アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

城壁と自由

芸術に自由はない。

一般の人びとがあこがれを以て「芸術に自由がある」といった場合の「自由」とは、荒野に城壁で囲った文明の外部へと脱出するような自由なのである。しかしそもそも、人間は荒野から脱出するために、荒野の一部を城壁で囲ったのである。その城壁の外部にいかなる自由があるのか?

自由には、文明人の自由と、原始人の自由との二種類がある。そして現代日本において、多くの人が望んでいるのは原始人の自由なのである。芸術によって自由が得られる、という場合の自由とは、原始人の自由を指している。

オルテガの論に従うならば、世界には荒野と城壁の内部の二種類しかない。城壁の内部の人間が憧れる自由とは、城壁の外部である荒野への脱出である。本来、人は荒野から城壁の内部へと脱出したにもかかわらず、時が経つとその状況を「閉じ込められている」と柵越し、荒野への脱出に憧れるのである。

他者と強要

自己は自分によって措定されるか、他者に措定されているかの何れかだとキルケゴールは述べているが、例えば自分が自分の名前を名乗ったとしても、その名前は他人に付けられた名前なのである。

例えそれが自分で付けたペンネームであっても、その人は常にあらゆる他者から、その同じペンネームで名付けられる。自分の名前は自分で決めるとして、例えば毎日違う自分の名前を自分で自由に付けようとしても、他者はそれを絶対に許さず、毎日同じ名前をその人に付けさせようとするのである。

2ちゃんねるなどの匿名掲示板において、「名無し」のままでは議論が成立しない。匿名掲示板において議論を成立させるためには、固定したハンドルネームを付けるか、固定したトリップを表示させるしかない。この場合、ハンドルネームやトリップが発言する毎に変わるならば、議論そのものが成立しない。

同じ名前でいることは、自分よりも他者がそのように要求するのである。自分にしても、他人に対し常に同じ名前であることを要求する。例え偽名を複数使い分けたとしても、同じ人物に対してはいつも同じ名前を名乗るよう、その人は他者から常に要求され、そうするように仕向けられている。

キルケゴールは「依存」という言葉を使っているが、自分の名前に関しても、常に他者に依存している。例えば自分は常に同じ名前を名乗ったとしても、他者が会うたびに自分を別の名前で呼ぶならば、自分が名乗ることそのものが成立しない。そのように自分は他者に依存しているのである。

自分は自分のその同じ名前を常に名乗るよう、他者に強要されている。そして自分もまた、他者に対し常に同じ名前を名乗るよう強要している。同じように、自分がより優れた美術家になりたいのであれば、自分が他者からより優れた美術家になるよう強要されなければならない。

つまり認識とは模倣であり、他者の認識は他者の模倣であり、自分はそのように他者を模倣するように、他者から強要されている。愚か者は、自分以外の愚か者から、自分もまた愚か者であるよう強要される。そしてまた他者に対し愚か者でいるように強要する。だから愚か者は、自分の強要が効かない優れた者を嫌うのである。

或いは舌の肥えた者は、他人にも舌の肥えた者であるよう強要するが、その強要が効かない相手を「味のわからない奴」と言って嫌うのである。そしてその舌の肥えた者には、他の舌の肥えた者から、舌の肥えた者になるよう強要され、これを受け入れた経緯がある。

犯罪者は他の犯罪者から犯罪者であるよう強要され、自分もまた他人に犯罪者であるよう強要する。いや正確には犯罪者であるよう強要できる他者を求める。例え一匹狼の犯罪者であっても、あらゆる犯罪は他者の模倣であり、自らの犯罪も他者に模倣されるのであり、その意味で他者に犯罪を強要するのである。

人は他人から自己のあり方を強要される。そのような自己は、果たして自己と呼べるのか?そこで自分は他者の強要に対しこれを突っぱねることができる。しかしある時点で他人の強要を突っぱねたとしても、その人はそれまでに数々の他人の強要を受け入れて、文字通り自己を形成してきたのである。

子供は大人の様々な強要を受け入れながら、自らも大人になろうとする。しかし大人になってしまえば、もうそれ以上のいかなる強要も不要だと突っぱねる人がいる。そのような人は自己確立しているつもりで、実際には自分の中の他者に同じことを繰り返し強要され続け、そのことに一向に気付けないでいる。

