アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

欲望と野蛮

理性を前提とした野蛮が存在します。「真性の野蛮」と「理性を前提とした野蛮」とがあります。人の理性は寿命により限定付られており、そのために野蛮へと回帰する力が生じるのです。

近代は理性によって生じたのではなく、野蛮と理性とが結び付き近代が生じた経緯があります。人間にとっての野蛮とはまず人殺しです。しかし野蛮な人殺しによって文明は成立したのです。冷静な話し合いによって文明を成立させることはできなかったのです。

力の強い人達はケンカをしたがります。力の弱い人達はケンカを嫌がります。力の弱い人達は、力の強い人達の「力」を封じ込め、ケンカを止めさせる方法を知っています。「力」と「力を封じ込める力」と、この両者が拮抗しているのが、今の世の中ではないでしょうか?

この世は暴力が支配しています。でなければ、どうやって文明を成立させ、それを維持することができるのでしょうか?「この世は暴力が支配している」というのはもちろん一面的な見方でしかありません。でも一面は、確かにそういうことではあるのです。

綺麗事は暴力を覆い隠します。綺麗事を唱える人は暴力に加担しています。

暴力は悪なのでしょうか?それとも暴力は善悪を超越しているのでしょうか?

多くの人は野蛮な暴力が無くなることを願っています。しかし同時に、多くの人が自分の野蛮欲望を満たすことを願っており、そこにこそ矛盾があります。

野蛮な暴力を否定したいのであれば、自分自身の野蛮な欲望を断ち切らなければ、理が通りません。理を通さなければ何事も実現することはできません。暴力は人間の野蛮な自然性に依拠していて、その意味で理が通っています。自然の理を否定するには、反自然的な理を立てそれを徹底的に通す必要があります

野蛮な暴力を否定したい人は、まず自分自身の野蛮な欲望を否定することです。その事を説いたのが実はブッダであり、最初期の仏典と言われる『ブッダのことば』(中村元訳/岩波文庫)に書いてあります。日本仏教は中国経由で伝来し、オリジナルとは全く別物に変化しているので注意が必要です。

世の中から野蛮な暴力を無くすは、まず自分の野蛮な欲望を捨てることです。なぜなら自分にできないことを他人に要求することはできないのです。もし自分の野蛮な欲望を完全に捨て去ることができれば、この上も無い満足が訪れ、それこそが平和なのだと、御釈迦様が二千五百年前に説いたのです。

ただ立っているだけで重力が働いているように、ただ立っているだけで暴力が働いてはいないでしょうか?あなたがそこに安全に立っていられる理由を考えてみましょう。あなたの安全はある種の暴力によって確保されており、その意味での暴力は重力のように常にあなたに作用しているのではないでしょうか?