アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

神と認識

芸術とは何であって、どの作品が真の芸術で、との作品が偽の芸術なのか?それはまず全知全能の神が知っているのであり、人間が芸術を認識するとは、人間の認識を少しでも神の認識に近づけること、つまりは客観に主観を少しでも近づけることである。

全知全能の神は何を知っているのかと言えば、人間の知らないことを知っている。人間は何を知らないのかと言えば、人間は何も知らずに産まれて来るのである。従って芸術とは何であり、何が芸術で何が芸術でないかも知らずに産まれてくる。それは全知全能の神が知っているのである。

人間が知ろうとしていることは、全知全能の神が知っていることであり、全知全能の神が知っていることを、人間は知ろうとしているのであり、それ以外に人間は何も知り得ない。

私一人がすべての被造物を、私の内で一となるよう、その精神的有から私の知性の内へと運び入れるのである。#エックハルト

すべての被造物は、私の中で「言語」によって一となる。例えば猫という被造物は「猫」という言語によって私の中で一つになる。しかし芸術という被造物は「芸術」という言語によって容易には一つにならない。芸術は多様性でその見た目に人は惑わされるが、芸術は被造物である以上、本質的に「一」である

像より離れ、形なき有と合一しなさい。神の与える霊的な慰めは純粋なものであって、感覚的慰めを退ける人にのみ神は自らを与えようとするからである。#エックハルト

 

完全な認識と類似物

観察と言うのは、自分と対象物との関係を測る事ではなく、対象物と対象物との関係を測る事である。例えば昆虫の観察をする場合、自分はチョウは好きだがガは嫌いだというふうに、自分と対象物との関係を測っても、それを自然観察とは言わない。

食べ物の観察をしようとする場合にも、対象となる食べ物を、自分の好き嫌いで判別してしまっては、観察にならない。食べ物を観察する場合にも、自分と食べ物の関係を測るのではなく、食べ物と食べ物の関係性を観察しなければならない。

食べ物と食べ物は、一体どんな関係にあるのか?と言えば一つには優劣の関係がある。人は単に腹を膨らませることを超えて、より優れた食べ物を作ろうと努力してきたのである。その意味での優劣の関係が、食べ物と食べ物の間にはある。

何が優れた食べ物で、何が優れていない食べ物なのか?素朴に考えれば、自分が食べて美味しいと思えばそれは優れた食べ物であり、自分が食べてまずいと思えば優れていない食べ物であり、それは疑う余地もなくはっきりしているように思われる。

しかし食べ物の優劣を自分の好みで判断する事は、食べ物と自分の関係を関係を測ったに過ぎず、食べ物の食べ物との関係を測ったとは言えない。

整理すると、物事の優劣を判断する基準は二つある。一つは自分の好みによる主観的基準で、もう一つは自分の主観とは一切無関係の客観的基準である。

主観的基準とは何かと言えば、それは客観的基準の類似物なのである。主観と客観は全く無関係ではなく、類似物と本物の関係にある。神が自らの姿に似せて人を作ったように、人は客観に似せて主観的判断を作り出す。

エックハルトが説くように、人は神ではなく神の類似物に過ぎないが、それだけにより人が神に近づく事はできる。同じように主観は客観ではなく客観の類似物に過ぎないが、それだけにより主観を客観に近づける事はできる。そしてこの場合エックハルトは「離脱」を説くのである。

神とは「完全な認識」であり、神の姿に似せて作られた人の認識は「完全な認識の類似物」なのである。神の完全な認識とは即ち客観であり、客観の類似物が人の認識であるところの主観なのである。

人は「客観的に見て正しいかどうか」を気安く口にするが、それは「神の認識に照らして正しいかどうか」を本質的に問うているのである。そして人は神ではない以上「神の認識に照らして正しいかどうか」を判断することができない。

人間には真の意味での客観的判断はできず、人間にできるのは主観的な判断を客観的判断と錯誤する事か、あるいは主観的判断を客観的判断に近づける努力をする事だけであり、どちらも「主観は客観の類似物である」と言うことに由来している。

