アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

原因と結果

 フロイトラカンを読んでいると、人はしばしば結果と原因とを取り違えている、と言うことがよく分かる。と言うよりも、人間は最も根源的なところで結果と原因とを取り違えいる。なぜなら全ての人間にとって、結果だけが無前提に与えられているからである。

 

先にものがあって、それらのものに人間が勝手に名前を付けたのではない。先に名前があって、その後に名前を付けられたものが発生するのである。

 

例えば人間が先に存在し、その存在に「人間」という名前が付けられたのではない。まず「人間」という名前が存在し、その後に「人間」と名付けられる存在が生じるのである。

 

つまり人間が産まれる以前に「人間」という言葉が存在している。子供を産む前のお母さんは、その子供が産まれる以前から「自分は人間を産む」という事を知っている。つまり人間が産まれる以前に「人間」という言葉が存在している。

 

芸術家が「芸術を作り出そう」と意志したその時点では、作品としての芸術は未だ存在しない。つまり芸術というものの存在よりも先に、「芸術」という言葉が存在する。

 

新約聖書の「初めに言葉があった」という言葉が示すように、人間があるよりも先に「人間」という言葉があり、芸術があるよりも先に「芸術」という言葉があった。

「人間」という言葉が無いのにどうやっても人間は人間を産むことができるのか?同じように「芸術」という言葉が無いのにどうやって芸術を産むことができるのか?

つまり人間とはまず何よりも先にに人間」という言葉であり、芸術とはまず何よりも先に「芸術」という言葉なのである。

 

人間は、目に見えるあらゆるものに対し、次々にその名前を言い当てて行き、そのようにして人間の世界認識は成立する。というこの理論自体が原因と結果とを錯誤しているのである。

 

まず人間の認識は、言語によらない認識、動物に共通のアフォーダンスによる認識に多く依拠している。つまり、言葉とそれが指し示すものの順序は、場合によって異なっているのである。

 

人はあらゆるアフォーダンスに名前を付ける。例えば「近い」「遠い」と言うような名前である。いやこの場合のアフォーダンスはあらゆる動物が共通して利用する動物的アフォーダンスである。動物的アフォーダンスは言語に先立って存在する。

 

…いやしかし、これも結果と原因を取り違えている可能性がある。少なくともあらゆる人工物においては、はじめに言語が存在する。

 

もっとシンプルに考えれば、人間の認識世界は、言語による認識世界と、言語によらない認識世界とが重なっている。言語によらない認識世界は、人間や昆虫、単細胞動物などを含むあらゆる動物に共通している。

 

はじめに言語があり、その後に言語によって名付けられたものが生じる。ところがあらゆる人間にとっては結果が先に与えられているのであり、始まりとしての言語は隠されてしまっている。

人類史が700万年と言われているのに対し、人間の寿命はせいぜい百年に過ぎない。つまりあらゆる人間が世界に遅れて参入しているのであり、だからあらゆる人にとって結果だけが先に与えられ、それに先立つ言語はことごとく隠されている。

 

結果は原因を覆い隠す。例えば人が作る機械は機構という原因を覆い隠している。人体をはじめとする動物の身体も、外見という結果によってあらゆる原因が覆い隠されている。芸術作品も、結果としての完成された芸術作品によって、あらゆる原因が隠されている。

 

結果によって隠された様々な原因の最深部に、原因としての言語が隠されている。そして、ものの名前が一種類でないように、原因のしての言語も一語だけではないのである。

無意識の主体

posted at 03:38:52

彦坂尚嘉先生からラカンの『エクリ』を借りて冒頭だけ読んだら、ちんぷんかんぷんで取りつく島もない…と言うほど分からなくもない!もちろん「分かる」とは言い切れないですが。

ラカンは『エクリ』冒頭で、「シニフィアン連鎖の自己主張」および「無意識の主体」という言葉を使っている。意識の主体はこの「私」だとして、無意識の主体とは?…それはラカンが言うように中心から離れた場所にある。

