アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

寛容と現代アート

現代アートを理解するには寛容さが必要であり、何故なら現代アートは基本的にどのような対象をどのような方法に表現するのも許されるからである。

現代アートが一般に分かりにくいとされるのは、理解に寛容さを必要とするから。多くの人は自らの常識に閉じこもって不寛容な態度でアートに接している。

 

現代アートは何をどう表現するかは(犯罪にならない限り)制約なく全く自由であり、だからこそそれを評価する側には寛容さが要求される。実に、自由と寛容とは対になっているのである。つまり自由は寛容さによってのみ保証される。自由とは自由を許す寛容に他ならない。

 

自由とは自分自身が自由に振る舞うことではなく、他人の自由に寛容であり、他人の自由に対し理解を示すことである。

 

他人の自由に不寛容な人は、自分の自由に対する他人の不寛容さを許している、と言う意味において自分の自由を制限してしまっている。

 

自分の自由を主張する一方で、他人の自由を許さない態度は矛盾している。自由の主張とは、つまりは自由の許しを他人に乞うているのである。

 

他人の自由に不寛容な人は、自分の好みや常識という狭い範囲に囚われている、という意味で自由ではない。他人の自由に寛容で理解を示すことにより、自分の自由度を広げることができる。

 

寛容さとは何か?現代アートにおける寛容さとは、全ての作品を一律に優れていると評価することではない。現代アートの各作品の優劣を判断する前提として、寛容さが必要となるのである。

 

現代アートの作品はかつてないほど多様であり、そのように多様な作品の優劣を判断するのは、常識的感性では難しい。何故なら常識は、基本的に不寛容なところがあるからである。

常識は、常識と非常識とを分けるという点において不寛容である。だから、常識を打ち破りながら発展しようとする現代アートを、常識で理解しようとするのは難しいのである。

 

常識は不寛容である、ということは古代ギリシャソクラテスも、古代インドの初期仏典も、古代中国の老子孔子も指摘している。常識の不寛容さに抗する営みが哲学であり、アートであり、だからアートを理解しようとする者は常識に抗して寛容であろうとしなければならないのである。

 

常識が不寛容であるならば、寛容なのは学問である。何故なら常識の対極に学問があるからである。ソクラテスの裁判とは常識的な不寛容と、学問的な寛容さの争いなのである。