アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

世界と類推

我々は「世界の存在が前提されている世界」に囚われています。つまり我々は、自身が囚われの身である事を認識できず、それだからこそ「囚われの身」であるのです。

「前提」とは鉄格子です。その先に世界が広がっているかの如く見えますが、その「見えること」だけに満足し、その状況を自由と取り違えるのです。

「現実があって、それを五感によって認識している」という科学的モデルは素朴実在論です。自らの認識世界に生じた「現象」が、そこから逆算した「現実」を生じさせるのです。立体である現実を平面の網膜像に捉えるのではなく、平面の網膜像から立体を「類推」するのです。立体とは類推の産物なのです。

現実は幻ではなく「類推」です。生きている限り、誰もが名探偵です。推理が外れると、そこで命を落とします。

目の前を走り抜けようとする自動車に飛び込むと、轢かれて死にます。これは現実ではなく類推であり推理です。この推理の正しさを証明するには、実際に走る車に向かって飛び込むことです。推理の正しさが証明されると事件は解決し、探偵も役目を終え、即ち死ぬことになるのです。

客体は類推の産物として存在します。世界は、こんな風に世界が存在するのが妥当だ、という具合にその存在が類推されるのです。

知覚は直観の根本様式である。(フッサール)

名推理は直感的になされます。世界の存在も様々な証拠から直感的に推理されます。

身体の運動を伴って、はじめて知覚は成立します。運動する身体はそれ自体が知覚器官の一つなのです。例えば目が開いていても、身体の運動を伴わなければ、世界の存在を推理することが出来ないのです。

証拠がなければどんな推理も出来ません。目だけがあってもそこからは何の証拠も得られず、身体の動きを伴うことで、目によって世界の存在を推理するための、様々な証拠集めが可能になります。

人間の生きる意味はなんでしょう?人間の身体はその全身が、世界が存在する証拠を集めるマシーンであり、その証拠をもとに世界の存在を絶えず推理し続けること、それが人間の生きる意味の一つです。

信じる、とは犯行現場を直接見ずに、幾つかの証拠を元に直感的に推理し、ある人物を犯人だと信じることです。そのように我々は、世界の実在を信じて疑わないのです。

世界が存在することを類推するための証拠は、例えば知覚像そのものではなく、知覚像の変形でもなく、知覚像が変形するその法則か証拠となるのです。つまり、写真像が現実とは異なるものとして推理されるのは、その知覚像の変形の法則が異なると直観されるからです。