芸術と芸術でないもの

あらゆる自然科学はその出発点に関して言えば素朴である。自然科学が探求しようとする自然は自然科学にとって単純にそこに存在する。#フッサール 厳密な学としての哲学

心理学はこのように心的物的な自然連関のうちに自明的に存在している心的なものをその自然連関のうちにおいたままで学的に研究しこれを客観的妥当的に規定しその形成と変化及びその去来の法則性を発見することをその課題とするのである。#フッサール 厳密な学としての哲学

この素朴さは自然科学に常に付きまとっているものでそれは例えば自然科学的な方法的操作のあらゆるところにつまり自然科学が直接の経験を引き合いに出してくるあらゆるところに常に繰り返し現れて来るのであるそして実際あらゆる経験的科学は結局他ならぬ経験そのものに立ち止まってしまう#フッサール 厳密な学としての哲学

 自分の何が間違っていたかと言えば「非人称芸術」という結論を先に持ってきてその正しさを実証しようとしたことです。その結論は確かにある範囲においては正しくそのことは実証できましたがその正しさには適用の範囲が限られそれを超えた普遍的な正しさを持ち得ていなかったのです。

 大切なことは結論を出すことを巧妙に避けながら、あらゆる事物を自らの認識世界に生じた「現象」であると見抜きながら、冷静にこれを観察することではないでしょうか。

 もし、数字の「5」より「8」の方が好き、という人がいたならそれは変わり者です。数字には大小の序列がありますが、これとは別に数字に対し好き嫌いの序列を付ける人は変わり者です。米よりパンが好き、と言う人はどうでしょう?米とパンに、食物としての有用性の序列を付けることは困難です。

 芸術は存在するのでしょうか?例え「芸術は存在しない」と自分が思ったとしても「芸術」という言葉が存在し「芸術」という言葉で言い当てられるものが、事実として存在する、という《現象》は存在します。

 「芸術」という言葉が存在する以上「芸術でないもの」が存在します。「芸術」と「芸術でないもの」が存在するために、「芸術でないもの」を「芸術」だと取り違える人や、「芸術でないもの」を「芸術」だと言って騙す人が生じるのです。

 「芸術」と「芸術でないもの」が存在し、「芸術」と「芸術でないもの」を取り違える可能性が存在し、「自分が芸術だと思ってるもの」が「芸術でないもの」である可能性が存在します。

 「自分がネコだと思ってるもの」は大抵はネコであって、めったに間違えることはありません。しかし「自分が芸術だと思ってるもの」は実のところかなりの確率で間違いなのです。この違いはどこから来るのか?

 遠くの物体に対し「自分がネコだと思ってるもの」が「ネコでないもの」である事はあり得ますが、至近距離で見た「自分がネコだと思ってるもの」が「ネコでないもの」である可能性は、少なくとも日常生活の上ではまずあり得ません。しかしこの事は、何故か芸術には当てはまらないのです。

 「ネコ」と「ネコでないもの」を見分けるのは簡単ですが、「芸術」と「芸術でないもの」を見分けるのは難しいのです。何故でしょう?これで分かるのは、現象として「芸術」は「芸術でないもの」と見分け困難なものとして生じる、という事です。

 芸術は、「芸術でないもの」との見分けが難しい、という現象として生じます。これに対しネコは「ネコでないもの」との見分けが簡単な現象として生じます。人間の認識世界には「見分けの難易度」という現象が生じているのです。

 人間の認識世界には「見分けが困難なもの」と「見分けが簡単なもの」が存在します。そして人間はしばしば「見分けが困難なもの」と「見分けが簡単なもの」とを取り違えるのです。

 「見分けが困難なもの」を「見分けが簡単なもの」と取り違えるのは「素人の目」です。だから素人は自信を持って簡単な答えを出し、その結果騙されるのです。

 自分にとって「芸術」と「芸術でないもの」の見分けは困難であっても、客観的には「芸術」と「芸術でないもの」の区別は厳然として存在する、という現象が存在します。

 「自分が芸術だと思ってるもの」という素人の主観とは全く無関係に、「芸術」は「芸術でないもの」と厳然と区別され存在する、という現象が存在します。玄人は、つまり玄人を目指す人は、素人であるところの自分の主観を捨て、現象として実際に存在する「芸術」を知ろうとするのです。


 素人は何故「見分けが困難なもの」を「見分けが簡単なもの」と取り違えるのでしょうか?そもそも素人には「見分けが困難なもの」という概念があるのでしょうか?何故そのように侮るのか?素人は油断しても身を守られる立場にあり、玄人は常に自分で自分の身を守ろうとするのでしょうか?