あらゆる主観的判断から「離脱」する事によって、主観的判断を客観的判断により似せることができる。

フッサール現象学的還元とは主観的判断の離脱であり、だから判断が現象に還元される。

人が「存在」に囚われるのは、その人が自分の好みという主観に囚われているのである。なぜなら人にとって存在の存在感が増すのは、その人の好みや嫌悪といった主観が増大することの反映なのである。存在に囚われない人は、自身の主観に囚われず、離脱しており、ことごとくが無に帰している。

エックハルトは無の中に最大の受容性がある、と説いている。そして無の反対の有すなわち「存在」は、自分の主観的好みによって生じる。つまり主観的好みにより生じた存在が、認識の妨げになる。

主観的好みにより生じる存在は「好き」「嫌い」「無関心」の三種があり、それぞれの存在が認識の妨げになる。存在の「存在」を認めない人は、その人の認識を妨げるものが「無い」のである。

結局、自尊心が認識を妨げるのである。認識とはただ他者を尊敬することであり、他者を尊敬すること以外に認識はありえない。なぜなら言語を含むあらゆる事物は自分が存在する以前から存在し、あらゆる事物は先人の尊敬すべき努力によって生み出され、他者の尊敬すべき努力により維持発展しているから。

白戸三平『忍者武芸帳』によると、剣の達人になればなるほど相手の強さが認識できる。つまり相手への尊敬が認識となっており、自身の認識力を高めるために剣の腕を磨くのである。逆に自尊心に満たされた未熟者ほど強い相手に挑みかかり簡単に倒される。

自尊心とは動物的不安衝動を解消するための幻想に過ぎず、それは理性的でもなければ、本来の自然性にも反している。もし原始時代の人間が自尊心に満たされたなら、現実が認識できず天敵に襲われ命を落としてしまうだろう。天敵から守られた文明の環境にあって人は自尊心に満たされ命を落とさずに済むのである。

原始時代の人間を含む野生動物にとって認識は死活問題で、獲物を認識するにしろ、天敵を認識するにしろ、認識により実際的満足を得るのだが、自尊心は幻想的な認識によって満足を得るのである。

明けましておめでとうございます!

明けましておめでとうございます!

今、ふと気づけば2017年の元旦という過去に戻っていて非常に驚いているのですが、今からなら後悔したことを何だってやり直し出来るし、何だって取り戻すことができるし、何でもまだ間に合います!これは実にすごいことです!!!

認識と喧伝

本来、認識は人間にとって非常に難しいのであるが、現代ではそれがあたかも簡単なことであるかのように、喧伝されている。岡本太郎『今日の芸術』も、芸術とは何か?何が芸術なのか?という認識は実に簡単であると喧伝しているのである。

現代人は「認識は簡単だ」と言う喧伝にますます慣らされて行き、一方で社会やテクノロジーは複雑化し、認識そのものはますます困難になって行く。

まどわし神

花輪和一の漫画に『まどわし神』という作品に、人間の認識力を惑わせ、道に迷わせて食糧をかすめ取る、架空の寄生動物が登場するのだが、実際に多くの人が私を含めてこの「まどわし神」に取り憑かれている。

「芸術」を認識するのは本来は非常に難しいのであるが、それがあたかも誰でも簡単に認識できるかのように錯誤させるのが「まどわし神」の作用なのであり、私もそのように惑わされていたのである。

「芸術」を認識するのが難しいのは、一つにはそれが広範な表現分野に渡って適応される概念で、絵画、彫刻、版画、写真、詩、文学、舞踏、などに「芸術」の概念が適応されるからであり、しかも絵画や彫刻その他の表現であってもそれが必ずしも芸術であるとは限らないからである。

実に広範な表現分野の表現物が「芸術」に置換可能なのであるが、しかしその置換するところの「芸術」を理解するのは非常に困難なのである。もう一つには芸術は「高み」を目指したものであって、これに対し人間の認識はデフォルトで低位に設定されており「高み」を認識するのが困難なのである。

