理解とコピー

自分が理解したことは自分にしか理解できない。つまり、自分が理解したことを他人に理解させることはできない。同時に他人が理解したことは自分には理解できない。他人が理解したことを自分で理解するには、結局は自分で考えて自分なりに理解し直さなければならない。

 

自分が理解したことを他人に理解させるには、結局はその人に自分で考えてもらって、その人なりに理解してもらうしかない。そんな風であるから、自分と他人ではその理解の内容が一致するとは限らない。

しかし一方の人間が何事かを理解したことによって、もう一方の人間が何事かを理解する、その「理解」は存在する。たとえ理解の内容が一致しなくとも、理解によって理解が生じる。

つまり哲学というものは、その内容をそのまま他人に理解させようとして書かれてはいない。そんな理解は不可能であることが前提で哲学は書かれている。だから難解な哲学書を「私は理解した」という前提で書かれた入門書は実のところ胡散臭い。

難解な哲学書は「理解しよう」として読んだとしても、結局は自分なりに考えて、自分なりの仕方で何事かを理解するしかないのである。難解な哲学書を、その著者が理解した通りに自分も理解するということはあり得ない。

哲学的な理解とは非常に複雑なもので、そのような複雑な理解の内容が、他人と自分とで丸ごと一致することはあり得ない。もし著者が考えた通りにその哲学書を理解しようとした場合、それは必然的にその哲学の劣化コピーになってしまう。

それは名画を正確に模写しようとすると例外なくその劣化コピーになるのと同様である。名画から名画を産むには、名画の真髄を自分なりに理解して、自分なりのオリジナルな名画を産み出すしかない。同様に哲学から哲学的理解を得ようと思ったら、自分なりにその哲学の真髄を汲み取って、自分なりに哲学するしかない。

私は哲学書を読む以前の昔は哲学の入門書ばかり読んでいたが、振り返って考えるとそれらは「私は理解した」という前提によって書かれた哲学の劣化コピーでしかなかった。

コピーは必然的に劣化する。コピー機はなんでもコピー用紙にコピーする。キャンバスに描けれた油絵も、和紙に描かれた水墨画も、画用紙に描かれたクレヨン画も、なんでもコピー用紙にコピーされるから劣化するのである。

そして哲学の入門書は、その著者が「私は理解した」と称して実のところ「常識」という名のコピー用紙にその哲学をコピーするのである。哲学の入門書の著者は、あらゆる哲学書を理解したと称して、「常識」という均一なコピー用紙に次々にコピーして行くのである。

常識を疑い、常識を覆し、常識を溶解しながら思考を深めた哲学が、「常識」という名のコピー用紙にコピーされてゆく。そのように哲学の入門書は、哲学を常識のレベルに押し戻しながら「理解して」書かれており、だから誰にでも分かりやすく、面白く、実用的なのである。

あるいは大学に所属する哲学研究者も、自分が専門とする哲学者を精密に理解しようとして、結局は模写絵画家の立場に陥っている。例えばいくらセザンヌを精密に模写したところで、その模写絵画家の志はセザンヌに遠く及ばない。模写絵画家たちは模写することで満足し、お互いに模写の精密度を競っている。

コピーの本質は「表面のコピー」であり、「本質」を理解してコピーすると全く別のオリジナルなものが出来上がってしまう。

簡単に理解できることは、実は理解ではなくコピーなのである。誰もが「常識」というコピー用紙を持っていて、そこになんでもコピーしてしまう。

別な言い方をすれば、「理解」には二つの仕方がある。一つは「常識」というフォーマットに落とし込んで理解すること。つまり常識とは理解のためのフォーマットなのだと言える。そしてもう一つはフォーマットによらない理解の仕方であり、これが哲学的思考なのである。

哲学とはあらゆるフォーマットによらない理解の仕方だから自分と他人とで「同じ理解」というのはあり得ず、各自各様に創造的な理解をすることになる。一方でこのような「理解の不一致」を解消するために「常識」を共通フォーマットにした理解の仕方が必要とされるのだ。