 

ところで絵画の遠近法に基づけば、中心(私)から周辺部に離れるに従って見えるものは小さくなって行く。しかし「無意識の主体」といった場合、それは中心(意識の主体としての私)から周辺部に離れるに従って逆遠近法的に大きくなってゆく。まるで懐中電灯で照らされた影のように離れるほど大きくなる

 

それは意識とは「私の意識」であるのに対し、無意識とは集合無意識であり、だから「無意識の主体」は「私」よりも大きく、「私」から離れれば離れるほど「無意識の主体」は巨大化してゆくのであり、究極的には「神」になる。

非人称と無意識

今頃になってはたと気づいたのだが、私が主張していた「非人称芸術」はフロイトの無意識をきちんと知らないまま、そのように主張していたのだが、そうすると実は私はずいぶん遠回りしながら結局は無意識の問題を追っていたのである。

 

フロイトの著者に『機智について』というものがあって私も読んだのだが、機智とは原題でwitであり日本語でも「ウイットに富んだ」などの言い方がされるが、ある種の冗談や笑いが無意識と関係していることをフロイトは明らかにしたのである。

 

そしてフロイトは、無意識はそもそも集合無意識なのであり、だから(ユングのように)「集合無意識」という用語を使う必要はないと『モーセ一神教』で述べている。

 

そう考えると「都市」とは人間の意識によって生み出されたものではあるが、一方では人々の集合無意識の産物だと見ることもできる。

 

そのような集合無意識の産物として「超芸術トマソン」のようなものが現れ、人々にある種の「笑い」をもたらす。

 

その笑いは「思いがけないもの」に対する笑いであり、人は使い古され分かりきったダジャレには白けるしかないが、無意識がもたらす「思いがけないもの」に対してはつい笑ってしまうのである。

 

私もそうだったのであるが、「無意識」という言葉は多くの人に知られている反面、ほとんどの人が誤解している。無意識とはまず「個人の無意識」ではなく、先に述べたように本質的に「集合無意識」であり、これによって全ての人間の精神は境界があやふやなまま繋がっている。

 

それはラカンソシュール言語学フロイト精神分析を結び付けて指摘したように、人間の意識や無意識は「言語」によって出来ているのであり、言語とは「個人の言語」ではあり得ず、誰もが「他人から教わった言語」を使っているからである。

 

集合無意識には世界を動かす力がある。というより、人間が生み出すあらゆる人工物は「言語」による思考の産物であり、つまりそれは言語によって構成された集合無意識の産物であり、人類が原始社会から「文明」に移って以後は、集合無意識のうねりが世界のうねりとなるのである。

だから美術とは何か?の問題も、人類の集合無意識の問題として考えなければならない。だから日本の「もの派」のように芸術を「もの」に還元して捉えることはまちがっている。それはマルクス唯物論の、人類の営みを物理法則に還元するトンデモ理論を引きずった結果に過ぎない。

他人と肉親

イエス・キリストの凄いところの一つは、母親との直接的な血縁関係よりも、「人類皆兄弟」という広範な視点による血縁関係を優先したことにある。イエス・キリストにとって母マリアは、大勢いる自分の兄妹たちの一人に過ぎない。 

他人が「自分ではない他の人」の意味であるなら、自分の親もまた他人である。親と自分は血(遺伝子)を共有しているから他人ではない、とする考えもあるが、人は人である以上、誰もが互いに血(遺伝子)を共有している。

その証拠に、人はどれだけ人種が違っていようと、国籍や文化的背景や言語が異なっていようとも、ある部分では互いに「似ている」のである。

ところで自分はどんな他人とも気が合うわけではなく、その人と気が合うか合わないかは偶然の作用による。だから自分の親と気が合うか合わないかも、偶然の作用による。たまたま自分と親と気が合わなかった場合、そのこと自体で悩むことなく、キリストが言うように多くの隣人と同じように愛せば良い。