だから「芸術」を認識するには出来るだけ多くの芸術作品の「実物」を観ることが必要で、しかも「高み」を目指して理解しようとしなければならず、それには相応の時間と手間が掛かるのであり、非常な困難さが伴うのである。

そもそも芸術に限らず「認識」という事自体が非常に難しいことなのだが、多くの人はその事すら認識していない。「認識」の基本を、生物としての人間に遡って考えると、それは「食物」の認識と言うことになるのだが、何が食物で何が食物でないのかの認識は、実は非常に難しいのである。

例えば、大自然の山野中に放り出されたとして、その環境の中で何が自分にとって必要な食べものなのかを認識するのは、非常に難しい。一般に、木の実が熟した赤色は動物に対し食物であるというサインだとされるが、多くは鳥に対してのサインであり、人が口にすると渋くて食べられない実が大半なのである。

多くの人が、何が食物なのか?の認識が簡単だと思っているのは、現代人が口にする食物の大半が店で売られていて「食品売り場で食品として売られているからこれは食物なのだ」と認識しているに過ぎない。つまり「これは食物です」と示されたものを「食物」だとして認識しているに過ぎない。

人間が「本能が壊れた動物」なのだとすれば、何が食物なのかの判別能力も本能的に備わっていない。そこで原始社会では何が食物で何が危険な毒なのかが、先祖代々言い伝えられている。つまり人間は、何が食物なのかを他人から教えられなければ認識できず、だから人間にとって食物の認識は難しいのである。

一方で人間には、味や匂いで何が食物で何が食物でないかを認識する能力が、本能的に備わっている。端的に言えば、腐って食べられないものは「臭い匂い」として関知され、それは食物ではないと認識することができる。

例え腐っていなくとも、紙や、プラスティックや、土などが食物でないことは、それらを実際に口に入れた瞬間に認識することができる。その意味で、何が食物で何が食物でないかの認識は、簡単にできると言える。

一方で現代社会では、コストを抑えた添加物たっぷりのいわゆる「偽食品」が数多く出回っているが、この場合は、これを食べただけで偽物だと認識できる人と、食べただけでは偽物と認識できずに騙される人とがいるのである。

端的に言えば、市販品の「偽食品」ばかり食べて育った人は、その味が当たり前になり「偽食品」を偽物だと認識することができない。つまりさまざまな「偽物」が数多く出回っている現代において、本物と偽物の判別をすることが、つまりは「認識」それ自体がますます難しくなっていると言える。

言語と物

「言語」と「言語でないもの」が区別されないのであれば、「物」とは即ち「言語」であり、「物」は「言語」の特徴を備えていなければならない。

人間を含む生物の身体も「物」であるが、生物の身体は「言語」であると以前に直感したことがあったのだが、「言語」と「言語でないもの」が区別されないのであれば、その直感は正しかったことになる。

なぜ人間だけが「言語」を使うことが出来るのかと言えば、実は人間以外の動物も「言語」を使うからであり、そもそも生物の存在自体が言語であり、物の存在自体が言語だからである。

あらゆる生物は「エサ」と「エサでないもの」を区別して認識する。即ち少なくとも「エサ」となるものを、その個別性を超えた「類」として認識する。あらゆる物は唯一無二の個別として存在するが、それと同時に「類」として「同じもの」が多数存在する。

物が「個別」ではなく「類」として存在するから、生物にとっての「エサ」が存在しうる。つまりあらゆる生物は個体の唯一性、個別性を超えた「類」として存在するが、それに先立ってエサとなる物が「類」として存在しているのである。

物質が元素によって構成されていると言うことは、物質の存在は本質的に個別性を超えた「類」であることを示している。

本来的にあらゆる「物」は唯一無二の個別性であるにも関わらず、人間の言語機能はそれらを無理矢理に類型化して認識するのではなく、あらゆる物は元素の構成物であり、あらゆる生物は遺伝子の生成物であり、個別を超えた類的存在であり、だからこそ言語と対応しているのであり、それ自体が言語なのである。

「言語」は「物」に対応しているのではなく、物は即ち言語であり、「物=言語」が「物=言語」に対応しているのである。例えば「猫という物」は「猫という類」として「虎」と対応しているし、「動物という類」として「ナメクジ」と対応している。

