アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

文明と妄想

そもそも私のいうところの「非人称芸術」なるものは、果たして本当に存在しうるのか?実に「非人称芸術」の言葉に含まれる「芸術」とは、「自明の芸術」を意味していたのです。つまり自明性という緩い地盤に堅固な建築を建てようと試みる事は、愚かで無意味な行為でしかないのです。

私は赤瀬川源平さんの「超芸術トマソン」の影響を受けてますが、赤瀬川さんのいう「芸術」も「自明の芸術」であり、また同様に影響を受けた岡本太郎『今日の芸術』の「芸術」も「自明の芸術」を意味していたのでした。

そう言えば、三橋純さんという写真家が、「写真とは何かの定義は人によって異なり、写真家が10人いれば10通りの写真論がある」と言っていましたが、それこそが「自明の写真」であったのです。

人は誰でも「芸術とは何か」を自明的には知っているのです。人はそれぞれ生まれ育った環境や経緯によって「芸術とは何か」を何となく知るのであり、それが「自明の芸術」なのです。ですから「自明の芸術」をもとに芸術を語る人が10人いれば、それは10通りの芸術論になるのです。

実に、私を含む多くの人は、各自勝手な「自明の芸術」の影に怯えているのではないでしょうか?「自明性」とは受動的で、無反省で、浅いレベルでの認識です。そうした自明的な認識によって、「芸術」を勝手な妄想によって怪物のように仕立て上げ、その影に多くの人は怯えているのではないでしょうか。

そして、そうした妄想によるおびえを払拭するために「今日の芸術」であるとか「超芸術トマソン」とか「非人称芸術」など、防衛のための勝手な妄想を膨らませる、と考えると辻褄が合います。

暗がりの怪物が怖いのであれば、懐中電灯で照らしてそれが何であるのかより正確に確認すれば良いのです。すると怪物であると思われたものの実物はずいぶん違っていて、怪物とは自分自身の妄想に過ぎなかったことが判明するのです。しかし未開人は暗闇を照らす手段(懐中電灯)を持たないのです。

残念ながら、私は赤瀬川原平さんに直接お目にかかれませんでしたが、亡くなる数年前に講演を聴きに行ったりして、その経験を含めて総合的に判断するならば、赤瀬川さんは「自明の芸術」という怪物に懐中電灯を向けて、その正体を確認しようとはせず、その防衛手段として「自分の芸術論」を語り続けたのです。

人間の素晴らしいところは、実物を見ていなくとも妄想で語ることができる点です。世の中には確かに「芸術」は存在しますが、同時に「芸術についての妄想」がざまざまに語り継がれ、自らもまたそれを語るのです。誰もろくに芸術の実物を見ないまま「芸術の妄想」が一人歩きし人びとを恐れさせるのです。

オルテガが指摘したように、文明とは「方法」であって、例えば暗闇の怪物に怯えることなく、懐中電灯で照らして正確に認識しようとすることが「方法」です。しかしこの文明的な方法そのものに対し、未開人は怯えの態度を示すのです。なぜなら未開人にとって、妄想こそが現実だからです。

未開人にとって妄想と現実の区別はありません。未開人にとっては自分の妄想こそが、確かな現実感のある現実に他ならないのです。ですから妄想を晴らすための文明的手続きに対し、自分にとっての現実を滅ぼすものだとして、強い怯えを示すのです。

妄想には「現実感を与える」という特徴があります。だから未開人にとって妄想と現実の区別は付かず「私にとってこれは確かに現実である」という妄想に囚われるのです。別の言い方をすれば、未開人は「私にとってこれは確かに現実である」という「実感」を基準に物事を判断し、妄想に惑わされるのです。