アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

非人称と無意識

今頃になってはたと気づいたのだが、私が主張していた「非人称芸術」はフロイトの無意識をきちんと知らないまま、そのように主張していたのだが、そうすると実は私はずいぶん遠回りしながら結局は無意識の問題を追っていたのである。

 

フロイトの著者に『機智について』というものがあって私も読んだのだが、機智とは原題でwitであり日本語でも「ウイットに富んだ」などの言い方がされるが、ある種の冗談や笑いが無意識と関係していることをフロイトは明らかにしたのである。

 

そしてフロイトは、無意識はそもそも集合無意識なのであり、だから(ユングのように)「集合無意識」という用語を使う必要はないと『モーセ一神教』で述べている。

 

そう考えると「都市」とは人間の意識によって生み出されたものではあるが、一方では人々の集合無意識の産物だと見ることもできる。

 

そのような集合無意識の産物として「超芸術トマソン」のようなものが現れ、人々にある種の「笑い」をもたらす。

 

その笑いは「思いがけないもの」に対する笑いであり、人は使い古され分かりきったダジャレには白けるしかないが、無意識がもたらす「思いがけないもの」に対してはつい笑ってしまうのである。

 

私もそうだったのであるが、「無意識」という言葉は多くの人に知られている反面、ほとんどの人が誤解している。無意識とはまず「個人の無意識」ではなく、先に述べたように本質的に「集合無意識」であり、これによって全ての人間の精神は境界があやふやなまま繋がっている。

 

それはラカンソシュール言語学フロイト精神分析を結び付けて指摘したように、人間の意識や無意識は「言語」によって出来ているのであり、言語とは「個人の言語」ではあり得ず、誰もが「他人から教わった言語」を使っているからである。

 

集合無意識には世界を動かす力がある。というより、人間が生み出すあらゆる人工物は「言語」による思考の産物であり、つまりそれは言語によって構成された集合無意識の産物であり、人類が原始社会から「文明」に移って以後は、集合無意識のうねりが世界のうねりとなるのである。

だから美術とは何か?の問題も、人類の集合無意識の問題として考えなければならない。だから日本の「もの派」のように芸術を「もの」に還元して捉えることはまちがっている。それはマルクス唯物論の、人類の営みを物理法則に還元するトンデモ理論を引きずった結果に過ぎない。

他人と肉親

イエス・キリストの凄いところの一つは、母親との直接的な血縁関係よりも、「人類皆兄弟」という広範な視点による血縁関係を優先したことにある。イエス・キリストにとって母マリアは、大勢いる自分の兄妹たちの一人に過ぎない。 

他人が「自分ではない他の人」の意味であるなら、自分の親もまた他人である。親と自分は血(遺伝子)を共有しているから他人ではない、とする考えもあるが、人は人である以上、誰もが互いに血(遺伝子)を共有している。

その証拠に、人はどれだけ人種が違っていようと、国籍や文化的背景や言語が異なっていようとも、ある部分では互いに「似ている」のである。

ところで自分はどんな他人とも気が合うわけではなく、その人と気が合うか合わないかは偶然の作用による。だから自分の親と気が合うか合わないかも、偶然の作用による。たまたま自分と親と気が合わなかった場合、そのこと自体で悩むことなく、キリストが言うように多くの隣人と同じように愛せば良い。

動物と想像界

 この鳥(駒鳥)が赤い胸羽を示すことは縄張りの主張であり、この赤い胸羽を見せるだけで、相手に或る行動を引き起こすことが観察されています。赤という色は、この場合、想像的機能をもっているわけです。

この想像的機能が、了解関連という次元へと翻訳されてしまうと、この赤い色が、相手がそれを見ると、相手自身の中に敵意や怒りという感情的、直接的なものを引き起こしたのだろうということになってしまうのです。

この想像的機能が、了解関連という次元へと翻訳されてしまうと、この赤い色が、相手がそれを見ると、相手自身の中に敵意や怒りという感情的、直接的なものを引き起こしたのだろうということになってしまうのです。

#ラカン 精神病(上)p14

 

最後に、赤い車を象徴的な次元で理解できます。すなわち、トランプ遊びの中での赤いマークを理解するように、つまりただ黒と対比されるものとしてだけの意味で理解するように、あらかじめ組織化されているランガージュの中で何かに対比されるものとして理解することができます。

#ラカン 精神病 p14

 