キルケゴールが述べる「関係」とは、例えば言葉であり約束である。言葉は約束で成り立っているが、二人だけの約束では言葉は成り立たず、三人での約束でも言葉は成り立たず、もっと大勢の人びとの間で言葉という約束は成立する。自分が言葉を話すとは、大勢の人びととの間の約束事に参与する事である。

 自分というものは、自分が思っている以上に他人なのである。自分が思っている「自分」とは、自分の中の他人であり、それは自分の中に閉じ込められて、ネズミが車輪の中をくるくる回るように、同義反復し続ける特定の他人なのである。

自己と絶望

キルケゴール死に至る病』再読してるが、絶望して自己自身であろうと欲しない場合、ではなく、絶望して自己自身であろうと欲する場合、とはどう言うことか?そもそも人は「自己」がどう言うものかをろくに知らず、そこで冒頭で自己とはいかに複雑で理解し難いかが述べられている。

絶望して自己自信になろうとする場合とは、自己自身についての理解を深めようとすることであり、人は他人について良く知らないのと同程度に、自己について良く知らないでいる。なぜなら自己とはフッサールが指摘したように、他者の類似物を指すのであり、他人を知らない者は自己も知っていないのである

自己とは何かと言えば、一つには他者により構成されている。認識とは模倣であり、模倣とは他者の模倣なのである。すると自己認識とは何か?自己を自己が模倣するのは認識の袋小路でしかない。実に多くの人は自己認識の袋小路に陥っているに過ぎない。

絶望して自己自身になろうとする場合、その人は自己自身になっていない。そのような人は誰なのかと言えば、動物に自己がないように「我を忘れて」自動作動している。認識とは模倣であり、自己認識という自己模倣に陥っている人は、生得的に与えられた本能に充足した動物と変わることがない。

人はなぜ絶望するのかと言えば、一つには生得的に与えられた本能に充足することに対し、絶望するのである。

 

認識と模倣

前回投稿したブログ記事は、書き始めは認識の二重化について考えようとしたのだが、結局はそれ以前の「認識とは何か?」の問題を深めることになった。そこで辿り着いたのが「認識とは模倣である」と言うことなのだが、これについては繰り返し考える必要がある。

認識とは模倣である。自分は他人が認識するのを真似て、自分も認識するのである。自分は他人がものを見るのを真似て、そのものを他人と同じように見ようとするのである。「自分ならではの見方」とか「自分だけが見た」と言うようなことは、そもそも「自分は他人が見るように見る」事を前提としている。

「自分は他人が見るのを真似て見る」のであり、言葉を覚えるとはその事であり、例えば「これは何ですか?」と言う質問に対し「これはペンです。」と言う答えが得られたなら、それはこのような物をペンだと見るその他人の見方を、自分も模倣して、同じように見る見方を習得しようとする事なのである

哲学的に考えれば、自分が見ているものと他人が見ているものは同じであると言う確証は得られない。しかしそうであっても、自分は他人の見方を模倣しようと意思しながらあらゆる物を見るのである。人が物を見るとき、他人の見方を模倣しようとする意志が無自覚的に作動している。

模倣はどれだけ精密度を上げたとしても、そのものの似姿に過ぎない。これはプラトンイデア論だが、現象学的にはイデアを「実体」として認識することは誤りで、イデアは現象として生じている事が、観察できるのである。

人間の眼の構造を模したカメラによって撮られた写真は、誰もが「これは自分が見た物とそっくりの像である」と認めるのである。そこでカメラは何らかのイデアの似姿を不完全な形で写し、人間の眼も何らかのイデアの不完全な姿を見て、そのような形でのイデアが現象することが、観察できるのである。

現象学をマスターしようとするならば、現象学を基盤とする事を徹底的しなければならない。イデア論も古典的な実態論に陥る事なく、イデアそのものを現象として捉えるなら、それを現象学を基盤として扱う事ができる。この場合、イデアは現象として本当に確認できるのか?がまず重要になる。

しかし繰り返しになるが、人が何か物を見ただけで、普通はそれを「模倣した」とは言わない。普通には、見ることと模倣することは、別の行為として区別される。つまり「認識=模倣」が二重化すると、普通の感覚ではそこに「模倣する」という行為が顕在化するのである。

