アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

生活世界と環世界

多くの人が「芸術とはこういうもの」と確信を持って理解しているのはフッサールの言う「生活世界」においてであり、一方で改めて問われて「芸術がわからない」と答えるのは、生活世界の外部についてわからない、という事を示しています。

ソクラテスの「無知の知」は「生活世界」とその外部の対象化を示していたのでした。生活世界とはユスクキュルが示した生物種に固有の「環世界」に相当するものです。

あらゆる生物は種に固有の認識能力(身体)に応じた環世界の内部に生きますが、本能が壊れたとされる人間は、言語によって自前で各自の環世界=生活世界を構築します。

動物の環世界は原理的にその外部に対して閉じでいますが、その反対に人間の環世界=生活世界はその外部に対して開かれているのです。つまり人間の「動物としての本質」としては一旦構築した生活世界を閉じていたいのですが、人間の本質としてはそれは開かれているのであり、その矛盾を抱えているのです。

無知の知」を説かれると多くの人が怒る事は、それをしたソクラテスやキリストが死刑になったことからも分かりますが、なぜそうなのか?は人間の動物としての本能がそうさせるのです。本能に身を委ねる人に対し、本能の「外部」を指し占めるならば、その人は動物のように怒るのです。