アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

情報と退行

近代の終わり。それが何なのか知らなくとも、我々は近代の終わりを生きているのであり、自分の意思とは関係なく、近代の終わりとして感じ、考え、そして意思するのです。

原始的なもの、反文化的なものに惹かれるのは、自分に固有の感覚ではなく「近代の終わり」という時代が個人をそのように仕向けているのです。

近代が終わったのはなぜか?一つの理由は人間の自由には限界があるからです。人間の自由に限界があるからこそ「ゲーム」が成り立つのです。「自由には限界がある」という共通ルールのもと、どのようなゲームが可能なのか?あるいはどのようなゲームに参加することが有効なのか?を考える必要があります

人は歴史を知らなければ歴史に翻弄されるだけですが、歴史を知ることで歴史を動かせるようになります。そして歴史とは、本来的に歴史を動かした人々の歴史であるのです。歴史が動かなければ、歴史として記述すべきものもないのです。美術家と美術史も同じ関係にあります。

ネットでは「人間のように振る舞う動物」の様々な映像が見られますが、野生動物も「人間」に触れることで「人間性」に感染し「人間的」になるのです。同じ意味で人間も「人間」に触れることで初めて「人間」になるのであり、その意味で「出会い」は非常に重要だと言えるのです。

あらゆる情報が指し示しているのは退行願望なのでしょうか?確かに情報そのものが目的化するならば、それが指し示すものは退行でしかありません。例えば宝のありかを示した地図そのものが目的化されると、宝の発見という進歩から無限に遠ざかることになります。

情報化社会においては、情報が指し示す当のものまで情報化され、目的地に到達することと、目的地から遠ざかることが取り違えられ、進歩と退行が取り違えられるのです。

情報化社会とは「鏡の部屋」のようなもので、そこから逃れるには「出会い」を置いて他ありません。鏡の部屋に閉じ込められながら、「出会い」を「出会い」として認識することで、外部への突破口が開けるのです。

情報化社会とは鏡の部屋です。鏡の部屋に閉じ込められた人は、そこが鏡の部屋であることが認識できず、それによりあらゆる錯誤が鏡の部屋の中で反射を繰り返すのです。

写真術の登場を受けて近代芸術の歴史は一つには「伝統の破壊」となり、全てが破壊されたその先に「芸術の廃棄」があったのです。しかし近代とはさらなる情報化社会へと向かっていたのであり「伝統の破壊」も「芸術の廃棄」も実態から遊離した情報へと化したのです。

情報化社会という鏡の部屋は退行現象を生じさせます。ここがポイントです。その中で人は進歩を目指すつもりで退行を目指し、進歩を望むつもりで退行を望むのです。

人前の進歩には二種類があるのです。一つは人は誰でも赤ん坊として生まれ進歩して大人になるのです。赤ん坊が大人になるという進歩において「伝統」や「古典」は決して古くはならず、時と場所を超えた有効性を持つのです。しかしもう一つの「時代の進歩」と混同されることで、その事が忘れられるのです。