認識と模倣

最も単純な認識とは、存在の認識である。例えば最も単純な「眼」を持つであるウニは、光の存在を認識して、光のない方へと移動する。人間の場合も、例えばうつ伏せに寝ている背中に本を乗せられても、「何かを背中に乗せられた」というその存在だけが認識できる。

最も単純な認識とは、最も単純な模倣である。光の存在を感知するだけの感覚器官を持つウニは、光の存在そのものを、自らの環世界において模倣する。人の背中に何かが触れると、何かが触れたという存在そのものが、人の環世界において模倣されるのである。

そしてより精密な認識とは、より精密な模倣が、その生物の環世界において行われることと同意である。素朴な生活世界においても「物事を理解したならば、同じことができなければならない」と言われているように、認識と模倣が同じである事が、理解されているのである。

認識と模倣

笛は今のように黄銅で覆われ、トランペットと張り合う楽器ではなく、わずかの穴をもつ細身の簡単なものであったが、コロスの歌を伴奏し、これを助け、超満員になることもまだなかった観客席をその息吹きで満たすに十分であった。じじつ、そこへ集まったのは、わずかの、容易に数えられる人数で、正直で純朴な、つつしみ深い人々であった。しかし彼らが勝利をおさめて領土を拡大し、都を前よりも広い城壁で囲み、祭日には昼間から酒を飲んで御本尊を祀っても非難されないようになり始めてからは、リズムとしらべがいっそう奔放なものとなった。そもそも無教養な者に何が理解できるというのか?労働から解放された田舎者が都会人と混じり合い、卑しい者が上品な者と一緒になるなら。#ホラティウス詩学

オルテガが『大衆の反逆』で示したような問題は、古代ギリシアホラティウスの時代にも生じている。ホラティウスは、芸術は本来的に上品で教養ある者たちのためのものであり、下品で無教養な者たちに迎合して作るとロクなことにならない、と述べている。それはなぜか?

「上品で教養ある者たち」とは何を示しているのか?と言えば人工性である。人工性は、オルテガ的に言えば自然の荒野から脱出するために、荒野の一角を城壁を囲った内部で、文明として構築される。

自然というものは、人知を超えて非常に精巧に出来たシステムだが、それがあるにも関わらず、人類は自らの能力を使って、自然とは異なる「文明」というシステムを構築しようとする。

文明は、人間に自然に備わる言語能力によって構築される。しかし同じく言語であっても、文字がなければ文明は形成され得ない。音声言語は「文化」を形成し得ても、文明は形成出来ない。人間が音声言語によって文化を形成するのは、人間には動物としての本能が欠如しているからだと言える。

音声言語によって構築された人間の文化とは、動物の本能に相当する行動プログラムだと言える。だから言語が異なれば文化が異なり、動物としての行動プログラムが異なるのである。だから生物学的には同じヒトであっても、異文化の集団は「人間ではない」と、素朴な感覚で見做されることがある。

人間の音声言語は象徴機能を備え、これによって人間は動物として環境変化に抜群の適応力を発揮することができる。この音声言語の象徴機能を「二重化」したのが文字言語だと言える。言語の象徴機能は、もともと人間に自然に備わった能力であり、つまり本能である。そして自然としての象徴機能から生じたものが人工性である

原始時代の石器とは、人間の音声言語に自然に備わる象徴機能から生み出される。石器とは、人間以外の猛獣が身体に備える牙や角の象徴である。しかしこの場合の象徴が、音声言語ではなく石器という「物」に置き換わっている。ここに文字言語に先立つ象徴機能の二重化が現れている。

つまり獣の「ツメ」を音声言語によって象徴化し、これを対象化した上で、さらに「ツメ」を「物体としての石器」に置き換えているのである。いや、これはちょっと違うかも知れない。なぜなら実際の獣の爪と「ツメ」という音声言語は全く似ていないが、石器は獣の爪に「似せて」作られるからである。

そもそも道具は人間の例えばチンパンジーでも、自然状態での観察例が報告されている。道具は言うなれば「自然の法則」と一体になることで、その使用法を必然的に見いだすことができる。これに対して音声言語は、それ自体が自然の法則とは全く無関係の法則として自律している。

いやそうではなく、音声言語とは人間にとっての環世界のミメーシス(模倣)なのである。人間にとっての環世界は関係の連鎖であり、この関係の連鎖を音声言語はミメーシスする。それは「関係の連鎖」そのもののミメーシスであるから、関係を構成する個物とは無関係の「記号」が使われるのである。

音声言語システムの機能がミメーシスなら、認識とは即ちミメーシスなのか?例えばモンシロチョウの幼虫は、アブラナ科植物に含まれるカラシ油配糖体という化学物質を感知して、これを「食物」として認識して葉を食べる。この場合、どこに「模倣」があると言えるのか?

