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哲学と宗教

プラトンの著作を読むと、ソクラテスは哲学者であると同時に、敬虔な宗教者であることが分かるのですが、これを以前の私は「古代ギリシアにおいては哲学と宗教が未分化であった」と理解していたのでした。しかし最近あらためて再読して、哲学と宗教は本質的に不可分ではないか?と思うようになったのです。

「はじめにすべてありき」という考えに従うならば、古代ギリシアにおいてソクラテスが哲学と宗教を不可分なものとして説いているならば、それが本質であると言うことができるのです。フッサールに従うならば、「神」というものも「現象」であるのです。

フッサールによると、あらゆる存在は措定できず「神の存在」もまた同じです。しかし「現象としての神」は否定することはできない、つまり古今東西さまざまな人々が「神」を信じ、「神」についてさまざまな言説がされてきたという、その「現象」を疑うことはできません。

ソクラテスの「無知の知」によれば、神を否定する人は「神」がいったい何であるか知らないのに、何となくそれを否定しているに過ぎません。そしてフッサール現象学をとおして「神」の問題と真摯に向き合うならば、「現象としての神」が何であるかを知らなければなりません。

「現象としての神」を知るとは、例えばソクラテスが「神」についてどのように語り、それがプラトンの著作にどのように記されているか、その「現象」を知ることです。そしてもちろん「神」について語っているのはソクラテスだけではなく「神」についてのあらゆる言説を「現象」として知る必要があります。

ソクラテスの弁明」によると「神」は間違わない、つまり「神」はすべてを知っているので間違わないのであり、それに対し人間はほんの一部のことしか知り得ず無知なのです。ところが多くの人が自分は多くのことを「知っている」と思い込み、即ち自分が「神」であるかのように振る舞い、それをソクラテスは批判するのです。

「神」の起源は何かと言えば、それは自然の「群れ」の人数を遥かに超えた、大人数の人間を統治するのに「神」が必要であると機能的には説明できます。王様は「神」に命じられることによって、大人数の人間を納得させ、統治できるのです。

統治の起源は何かと言えば、例えば人間は多細胞生物ですが、各細胞は統治されて人体を形成しています。人間の文明としての統治は、多細胞生物における各細胞の統治の、その機能の「外部化」だと考えることが出来ます。

人間の各人は、多細胞生物として統治されています。そのような統治された各人を多数集合させ、これらをさらに統治して「文明」というものを形成しているのです。文明においては生物学的な統治と、人工的統治が入れ子になっているのです。しかしここに「ズレ」が存在しているのです。

人体は多細胞生物として統治されています。その場合、各細胞の自由意志は完全に削除されています。例えば筋肉細胞は筋肉細胞としての機能に徹し、これに不満を抱くことなく、別の機能の細胞に変化したり、人体から独立して単細胞生物になったり、人体から他の生物の細胞へと移行することもありません。

ところが各人としての人間には、精神や自由意志があるのです。ですから「文明」として統治されたとしても、その中で反抗したり、堕落したり、脱落する者が必ず出てくるのです。旧約聖書の「神」が何度も怒るのはそのためです。

大人数が統治される文明において、人々は誰か個人に従っているのではなく、大人数の「背後」の存在に従っているのです。例えば現代日本における法律も、誰か個人がみんなに守らせているのではなく、日本国民という漠然とした大多数の意志が法律に反映し、それに各自が従っているのです。

法律の主体は誰か個人ではなく、一人称、二人称を超えた「非人称」であるのです。

日本人と宗教の問題は非常に難しいですが、いま気付いたのは「法律」と「神」は似ているし、それを言うと「神」と「お金」とは似てるのです。多くの人はお金を「万能」だと知りながら、同時に自分は貧乏であり、どんな金持ちも無限の富を得られないことを知っています。これは「無知の知」と正反対です。

お金というものは、程度の差はあれ誰もが少しずつ持っていて、それらを合計すると「最大限の富」になります。同じように「知識」というものも程度の差はあれ誰もが少しずつ持っており、それらを合計すると「最大限の知識」になります。

いや、知識の場合、各自が持っている以外に、書物に書かれた知識や、失われた知識がありますし、さらに自然の中に埋め込まれた知識、人にとって未発見の知識もあり、知識の総量を合計することなどとてもできません。

お金のように各自が程度の差はあれ少しずつ持っているものに「人格」や「精神」があります。そして各自のお金を合計した「最大の富」が想定できるように、各自の人格を合計した「最大の人格」、各自の精神を合計した「最大の精神」が想定できるのです。

各自の精神を合計した「最大の精神」はフロイトによる無意識だと言えるかも知れません。フロイトは『モーセ一神教』で無意識とは本質的に集合無意識であり、これが個人にも集団にも影響を与えていると述べています。

人はお金の前に無力なのでしょうか?お金が存在する以前の人類は、何に対して無力だったのでしょうか?人は食べなくては生きてゆけず、人は食べものの前に無力だと言えます。人が食べることは他の生物を殺すことであり、他の生物を殺さなくては生きてゆけないという運命に対して無力なのです。

お金とは「他の生物を殺さなくては生きてゆけないという人間の運命」に関係するもので、故に人はお金に対し無力なのです。そして人は「神」に対し無力だと言われている、そういう「現象」が疑いなく観測できるのです。