アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

難解とマジ

阿部謹也『「教養」とは何か』を読んでます。だいぶ前に買ったのを読めないでいたのです。その前著『世間とは何か』も買ったまま読めないでいたのですが、本棚から出てこないのて取り敢えずこっちから読んでますが、なかなか面白いです。

個人・世間・社会が存在します。

明治以降の近代化によって、本音と建前の区別が明瞭になった?

「世間」とは日本では本来山、川、海などの環境をも包含する概念「器世間」だったものが後に人と人との関係のあり方である「有情世間」になったそうです。そんな日本に欧米から「近代」がもたらされたのでした。

●崇高な理念、と言うものを日本人の多くは恐れ、これを避けるか、もしくは形骸化させると、見受けられます。

現代日本においては、崇高な理念のことごとくが形骸化している状況と、崇高な理念そのものを煙たがる心情とがごっちゃになっているのです。

崇高な理念は時とともに形骸化し、形骸化することで誤解され、軽んじられます。芸術もまた同じで、現代日本では芸術を形骸化させる人と、芸術を軽んじる人の、二種類がいるのです。

つまり、マジなものは時とともに形骸化しネタに転じるのです。マジなフリしたネタの人と、マジをウザがるネタの人と、二種類のネタの人だけになるのです。

マジでマジな人はいつの時代にも存在しますが、人々からはネタだと思われるか、ウザがられるか、そのどちらかしかありません。キリストは人々にバカにされた挙句磔になりました。

死刑判決を受けたソクラテスでしたが、実は死刑は半分ネタで、脱獄して国外に逃げてもいいよと弟子を通じて伝えられていたのです。しかしマジをネタとして受け取ってはそもそも哲学者としての自分が成り立たないとして、マジで死刑を受け入れ、毒杯を仰いだのです。哲学は難解である以前にマジなのです

芸術とはマジなものです。しかし愚直とは異なります。勤勉な努力家は往々にして勤勉や努力の中に逃避して、マジにマジな問題から目を背けるのです。

現代日本には、崇高な理念が部分的には確かに存在します。しかし全体として理念が筋として通っておらず、そこが問題です。そして、国家の問題は「入れ子」のように個人の問題として存在するのです。