 

私は「天才」と言いました。そうです。フロイトには真の天才があります。しかし、それは直観的洞察にはいささかも負うていません。それは一つのテキストに幾度も同じ記号が現われるのを見て、それは何かを意味しているに違いないと考えることから出発して、その国語のすべての使用法を再構築する言語学者の天才なのです。「空の鳥」を「若い娘」のことだと考えるといったフロイトの並はずれたやり方はそのような現象の一つです。#ラカン 精神病 

 

ラカンが著書『精神病』で珍しく「想像界」「象徴界」の定義を示している。まず翻訳書にあった「駒鳥」は日本のコマドリではなくヨーロッパコマドリの事で、イギリスでは「ロビン」の名で親しまれている。

 

ヨーロッパコマドリは縄張りが強い上に攻撃性が高く、ラカンが記したように胸の赤色がトリガーとなって喧嘩が始まり、時として洗濯物の赤色にも反応して攻撃を仕掛けるそうである。ラカンによるとこの赤色がコマドリに攻撃のイメージを喚起させるのである。

 

ラカンのこの記述に従ってイメージとは何か?を考えると、私がTwitterで度々リツイートしているイヌやネコをはじめとする動物の動画を見て、その動物が何を感じ、何を思っているのかが直感的に理解できるという、そのイメージが「イメージ」なのである。

 

ラカンの記述によると、鳥や獣などの動物は想像界を生きているのだろうか?言語を持たない動物は象徴界を持たない。従って言語を持たない動物は、様々に喚起されるイメージの世界を生きている。しかしギブソンによれば、それはアフォーダンスなのである。

 

 

エックハルト抜き書き

真実にして完全なる神への従順こそ、すべての徳にまさる徳であって、如何なる大事もこの徳なくしては有り得ず、また為され得ないのである。

 

 

真の従順においては、「私はかくかく欲する」または「これこれを欲する」ということがあってはならない。ただ「自分のもの」からの純粋な脱却のみがなければならない。

 

従って人のなし得る最上の祈りは、「私に彼の徳を、或いは、このあり方を与え給え」であってはならず、また「主よ、私にあなた御自身を、永遠の生命を与え給えしであってもならない。

 

ただ、「主よ、あなたが与えんと欲し給うもののみを与え給え、主よ、御意のままを、そして御意のままなる仕方に於て為し給え」と祈らなければならない。この祈りが前の祈りにすぐれていること、天の地に対するが如くである。

 

入門書と魔法使い

板垣恵介イラストが表紙の『史上最強の哲学入門』、読んだこと無いですがちょっと気になって作者の「飲茶」さんのサイトを見てみたのですが、これは哲学者ではなく「魔法使い」で、私も哲学の入門著は昔は何冊も読みましたが、こういうのはどれも魔法を使った金儲けなのですね。

http://noexit.jp/tn/

難解な哲学をわかりやすく解説させる、という事自体が「魔法」なわけです。まともに考えれば、フッサールを理解するにはフッサールの著作を読む以外に方法はない。フッサールが難解なのは当たり前で、その難解さにぶつかっていかなければ、理解への道は開けない。

難解なフッサールを、なぜ易しい言葉でわかりやすく解説した「入門書」に置き換えることが出来るのか?私は竹田青嗣フッサール入門をその昔に読んだのだが、そこでは確かに「魔法」が使われており、この「魔法」によって確かに誰にでもフッサールが理解できるようになっていたのです。

私がかつてよく読んだ、内田樹養老孟司竹田青嗣高田明典、仲正昌樹小室直樹橋爪大三郎、・・・などなど、入門書の書き手は全て「魔法使い」であったのです。みなさん、非常に優秀な魔法使いでいらっしゃいます。岡本太郎赤瀬川原平も、非常に「魔法力」が高くていらっしゃる。人をそのような「魔法力」によってはかることができるのです。


「魔法使い」がその力を振るうことが出来るのは、多くの人が自ら魔法に掛かりたいと思っているから。「魔法」とは一つには科学であり、科学とはある面で魔法の延長にあって地続きなのであり、科学の時代において人びとはますます魔法の力を求めるようになり、その一環に「入門書」があるのです。

哲学や現代思想や宗教の入門書は、実は「科学」の力によって書かれている。なぜなら現代は科学の時代だから、科学の力、魔法の力が有効であるのです。フッサールは科学者の素朴な態度を批判しましたが、そのような科学者的態度によって、フッサールの入門書は書かれるのです。