科学的な「分類学」が成立するのは、分類学が扱うさまざまな物それ自体が言語だからである。「言語ではないもの」に「言語」を当てはめて分類学を成立させているのではなく、物それ自体が即ち言語であるから、そのような物としての言語に、分類学としての言語を対応させることが出来るのである。

言葉というものは、例えばこのテキストの文字の形が記号表現となり意味を形成する。同じ言葉を声に出して読めば、その声の音が記号表現となり意味を形成する。すると例えば道ばたの石ころは、記号表現としてどのような意味を形成するのか?

 

アフォーダンス理論によると、知性は生物の側にではなく、環境に存在する。と言うことは、意味はそのものから意味を読み取る生物の側にあるのではなく、物そのものに意味が含まれている。石ころはそれ自体が記号表現として、石ころとしての意味内容を表しているのである。

アフォーダンス理論によると、大地はそれ自体があらゆる生物にとって意味があり、大地という物そのものに意味が含まれている。しかし生物が存在しない月面であるとか、生物が生じる以前の地球の大地に意味が存在すると言えるのか?

しかし人類が月に降り立ったとき、月の大地は地球の大地と同じように意味を生じ、そのお陰で人間は月面に立ち、歩くことが出来たのである。即ち「意味」というもの自体が、生物の発生に先立って宇宙そのものに存在しているのである。

あらゆる物が精神現象なのであれば、月面の大地も精神現象として存在する。そして改めて確認してみるならば、月面の大地は私の精神世界に精神現象として確かに現象している。

キルケゴールによれば人間とは精神であり、精神とは関係への関係であり、従って「月面の大地」という精神現象も、関係への関係として私の精神世界に現象している。

認識可能な全てが精神現象であるなら、全ての精神現象は言語なのである。全てが言語でないとしたら、どのようにして言語が他のものに置き換え可能なのか?「他のもの」もまた言語であるからこそ、それが言語に置き換えられるのである。

シマウマは「草」を「食物」に置き換え、ライオンは「シマウマ」を「食物」に置き換え、そのような言語としての「置換」を行なっている。人間はライオンを「ライオン」という狭義の言語に置換し、食物を「食物」という狭義の言語に置換するが、それは生物が普遍的に行う「置換」と本質的に同じである。

あらゆる生物は代謝しているのであり、代謝とは置換であり、置換とは言語活動なのである。言語の「意味」とは「置換」であり、「意味」の正体とは「置換」なのである。

例えば「リンゴ」が「食物」に置換できるなら、そのリンゴは食物としての意味を持つ。ある作品が「芸術」に置換できるならその作品は芸術としての意味を持ち、その作品が「芸術」と置換できないないのであれば、プラスチックでできたリンゴが「食物」でないように、その作品は芸術ではないのである。

一つの言語は様々な言語に置換可能で、そのような言語ネットワークによって言語活動が生じている。例えばリンゴの実は動物の食物に置換され、実に含まれる種子は新たなリンゴの木へと置換される。木から落ちるリンゴの実に当たって小動物が死ねば、リンゴの実は災難に置換される。

言語の意味が置換であるなら貨幣とは言語に他ならず、生物が養分を摂取すること自体も置換であり言語活動に他ならない。

生物が言語だとして、生物発生以前の無機物は言語なのか?と言えば、それらも言語なのであり、そうでなければ言語としての生物は生じ得ず、人間が使う狭義の言語も生じ得ない。何もないところから何も生じ得ず、「はじめに言葉があった」のである。

無機物ので存在はそれ自体がどういうわけか「法則」によって支配され、あらゆる無機物は限られた種類の元素によって構成され、「言語」としての特徴を備えている。しかしこれは順番が逆であり、物体の法則が人間の言語の法則に置換されているのであり、言語の法則は物体の法則に起源を持っている。

あらゆる物理現象は「普遍の法則」として現象している。普遍の法則としての物理現象がなければ、人間が使う言語の法則も生じ得ず、人間の言語の法則の起源は、物理現象の普遍の法則にあるのである。

