アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

子供と学び

「子供の感覚を大切に」よく言われる意味での「子供の感覚」とは何でしょう?私の個人的経験で言えば、私の味覚が母親によって教育されていた事の意味が、最近になりあらためてわかってきたのです。私の母親はまずい料理に対し文句を言う人でしたが、子供の私はそれを疑う事なく鵜呑みにしていたのです。

教育に対し疑いを持たず、素直に信じて鵜呑みにするのが「子供の感覚」の一つです。大人になると自分なりの常識が「基準」となり、他人から教えられた事に対し疑いを持ちます。常識が形成される以前の子供は比較する「基準」がなく、なんでも鵜呑みにしてしまうのです。

何でも鵜呑みにする子供の感覚の問題は、「良い教育」と「悪い教育」が判別できず、どちらも鵜呑みにしてしまうことです。逆に言えば大人は自分の常識に照らしてそれが判断できます。しかし大人は「自分が学ぶに値する」と判断した事柄について、素直に鵜呑みして学ぶべきところ、それが自分の常識によって阻害されてしまうのです。

大人になっても学びにおいては「子供の感覚」は重要で、何でも疑わず鵜呑みにするその姿勢はフッサールの「現象学的判断停止」にも共通するものです。子供の頃私は母親が言う「美味い」「不味い」ついて、自分の判断を停止し、自分がどう感じるかにかかわらず「そういうもの」として素直に受け止めていたのです。

哲学を学ぶには、自分の常識で物事を判断しない「子供の感覚」が重要になります。自分の常識を捨てて子供になりきらなければ、哲学を学ぶ事はできません。しかしそれは中島敦名人伝』に書かれた武術においても、「従順」を説いたエックハルトの宗教にいても、同様であるのです。

西田幾多郎の『善の研究』はスゴイ!と判断するのは私の「大人の判断」ですが、これを読むときは「私の判断」を停止して「子供の感性」によって鵜呑みにしなければならないのです。それが『善の研究』第1章「純粋経験」としても示されているのです。