アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

原理創出と宗教禁忌

交渉というものは、一つには相手の願望をよく理解し、それを実現させてやるように、ことを運ばなくてはならない。例えば、相手が仕事の達成よりも、自分のプライドの維持を優先しているのであれば、それをまず満たしてやることが重要となる。

つまり、仕事の達成よりも自己のプライドの維持を優先する人は、そもそも能力のない人であり、それを誤魔化しながら生きているのである。そのような相手と、仕事の達成を最優先に仕事を進めようとする場合、先ず指摘しなければならないのは、仕事の弊害となるその人の無能さである。

しかしそのように事をまともに考えても、現実に仕事は進まないのである。仕事の相手が無能だからといって、上の者にそれを言って交換してもらえるのならまだしも、そうでない場合は先ず自分が相手の無能さに合わせ、プライドの維持という願望を満たしてやる必要がある。

結局のところ、どのような仕事であっても、それを遂行するために自分が太鼓持ちにならなければならない、という側面がある。それは仕事をする上で、チームに一定以上の割合で無能者が不可避的に含まれるからであり、そのような無能者にある程度の権限を与えられることがしばしばあるからである。

それは文明社会というものが、ハンブラビ法典を読めば分かる通り、根源的に弱者救済の側面を持っているからである。だから組織というものは官であっても民であっても一定の割合で弱者=無能者を含み、そのように本来であれば組織にとって有害な無能者を、組織を上げて保護する構造として機能するのである。

例えば小学校の担任に無能な教師が就いてしまった場合、基本的に児童は諦めなければならない。子供が文句を言ったからとしても、そう簡単に担任を変えることはできない。また、自分だけがその教師の無能さを見抜いたとしても、他の子供や先生たちには全く理解されないという場合もある。

それは学校というのは単なる例えで、どの組織も同じなのだが、組織内の人間は、同じ組織の無能な人間の無能さを、あえて見ないようにする傾向がある。仲間の無能さから目を背けることで、組織を弱者保護の組織として機能させているのである。

組織の中で変わらないのは一つには上下関係である。例えばいかに無能者であっても、その人が上司であればその立場は変わらない。能力の有無と、組織内での上下関係は全く別の要素として作用し、そこに様々な矛盾が生じて社会を難しいものにしている。

もし仕事上で自分より上の立場の者の無能さを指摘してしまった場合、相手は先ず図星を突かれて狼狽するであろう。無能な人は自分の無能さを心の底では知っており、しかしそれを誤魔化しながら生きているからである。

自分より格下の者から無能を指摘された無能者は、それをごまかすために必死になり、いかに自分が上の立場の人間であるかを過剰にアピールし、それが仕事上まったく無意味な嫌がらせとして生じるのである。

こうした場合、仕事上の上下関係は変わらないのであるから、立場が下の者は、立場が下の者に対する理不尽な行いに耐えるしかなく、もっと言えば寛容に受け入れてやることが肝要なのである。

ハンブラビ法典を見て分かるように、文明社会には弱者救済の社会主義的な側面がある。そして日本文明には聖徳太子の十七条憲法に「和を以て貴しとなす」「人皆党あり、優れる者少なし」とあるように、原初の社会主義的側面が色濃く受け継がれているように思える。

これはともすれば「足の引っ張り合い」「出る杭は打たれる」として作用するのだが、しかし実際を見れば日本文明は諸文明に対して一定レベル以上の発展を遂げている。

ともかく江戸時代の日本には同時代の中国や朝鮮になかった社会主義的な一枚岩の社会構造があり、それにより英国由来の産業革命を成し遂げた。日本に特有の産業革命は現代に至るまで変わらず、欧米で発明されたものの改良によって成り立っている。

つまり、十七条憲法の「人皆党あり、優れる者少なし」の言葉通り、何か新しい発明をするような「優れた頭脳」は日本国外へと排除し、「他者の発明の改良」という「優れた頭脳に準ずる頭脳」によって産業革命を推進し、それによって「和を以て貴しとなす」を実現し文明国として一定レベルを保っている。

