アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

才能論と予定説

マックス・ヴェーバーが示すカルヴァン派の「予定説」だが、理解のために自分に引き寄せて考えると、例えばアーティストは自分には「才能がある」と、すなわち「選ばれた人間」だと確信するためには実際に優れたと言える作品を作ってそれを証明しなければならない。

 

さらに加えて、アーティストがいかに優れた作品を制作できたとしても、それだけでは「才能がある」とは言えない。なぜなら実際に一発屋で終わるアーティストはごまんといるわけで、自分に才能があると証明するには努力研鑽して優れた作品を「作り続ける」他はない。

 

つまりアーティストは、どんな時にも自分には才能があるか、才能がないか、という二者択一の自己審査と対面している。

 

それは資本主義における経営者も同様で、優れた経営者は常に実績を上げ続けなくてはならず、失敗したらその時点で「経営者失格」の烙印を押されてしまう。

ただし経営者の場合、その人が優れた経営者かそうでないかは客観的な数字で示されるのに対し、アーティストの作品の評価において「世評」は本質的には当てにならない点が異なる。

アーティストの場合、一度でも成功すればそれによって「世評」が獲得でき、その後は自己模倣の駄作を量産しようと世評は徐々に上がって行き、やがては「巨匠」と崇められるようになる。そしてこれはヴェーバーが述べた「個々の功績を徐々に積み上げる」というカソリックのあり方に通じている。

しかし本質的にアーティストの価値と世評とは「無関係」で、だからアーティストは自分で自分の価値を審査しなければならず、そのためにも自分自身の「眼」を鍛え上げ続ける必要がある。大袈裟なようなが、少なくとも葛飾北斎はそのような人であり、そのあり方は世俗を離れた宗教者に近くなる。

それはヴェーバー自身も同じであって、学問としての厳しい自己審査があるからこそ『プロテスタンティズムの倫理と近代資本主義の精神』のような回りくどい文体でしかも注釈だらけの読みにくい論文になるわけで、「世評」を気にしてたら絶対このようにはなり得ないのである。

予定説は「才能論」と結び付けて考えることができる。つまり予定説においてはその人が「救われる者」であるかどうかは神様がお決めになったことなので人間には知り得ず、同様にその人の才能がどれだけ優れているかも容易に見極める事は出来ない。

なぜなら優れた能力とは、優れた能力を持った者のみが認識しうるものであり、なんの能力も持たない凡庸な人間には理解しようもない。ところが「世評」はそのような本質的な判断を抜きにして安直に特定の人物を「才能がある」として持ち上げる。

それこそが権威主義であり、だからカソリックに対して宗教改革を必要とした人々が現れた。さらに言えばマルクス科学的社会主義唯物論は「科学」を権威とした権威主義であり、それによって人々を扇動し得たのだと言うことができる。