動物と想像界

 この鳥(駒鳥)が赤い胸羽を示すことは縄張りの主張であり、この赤い胸羽を見せるだけで、相手に或る行動を引き起こすことが観察されています。赤という色は、この場合、想像的機能をもっているわけです。

この想像的機能が、了解関連という次元へと翻訳されてしまうと、この赤い色が、相手がそれを見ると、相手自身の中に敵意や怒りという感情的、直接的なものを引き起こしたのだろうということになってしまうのです。

この想像的機能が、了解関連という次元へと翻訳されてしまうと、この赤い色が、相手がそれを見ると、相手自身の中に敵意や怒りという感情的、直接的なものを引き起こしたのだろうということになってしまうのです。

#ラカン 精神病(上)p14

 

最後に、赤い車を象徴的な次元で理解できます。すなわち、トランプ遊びの中での赤いマークを理解するように、つまりただ黒と対比されるものとしてだけの意味で理解するように、あらかじめ組織化されているランガージュの中で何かに対比されるものとして理解することができます。

#ラカン 精神病 p14

 

 

私は「天才」と言いました。そうです。フロイトには真の天才があります。しかし、それは直観的洞察にはいささかも負うていません。それは一つのテキストに幾度も同じ記号が現われるのを見て、それは何かを意味しているに違いないと考えることから出発して、その国語のすべての使用法を再構築する言語学者の天才なのです。「空の鳥」を「若い娘」のことだと考えるといったフロイトの並はずれたやり方はそのような現象の一つです。#ラカン 精神病 

 

ラカンが著書『精神病』で珍しく「想像界」「象徴界」の定義を示している。まず翻訳書にあった「駒鳥」は日本のコマドリではなくヨーロッパコマドリの事で、イギリスでは「ロビン」の名で親しまれている。

 

ヨーロッパコマドリは縄張りが強い上に攻撃性が高く、ラカンが記したように胸の赤色がトリガーとなって喧嘩が始まり、時として洗濯物の赤色にも反応して攻撃を仕掛けるそうである。ラカンによるとこの赤色がコマドリに攻撃のイメージを喚起させるのである。

 

ラカンのこの記述に従ってイメージとは何か?を考えると、私がTwitterで度々リツイートしているイヌやネコをはじめとする動物の動画を見て、その動物が何を感じ、何を思っているのかが直感的に理解できるという、そのイメージが「イメージ」なのである。

 

ラカンの記述によると、鳥や獣などの動物は想像界を生きているのだろうか?言語を持たない動物は象徴界を持たない。従って言語を持たない動物は、様々に喚起されるイメージの世界を生きている。しかしギブソンによれば、それはアフォーダンスなのである。

 

 

エックハルト抜き書き

真実にして完全なる神への従順こそ、すべての徳にまさる徳であって、如何なる大事もこの徳なくしては有り得ず、また為され得ないのである。

 

 

真の従順においては、「私はかくかく欲する」または「これこれを欲する」ということがあってはならない。ただ「自分のもの」からの純粋な脱却のみがなければならない。

 

従って人のなし得る最上の祈りは、「私に彼の徳を、或いは、このあり方を与え給え」であってはならず、また「主よ、私にあなた御自身を、永遠の生命を与え給えしであってもならない。

 

ただ、「主よ、あなたが与えんと欲し給うもののみを与え給え、主よ、御意のままを、そして御意のままなる仕方に於て為し給え」と祈らなければならない。この祈りが前の祈りにすぐれていること、天の地に対するが如くである。

 