人類の最も優れた頭脳の一つに「原理の創出」があるが、日本文明の場合その「原理の創出」を海外に委託し、国内では専ら優れた頭脳に準ずる「原理の応用」に勤しんでいる。であるから日本国内で「原理の創出」をした者は批判されるどころか忌み嫌わられ徹底して排除される。

「原理の創出」は日本人にとってそれは神の領域に触れる「宗教的禁忌」であって、つまり日本人にとって外国人は神であり、あらゆる原理は神である外国人によって日本国内にもたらされる、そのような側面がある。これは理屈には合わないが、感覚的にそのように捉えられているのである。

日本において「原理の創出」をすると他の人々から非常に恐れられ、排除されてしまう。それは日本人にとってあらゆる原理は外国から日本へともたらされるのが当たり前であり、日本人自身が何か原理を創出することなど「全く思いもよらない」からである。

日本人は飛び抜けて優れた日本人を素直に評価することができず、そのような人は恐怖と禁忌の対象となる。別の言い方をすれば、一般に人は知らないものに恐怖する。外国からもたらされた原理は外国においては知られているものであるから、日本人は怖がらずに受け入れることができる。

日本古来の「和を以て貴しとなす」「人皆党あり、優れるもの少なし」には良い面もあって、これによって英国由来の産業革命を日本でも成し遂げることができた。つまり日本に欧米から近代化の波が押し寄せた同時期の清国や朝鮮では社会の階層分裂が激し過ぎて、国や民族を挙げてこれに対応できなかった。

「人皆党あり、優れる者少なし」も足の引っ張り合いだけを意味しているのではない。実際的に組織の中で出世するのは個人の実力よりシステムによるところが大きいのである。従って上の者も下の者も人間としての本質は同等なのである。

だから組織の上の者は付け上がることなく、下の者は卑屈にならず、また上の者は下の者の心情を察して思いやり、下の者も上の者の心情を察して思いやることができる。組織内での上下を人間の価値の本質にまで結びつけると、社会が階層分裂し環境変化に適応できなくなる。

領民の武装力を解除してしまうと、あなたは領民の心を傷つける事になる。そして、領民が臆病な為か、忠誠に欠けている為に、彼らを信用していないということを表した事になる。どちらの場合にせよ、彼らはあなたに憎しみを抱く事になる。そして、君主は無防備のままでいるわけにはいかなくなる。

マキャヴェッリ 君主論 抜き書き3

●大衆はつねに、外見いかんによって、また出来事の結果だけで評価してしまうものである。しかもこの世の中には大衆しかいないのであり、この大多数の者が腰を落ちつけている場所に、少数の者が割りこむ余地はないのである。

人は、必要に迫られて善人となっているのであって、そうでなければ、あなたに対してきまって悪事を働くであろうから。

上天気の日に嵐のことなど思ってもみないのは人間共通の弱点であって、彼らも平穏な時代に風向きの変わることを考えなかったのである。そのため、いざ雲行きがあやしくなってくると、ただ逃げることを考えて、自分を守ることなど考えなかったのである。

 

マキャベッリ『君主論』抜き書き1

 

これにつけても、覚えておきたいのは、民衆というものは、頭を撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならないことである。というのは、人はささいな侮辱に対しては復讐しようとするが、大きな侮辱に対しては復讐しえないからである。したがって、人に危害を加えるときは、復讐のおそれがないように行なわなければならない。

 

武装せる予言者はみな勝利を占め、備えのない予言者は滅びる。それは民衆の性質が変わりやすいことにもよる。つまり、民衆にあることを説得するのは容易だが、説得されたままの状態に民衆をいつまでも引きとめておくことはむずかしい。だから、民衆がことばを聞かなくなったら、力をもって信じさせるような対策を講じなければならない。

量と時間

マキャベリの「君主論」読んでるが、ここで言われる「力量」と「運」について、力量とは一つには翻訳の文字通り「量」であり、それは時間の量である。個人の知力は無限に増大させることは不可能で、それは「寿命」により制限されている。つまり知力の増大には時間がかかるのであり知力はその増大のためにかけた時間に比例する。