フッサールが批判していたのは、科学としての心理学ですが、この心理学が魔法を生み出すのであり、魔法とは人間の心理に根差した科学なのです。

この意味での科学は古代ギリシャから存在し、それがソクラテスによって批判されたソフィスト達であり、ソフィストは哲学ではなく心理学という科学を行った、その点でソクラテスソフィスト達を告発し非難したのです。

かつての私は岡本太郎赤瀬川原平の著作を読んでこれに学んだつもりであったが、私はこれらの先人を読み誤って、自分自身が「魔法使い」になるという発想がまったく持てなかった。その意味ではまったくもって間違えていたのです。

現代は、いやそれは近代の問題なのか、それともそれ以前からなのか…?ともかく実際的に現代は「剣と魔法の世界」であり、剣も持たず魔法も使わない哲学者はなんの力も持ち得ない。

いや、古代ギリシアや古代インドの昔から、文明社会とは本質的に「剣と魔法の世界」ではないか?だからそこから離脱したのが哲学者としてのソクラテスであり、ブッダではなかったか?

社会の中で生きていくことこそ魔法を使うことであり、文明社会というもの自体が魔法の力によって成立している。社会の構成員は社会を成立させる魔法に一人一人が加担しており誰もが魔法使いなのである。そしてその中で特に突出した力を持つ魔法使いが存在するのである。

社会は魔法によって支えられているが、魔法は哲学や宗教や芸術などの「魔法ではないもの」によって支えられている。魔法は哲学や芸術や宗教から産み出されるが、哲学や芸術や宗教は決して魔法ではない。

偽物は本物が支えている。本物なくして偽物は有り得ない。偽物の存在に本物は加担しているが、本物はあくまで偽物ではなく、偽物の外部に本物は存在している。

難解な哲学の分かりやすい入門書や解説書がなぜ成立するのか?と言えば、入門書や解説書は「論点ずらし」をしているから分かりやすいのである。

人は難解な哲学を「論点ずらし」によって理解する。例えばソクラテスは「悪法もまた法なり」と言って毒杯を仰いだことで一般に知られているが、実際にプラトンの著作を読むと、そのようなソクラテスの言葉は記されていない。

絵画と情報

絵画における黄金比とは何か?それは光配列であり情報なのである。絵画の画面構成に黄金比による画面分割を加えると、それ自体が光配列となり、作品により豊かな情報が含まれる事となる。

絵画とは『通常の環境の包囲光配列に見出されるのと同種の情報を含んだ、範囲の限られた光配列」を、観察者が、ある観察点において利用できるように処理された面である。#JJギブソン

ギブソンの定義によると、絵画とは「通常の環境に見出される光配列と同種の情報を含む、範囲の限られた面に表された光配列」となる。

例えば光配列としてのリンゴの絵は、環境に見出される光配列としてのリンゴと同種の情報を含んでいる。だからリンゴの絵を見てリンゴが描かれていることが認識できる。

しかしたとえリンゴの写真であっても、そこに表された光配列は、現実に見出されるリンゴの光配列とは「同一」ではない。だから人はリンゴの写真を現実のリンゴと見誤ることは決してない。写真は絵画の延長であり、現実と同種の情報を含むことで機能する。

写真を含む絵画は光配列として、環境に見出される光配列と同様の情報を含んでいるが、同時にその絵画だけに含まれる情報を光配列として有しており、それが作品として成立するための重要な要素となっている。

例えば東京都写真美術館で展示中のアジェのオリジナルプリントに、私は相当魅了されてしまったのだが、そこには失われたかつてのパリの街の姿の克明な情報が含まれているの同時に、それを超えた種類の何らかの情報が含まれていて、その類の情報はアボットをはじめのちの時代の写真家の作品に見出せない

上野の東博で先日まで公開されていた運慶の作品も、父親や息子達を含む他の慶派の作品とは劃然と違うのは、運慶の作品の情報量だけが圧倒的に多いのである。運慶は実に膨大な量の情報をコントロールしながら、光配列としての彫刻作品を作りしている。