入門書と魔法使い

板垣恵介イラストが表紙の『史上最強の哲学入門』、読んだこと無いですがちょっと気になって作者の「飲茶」さんのサイトを見てみたのですが、これは哲学者ではなく「魔法使い」で、私も哲学の入門著は昔は何冊も読みましたが、こういうのはどれも魔法を使った金儲けなのですね。

http://noexit.jp/tn/

難解な哲学をわかりやすく解説させる、という事自体が「魔法」なわけです。まともに考えれば、フッサールを理解するにはフッサールの著作を読む以外に方法はない。フッサールが難解なのは当たり前で、その難解さにぶつかっていかなければ、理解への道は開けない。

難解なフッサールを、なぜ易しい言葉でわかりやすく解説した「入門書」に置き換えることが出来るのか?私は竹田青嗣フッサール入門をその昔に読んだのだが、そこでは確かに「魔法」が使われており、この「魔法」によって確かに誰にでもフッサールが理解できるようになっていたのです。

私がかつてよく読んだ、内田樹養老孟司竹田青嗣高田明典、仲正昌樹小室直樹橋爪大三郎、・・・などなど、入門書の書き手は全て「魔法使い」であったのです。みなさん、非常に優秀な魔法使いでいらっしゃいます。岡本太郎赤瀬川原平も、非常に「魔法力」が高くていらっしゃる。人をそのような「魔法力」によってはかることができるのです。


「魔法使い」がその力を振るうことが出来るのは、多くの人が自ら魔法に掛かりたいと思っているから。「魔法」とは一つには科学であり、科学とはある面で魔法の延長にあって地続きなのであり、科学の時代において人びとはますます魔法の力を求めるようになり、その一環に「入門書」があるのです。

哲学や現代思想や宗教の入門書は、実は「科学」の力によって書かれている。なぜなら現代は科学の時代だから、科学の力、魔法の力が有効であるのです。フッサールは科学者の素朴な態度を批判しましたが、そのような科学者的態度によって、フッサールの入門書は書かれるのです。

フッサールが批判していたのは、科学としての心理学ですが、この心理学が魔法を生み出すのであり、魔法とは人間の心理に根差した科学なのです。

この意味での科学は古代ギリシャから存在し、それがソクラテスによって批判されたソフィスト達であり、ソフィストは哲学ではなく心理学という科学を行った、その点でソクラテスソフィスト達を告発し非難したのです。

かつての私は岡本太郎赤瀬川原平の著作を読んでこれに学んだつもりであったが、私はこれらの先人を読み誤って、自分自身が「魔法使い」になるという発想がまったく持てなかった。その意味ではまったくもって間違えていたのです。

現代は、いやそれは近代の問題なのか、それともそれ以前からなのか…?ともかく実際的に現代は「剣と魔法の世界」であり、剣も持たず魔法も使わない哲学者はなんの力も持ち得ない。

いや、古代ギリシアや古代インドの昔から、文明社会とは本質的に「剣と魔法の世界」ではないか?だからそこから離脱したのが哲学者としてのソクラテスであり、ブッダではなかったか?

社会の中で生きていくことこそ魔法を使うことであり、文明社会というもの自体が魔法の力によって成立している。社会の構成員は社会を成立させる魔法に一人一人が加担しており誰もが魔法使いなのである。そしてその中で特に突出した力を持つ魔法使いが存在するのである。

社会は魔法によって支えられているが、魔法は哲学や宗教や芸術などの「魔法ではないもの」によって支えられている。魔法は哲学や芸術や宗教から産み出されるが、哲学や芸術や宗教は決して魔法ではない。

偽物は本物が支えている。本物なくして偽物は有り得ない。偽物の存在に本物は加担しているが、本物はあくまで偽物ではなく、偽物の外部に本物は存在している。

難解な哲学の分かりやすい入門書や解説書がなぜ成立するのか?と言えば、入門書や解説書は「論点ずらし」をしているから分かりやすいのである。

人は難解な哲学を「論点ずらし」によって理解する。例えばソクラテスは「悪法もまた法なり」と言って毒杯を仰いだことで一般に知られているが、実際にプラトンの著作を読むと、そのようなソクラテスの言葉は記されていない。