ポスト科学と総合性

英語のscience(科学)の語源はラテン語のscientia(知識)であり、scientia(スキエンティア)はscio(スキオー=知る)の派生語である 。と言うことだが、scienceを科学と訳したのはそれがあらゆる事物を「科」に分けて捉える学問であるからで、名訳である。

近代とは科学の時代であり、何でも細かくカテゴリー分けすれば、効率的とされた時代である。そこでポスト近代とは、科学への反省であり、カテゴリーを横断する総合性の復権であり、それが例えば80年代末から90年代初頭にかけての博物学の再評価捉える復権にも現れている。

ポスト近代、ポスト科学の時代はすべての科学的なカテゴライズが否定されたのではなく、カテゴライズとカテゴライズを否定した綜合性とが混在している。例えばスマホやパソコンは科学技術をベースとしながら、科学的なカテゴライズを超えた総合性を有し、デジカメなど単機能機械の存在を脅かしている。

共同体と裏切り

○嫉妬や羨望の感情はなぜ生じるのか?聖徳太子の十七条憲法に「人皆党有り、また達れる者は少なし」とあるが、人は皆グループを作りたがるが、その中で特に優れた者はいないのである。人が作るグループとは何か?と言えば、人間は多細胞動物であると同時に、群体動物としての性質を持つのである。

多細胞動物とは、多数の細胞が集まって一つの個体を形成するのであるが、各細胞はそれぞれに機能分化し交換が効かない。しかし原始的な多細胞動物、例えばコウガイビルは細長い体をいくつかに切断すると、その破片のそれぞれに頭と尾が生じて個体として再生する。

○罪悪感とは、共同体に対する裏切り行為に対する後ろめたさであり、従って共同体を形成しない動物には罪悪も罪悪感もなんの後ろめたさも生じることはない。

罪悪感の対義語は難しいが、罪悪感の反対の、悪をなすことの喜びは、ほんの些細なことであっても確かに存在する。つまりそれは、共同体を裏切ることの罪悪感の反対の、共同体を裏切ることにより得られる密かな喜びである。

共同体に対する裏切りによって得られる喜びとは、つまりは羨望の産物である。羨望の感情は、共同体の中で自分が理想とする地位が得られない場合に生じる。

人が共同体の中である一定の地位を得るためには、まず生まれながらの諸条件があり、それに加えて自らの努力が必要となる。

その人に羨望が生じるのは、自分の生得的な諸条件に対し不満を持ち、それによって自分が共同体において満足な地位が得られてないと思いなし、なおかつ自分が努力することに対しての怯えが存在することによる。

羨望のある人は、自分の欠点を克服する努力をすることに対する強い怯えがあり、その反動で自分に可能な「共同体に対しての復讐」行為にのめり込み、そこに密かな喜びを見いだし、そのようにして罪を犯す。

一見、努力家のようでいて、実は努力することから徹底して逃げていることの反動として、努力せずとも自分に可能な行為に没頭しているだけの人が存在する。そのような人は実際に犯罪を犯さないまでも、どこかで共同体に対する裏切りの罪悪感と、その裏腹の密かな喜びとを感じている。

そのような人は共同体の恩恵を受けながら、共同体の建設という共同作業を、どこかで密かにズルをしてサボっているのである。

人が共同体の内部で一定の地位を得ようと努力することは、共同体の建設という共同作業に参与することを意味する。その意味で「虚名」を得ようとすることは、共同体においていかに地位が向上しようとも、本質的には共同体への裏切りであり、羨望の産物に過ぎない。

羨望とは対象物の破壊の衝動を含むもので、それは自分が共同体においてなんらかの形で報われないことの恨みが、共同体のなんらかの部分の破壊衝動へと転じるのである。

人間が欲しがるものは、共同体における地位に還元できる。なぜならあらゆる入手可能なものは、共同体における何らかのステータスを示すからである。ところが時代や地域や人によって「共同体」の捉え方が異なっている。

そして宗教者や哲学者は「共同体」を時間も地域も超えた「普遍的な共同体」と捉え、そのため原理的に羨望は生じ得ない。これに対し多くの人は共同体を「自分の目に見える範囲の共同体」として捉え、つまり各自の見える範囲を普遍的な共同体であるとそれぞれに錯誤し、そのために様々な羨望を生じる。