概念の抽象度が上がるほど理解するのは難しい。理解とは置換可能ということであり、概念の抽象度が上がるほど置換が難しいのである。

例えばモンシロチョウの幼虫はアブラナ科植物に含まれる「辛子油配糖体」という化学物質を食物として認識=置換する。多種多様なものを食べる雑食性の動物ほど、「食物」の概念の抽象度が上がり、何が食物として認識=置換できるかの判断が難しくなる。

言語には「狭義の言語」と「広義の言語」があるが、その区別は便宜的なものでしかなく「はじめに言葉があった」と言う新約聖書の記述通りに「全て」は原初の言語より分岐発展した言語として現象している。

言語と区別

「自然な感覚」に於いて「言葉」と「物」は区別されるが、現象学的還元に於いて「言葉」と「物」は共に精神現象として区別されない。また、自然な感覚に於いて現実と空想は区別されるが、現象学的還元に於いては現実と空想は共に精神現象として区別されない。

物は目の前の現実世界に実在するのではなく、物は目の前の現実世界に実在するように疑いもなく感じられるような、精神現象として存在する。物の存在は疑い得ないが、物の存在は「物の存在は疑い得ない」と言う精神現象として疑い得ない。

物は物特有の精神現象として存在する。物については、物の精神現象としての特有性に惑わされることなく、それが精神現象であることを見抜かねばならない。

物の精神現象としての特性の一つは、物があたかも精神現象とは異なる存在であるかのように区別されて認識される事であり、その「区別」に惑わされてはならないのである。つまり物はその他の精神現象と区別されずに、分け隔て無く精神現象として認識されなければならない。

自然的感覚に於いては、精神現象は現実的存在物から明瞭に区別されている。つまり現実とは異なる空想や、物に還元できない感情や、言語の組み立てによる概念世界が精神現象だとされる。

あるいは「言葉と物」の関係を述べる場合、その物が何であるかを指し示す「言葉」は精神現象であり、「物」そのものは精神現象の外部の現実世界の存在であると認識される。しかしこの認識は「素朴な実在論」であり、実在と非実在という「区別」こそが錯誤であり錯覚なのである。

人間は錯覚の中を生きている。例えば人間は自分があたかも「自分」であるように錯覚し、同時に自分が「人間」であるように錯覚している。しかし真実は、自分は「自分」ではないし、自分は「人間」でもないのである。すると自分は何者なのか?少なくとも「素朴な結論」の全ては錯覚に過ぎない。

感覚器官を持つあらゆる生物は「素朴な結論」の世界を生きているのであり、それは人間も例外ではない。精神現象から「物」や「現実」が区別されるのは「素朴な結論」であり、それは動物としての人間に特有の認識の形式だと言うことが出来る。

西田幾多郎の言う「純粋経験」とは、精神世界を現実世界とを区別する、その「区別」のない認識を指している。フッサール現象学的還元に従うなら、精神現象が物理現象と区別されることなく、物質や空間などを含む全てが等価に精神現象として、総合的に認識される。

つまり素朴な認識は、ありとあらゆる「区別」に基づいているのであり、それによって総合性を欠いていおり、断定的で断片的なのである。

「区別がない」のだとすれば、実在する「物」に対し非実在的な「言葉」を当てはめることによって「認識」という精神現象が生じるのではなく、「物」そのものが「言葉」なのであり、「物即言葉」なのであり、このことをよく見極めることによって「純粋経験」や「現象学的還元」が成立するのである。

「区別がない」と言うことは、即ち純粋経験としての総合性に於いては区別とは異なる区別が存在するのである。

ソシュールの「言語の恣意性」とはまさにその事で、「言語」と「言語でないもの」を区別するのではなく、全てを「現象」に還元したところで、「言語」と「言語でないもの」を区別するのとは全く異なる「区別」が生じるのである。

つまりソシュールの「言語の恣意性」は、「言語」と「言語でないもの」の区別とは異なる区別、すなわち「言語」と「言語でないもの」を共に「言語」として区別しないことによって生じる新たな「区別」が存在することを示している。