運慶以後の慶派の作品は、運慶ならではのリアリズムを一見引き継いでいるようでいて、情報量が圧倒的に少なく、見ても物足りなく感動することがない。

いわゆる技巧だけの人、絵が上手いだけの人の絵は、芸術作品として情報量が足りておらず物足りなく見える。

私が美大受験生だった頃、デッサンは上手いけどその技術を活かして何を描けば良いのか分からない先輩が予備校に残留しているのを見たが、その人は光配列としてデッサン以外の情報を作品に表すことが出来ないでいたのである。

デッサンだけが得意な先輩の話は、写真に即当てはまる問題であって、今やカメラのシャッターを押すだけで誰でも綺麗な写真は撮れる。カメラを持てば誰でも何の訓練も受けずに正確なデッサンが描ける達人になれる。しかし写真は誰にでも撮れても、誰にでも「写真作品」が撮れるわけではない。

誰でも簡単に撮影できる写真によって「作品」や「芸術」が成立し得る根拠はここにある。写真は環境に見出される光配列と同様の光配列を容易に表すが、さらに環境を超えた様々な情報を光配列として写真の中に表すことも出来る。

そもそも写真が下手な素人が撮った写真には、環境に見出される光配列としての情報が、十分に現れていないのである。素人がネットショップに出品した商品写真に魅力が無いのも、そうしたところに原因がある。

写真を撮る人は環境に見出される光配列を注意深く観察し、そこからできる限りの情報を読み取る必要がある。その情報は、自分が過去の経験から得た様々な情報と対応している。より多くの情報を持つものが、より多くの情報を得ることが出来る。

つまり優れた写真家、画家、芸術家は情報強者であり、ダ・ヴィンチ北斎もアジェもそれを体現した人であった。

絵画と光配列

現象学的には「実在」と思える全ては「現象」に過ぎないが、アフォーダンス理論によって詳細に言えば、全ての視覚現象は「光配列」に還元できる。人間は網膜像を見ているのではなく、網膜像を利用して光配列を見ている。

光配列は人間のみならず、視覚機能を持つあらゆる生物が共通して認識する。網膜を持たない昆虫などの生物も、人間と同様に光配列を認識し情報として利用する。

網膜像とは何か?網膜は光配列を認識する器官として人体に備わっているのであり、自然な状態において人間が網膜に投影される「網膜像」そのものを意識することはない。人間が網膜像を意識するのは絵を描くという本来的に不自然で特殊な状況においてのみである。

絵画とは何か?人間が作るあらゆる道具が人間の身体の外部化であるのと同様、絵画とは人間の網膜像の外部化である。しかし例えば石斧が人間の手と違うものであるように、絵画は網膜像とは決して同じだとは言えない。

ギブソンの定義に従うと、絵画とは光配列であり、情報を含んでいる。なぜなら光配列と言うもの自体が情報を含んでいるからである。

私も経験があるのだが、写真スタジオの部屋全体に設置された白一色のホリゾントは、何の配列もない光であり、その前に立つと壁や床の存在が消えて、自分がどのような状態に置かれているのか分からなくなって怖くなる。つまり配列を含まない光には、情報が含まれていないのである。

絵画とは範囲が限られた光配列である。常識的に言えば、これは絵画のフレームである。範囲が限られない絵画はあり得ない。

レンズをスイングする方式のパノラマ写真(iPhoneのパノラマ機能もその一つ)を全方向に拡張すると、球体写真になる(リコー シータはこの方式のデジタル画像を生成する)。つまり球体としての範囲に限定される。

白い画用紙に何も書かなければ、その面には何の光配列が存在しない。しかし点を一つ書くだけで、そこに光配列が生じ、情報が生じる。いやそれ以前に、何も書かれていない白い画用紙は、それが環境に置かれた状況として認識されるならば、光配列一部となって「四角形の面」という情報として認識できる

つまり絵画にとって「画面の形」そのものが光配列をなし「情報」となるのである。だからこそ、絵画にとって「画面の形」は重要な要素となるのである。画家がカンバスの画面比率にこだわる理由もそこにある。

以前の私は「写真」に特有の「四角いフレーム」を否定するために立体の「フォトモ」や、不定形な縁を持つコラージュ写真「ツギラマ」、180°の画角で円形画面の「デジワイド」などの手法で作品制作をしたのだが、現在では「四角いフレーム」を受け入れるようになった。

その「四角いフレーム」の意味を、アフォーダンス理論は明らかにしてくれた。絵画のフレームは必ずしも視覚である必要はないが、そこには不可避的に何らかの情報が発生し作品そのものに関与してしまうのである。