人間は個人よりまず先に共同体的な存在であり、それは一つには言葉の原理に因る。共同体とは全く無関係に単独で生きる存在に、例えばカマキリがいるが、カマキリが単独で生きられるのは、誰からも何も教わる必要もなく単独で生きる術が生まれながらにしてインストールされているからである。

人間は生きる上で誰かから何かを学ばなければならず、その意味で人間は個人よりも以前に共同体的な存在だと言える。そしてヒトの子はイヌの子やサルの子よりも、親からより多くの物事を学ばなければならず、それらと動物よりもさらに共同体的な存在だと言うことができる。

しかし単独生活者のカマキリも、メス・オスによる共同作業により子孫を残し、「種」というレベルの共同体の維持に貢献している。そもそも多細胞生物であるカマキリの身体そのものが共同体的な存在であり、そのようにあらゆる生物は個別以前に共同体的な存在で、人間も例外ではないのである。

人間は本質的に個人を擲って共同体に貢献しなければならない。何故なら個人は共同体ありきで存在し得るから。しかしその場合の共同体とは、より普遍的な共同体として認識しなければならない。各自が目に見える範囲の共同体に囚われているなら、それは真の意味での共同体ではなく、そこから羨望が生じる

普遍的な共同体とは、一神教における神であり、仏教における神々を超えた存在であるブッダである。何故なら文明とはその起源において神の名によって統治され発生したからであり、それは現代においてもなお継続している。左翼が夢想するような神なき人民による国家統一は「科学的」にもあり得ない。

つまり芸術というものも普遍的な共同体への貢献なのであり、だから個人の表現として屹立しうるのである。岡本太郎が主張するような共同体を離れた個人的表現というものは、正常に発達し得なかった奇形として、判で押したように類型化してしまうのだ。

セミと常識

キルケゴールの「絶望は死に至る病である」という言い方は、常識的に考えるとおかしい。ここに常識と言うものの性質が現れている。常識人の死とは他人の死であり、自分は観客席からそれを眺めている。人が劇場の観客席に座っている限り、絶望して死に至ることはない。

なぜ哲学を学ばなければならないのか?と言えば「常識」と言うものが害毒であり、それから脱皮しなければならない。常識とは何か?と言えば、子供は常識を身に付けて大人になる。しかし大人になってもなお、子供の頃に身に付けた常識の皮を被っていたままでは、内部の大人の精神は腐ってしまう。

常識そのものが害毒と言うよりも、子供が大人になるために身に付けた常識の皮を、大人がいつまでも着たままでいる事が害毒になる。セミの幼虫は硬い外皮に覆われているが、それが無ければ体がドロドロに溶けて形を保つ事ができない。人間の子供にとっての「常識」もそのようなもので、常識を身に付ける事によって、子供は人間としての精神を形作ろうとする。

常識が形成できない子供は、精神がバラバラになり精神としての「形」が形成できなくなる。ところが、子供から大人になる段階で身に付けた常識を、そのままの形でいつまでも「自分の精神の形」とする事は、実に不健全なのである。

セミの幼虫が立派な厚い皮を着たまま大きくなって、それで満足して一生を終えるのなら、それは不健全な事である。セミの幼虫の皮の中に、大人のセミを閉じ込めたまま年老いて行くとすれば、それほどおぞましいものはない。

セミの幼虫がどれだけ立派に大きくなろうとも、脱皮して翅を広げなければセミになったとは言えない。しかし人間は、どう言うわけなのか、成虫になるのが非常に難しいセミで、大半は幼虫の姿のまま、その内部の肉体を不健全に腐らせながら、長生きして満足している。「常識」とは昆虫が持つような硬い外皮であって、中身がどれだけ腐ろうとも身体の形は保っていられるのである。

常識とは仮の認識であって、真の認識ではない。人は真の認識をする以前に、仮の認識によって認識の足場を固めなければならない。認識の足場とはあくまで仮の足場であって、本来的にやがてそれは取り払わなければならない。

常識とは仮住まいのバラックのようなもので、「建築」とは異なっている。