模倣とは何か?と言えば、別の場所にそのものの似姿を作ることである。だとすると、モンシロチョウの幼虫がカラシ油配糖体を認識するとは、モンシロチョウの幼虫の環世界のうちに、カラシ油配糖体の似姿を生じさせることであり、その認識とは即ち模倣ではないか?

モンシロチョウの幼虫はカラシ油配糖体を模倣して、彼の環世界にその似姿を生じさせるからこそ、それを認識できるのである。つまりある物が存在するとして、そのある物以外に存在するのは、それ以外の物と、そのものの似姿のみである。

そして例えば硬い石に柔らかい粘土を押し当てて引き離すと、その粘土に押し付けた石の似姿が生じる。カラシ油配糖体とモンシロチョウ幼虫の関係もこれと同様で、カラシ油配糖体に接触するカラシ油配糖体以外の物体としてのモンシロチョウ幼虫に、その似姿が環世界として生じるのである。

認識とは模倣であり、模倣なくして何の認識も生じることがない。動物が何か見たり聞いたりして認識した時点で、認識したものの模倣が生じているのである。しかし普通、人が何か物を見ただけでそれを「模倣した」とは言われない。

ところがあるものの前に、人が数人いたとして、その同じものを皆が見ていると、認識することができる。つまりそれぞれの人の環世界の中に、その同じものの似姿が生じていると観察できる。見ることが即ち模倣であるからこそ「みな同じものを見ている」ことが成立するのである。

何かを見るとは、同じものを他の人も見ていることを前提として、自分も見ているのである。自分が太陽を見るとき、その同じ太陽を過去何人もの人々が見てきて、そして未来にわたって何もの人がその同じ太陽を見る、と言うことを前提としている。そのように、認識するとは模倣なのである。

しかし繰り返しになるが、人が何か物を見ただけで、普通はそれを「模倣した」とは言わない。普通には、見ることと模倣することは、別の行為として区別される。つまり「認識=模倣」が二重化すると、普通の感覚ではそこに「模倣する」という行為が顕在化する。

小中華と大中華

小中華から大中華へ!当の中国文明は、とっくの昔から実際的に小中華に陥っており、だから孔子も嘆いているのである。小中華とはSMAPの『世界に一つだけの花』であり、世界の中心に自分だけの小さな華が咲いていると言う思想であり、いっぽうで大中華とは唯一の大きな華は誰にとっても自分の外部に咲いている。

小中華の「小」とは人間の脳内リアリティを指しており、大中華の「大」とは現実そのものを指している。人間は現実認識したものを脳内にプールすることができ、そこで呪術が成立する。呪術とは脳内リアリティの産物であり、小中華を生きる人は脳内リアリティの呪術的世界を生きている。

写真に受け継がれているルネサンス発祥の一点透視図法は、視覚世界の中心を自分に据えると言う点で、小中華思想だと言える。ところが、素人が感覚的にリアルな絵を描こうとしても、正確な一点透視図法にはならない。

つまり「自分の感覚」という小中華思想だけでは正確な一点透視図法は描けず、自分の「外部」に存在する大中華であるところの「一点透視図法」を取り入れる必要がある。このように科学とは大中華の一部であり、その採用で日本に遅れをとった中国や朝鮮は中華から決定的に外れてしまったのである

自分が世界の中心であると素朴に感じる小中華思想と、自分が世界の中心ではないと認識する大中華思想とがある。自国中心主義、自民族中心主義は本来的には大中華ではなく、小中華思想に過ぎない。

自分は世界の中心に存在しない、という小中華思想の否定が哲学にとって最も重要で基本的な認識であり、だから大中華とは一つには哲学を指しているのである。