的な学習は反省的である点に違いがある。無自覚的と非反省的は同義語であって、自覚的と反省的も同義語である。

それは教える側にも同じことが言え、共産主義について自覚的に他人に教えようとする人は、共産主義とは何かを反省的に捉えてそれを他人に教えようとする。そして自覚的にそれを学ぼうとする人は、自分の思考体系を反省的に捉えながら、その中に今学びつつある共産主義をどうにかして位置付けようとするのである。

逆に、共産主義について無自覚的に学ぶ人は、共産主義を学ぶという自覚もなく、それどころか今まさに自分が何かを学んでいるという自覚すらなく、主観的にはただ他人とコミニュケーションしているだけである。

共産主義について無自覚的に教える人も、自分がいま他人に話している内容が共産主義的であるという認識すらないまま、それを相手に伝えようとする。そのように現代においては、共産主義は「共産主義なんか知らないし関係ない」という人たちに、まさに幽霊のように取り憑いていて、私もまた例外ではなかった。

それで私はずっと無自覚的学習だったところ、数年前から自覚的学習に切り替えたのだが、そうなると徐々に自分が無自覚的に何を学び、何に影響を受け思考して来たのかが分かってくる。

そうすると私は共産主義の影響を自分が思っていたレベルをはるかに超えて受けており、ほぼ共産主義の仕方に従って思考していたのである。もちろん私の共産主義的思考は十全ではなく断片的なものに過ぎないが、しかし問題の立て方から解決への道筋まで、驚くほど共産主義的だったのである。

ブリコラージュには二種類の意味があったのである。一つは元の意味としてのブリコラージュだが、これは自覚的に行われる。私もそうだが素人工作が好きな人間は、自覚的にブリコラージュを行い、そのための素材探しを常に行なっている。しかし、思考のブリコラージュは、たいていの場合無自覚的に行われる。だからレヴィ=ストロースは、サルトルの無自覚的な思考のブリコラージュを痛切に批判できたのである。

 

純粋と総合

極端の対義語は総合でもある。極端な人は総合力を欠いている。中庸は総合の類義語でもあって、中庸でいるためには総合力を必要とする。極端はまた純粋の類義語でもあり、純粋は総合の対義語でもある。

現代人と野生の思考

「生活者」として必要な事は、ブリコラージュの素材となる引き出しをいかに多く持つか、という事だが、現代人の多くが実にこの引き出しの数が少ない。対してレヴィ=ストロースが報告する未開人は引き出しの数が多くサバイバル能力が高い。現代人は「野生の思考」をも失っていると言える。

考えと記号

考えが前に進まないときは、考えそのものがブリコラージュに陥っていて、考えの対象が記号化しそれ以上分解不可能になっている。例えば「芸術が分からない」といった場合の「芸術」や、金儲けの仕方が分からないと言う場合の「金儲け」がそれに当たる。

エンジニアリング思考の場合、例えば「芸術」とか「金儲け」などについて「自分の頭」で考えることはしない。「自分の頭」で考える限り「芸術」にしろ「金儲け」にしろあらゆる事物は記号化し、ブリコラージュ的思考の素材にしかならない。

そもそも「自分」と言う人間は、せいぜい数十年前に、世界というところに「遅れて」やって来たのであり、何かを知っていようハズがないのである。だから「知る」ことは自分に先行する他者から教わることであり、「考える」とは自分に先行する他者の頭を使って考えることなのである。

財産とは何か?人は誰でも裸の赤ん坊として生まれ、そして親をはじめとする様々な「先行する他者」から、様々なかたちとして財産を受け取る。そしてその財産は、自分が死ぬときは全て手放して、世の中に返すか捨てなくてはならない。

 

安心と主張

或云(あるひという)。世の宗門の趣意を、一筋に死後の冥福を祈張ることと思ふは、大なる心得違なり。世界中宗旨の数, 如甚夥多し。其説、千緒万端なれども、概して之を云へば、現在未来に拘はらず、唯安心の地を求るなり。
#福沢諭吉 或云随筆

福沢諭吉先生が述べる如く、宗教に限らず人々が自己主張するのはただ「安心」を求めたいからである。宗教が各宗派によって異なる「主張」になるのはそのためである。宗派が互いに攻撃的になるのは、その根底に不安があるからである。

何故に人々は不安なのか?それは世界に対し不透明な態度で接していると、その手前にとどまることになり、不安が募ってくる。世界に対し透明な態度で接すれば、その向こう側に越えて行くことができ、不安は解消される。

多くの人が不安に苛まれ、それぞれの「巣」に閉じこもる。このような巣は、世間に流通する様々な「記号」を寄せ集めて作られる。私の主張も、そのような「記号」の寄せ集めに過ぎなかった。哲学や思想の「入門書」には、素材としての「記号」が記されている。これはブリコラージュの素材なのである!

哲学書が難しいのは、それ自体がエンジニアリングだからである。それに対して哲学の入門書は、ブリコラージュの素材としての「記号」を提供し、だから「分かりやすい」のである。

一般の人々は一般であるが故に専門家ではなく、だから常にブリコラージュの素材を求めている。素人がブリコラージュしたがるのはひとえに「不安」の解消のためである。

ゲームと儀礼

科学と同じくゲームは構造から出来事を作り出す。従って競技が現在の工業社会において盛んであることは理解できる。それに対して儀礼と神話はブリコラージュ(工業社会はこれをもはやホビーもしくは暇つぶしとしてしか許容しない)と同様に、出来事の集合を(心的面、社会・歴史的面、工作面において)分解したり組み直したりし、また破壊し難い部品としてそれらを使用して、交互に目的隣手段となるような構造的配列を作り出そうとするのである。「野生の思考」p41

ゲームと儀礼。ゲーム的思考と儀礼的思考。有り体に言えば、自分の頭で考えない人は儀礼的な物言いをする。

「言葉が通じても話が通じない」理由の一つが、一方がゲームのつもりで、一方が儀礼のつもりで議論をする場合である。SNSなどのネットマナーは、お互いの書き込みを「儀礼」と暗に認めることで成り立っている。

美術には、社会的儀礼としての美術と、美術史というゲームとしての美術とがある。