アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

認識と模倣

前回投稿したブログ記事は、書き始めは認識の二重化について考えようとしたのだが、結局はそれ以前の「認識とは何か?」の問題を深めることになった。そこで辿り着いたのが「認識とは模倣である」と言うことなのだが、これについては繰り返し考える必要がある。

認識とは模倣である。自分は他人が認識するのを真似て、自分も認識するのである。自分は他人がものを見るのを真似て、そのものを他人と同じように見ようとするのである。「自分ならではの見方」とか「自分だけが見た」と言うようなことは、そもそも「自分は他人が見るように見る」事を前提としている。

「自分は他人が見るのを真似て見る」のであり、言葉を覚えるとはその事であり、例えば「これは何ですか?」と言う質問に対し「これはペンです。」と言う答えが得られたなら、それはこのような物をペンだと見るその他人の見方を、自分も模倣して、同じように見る見方を習得しようとする事なのである

哲学的に考えれば、自分が見ているものと他人が見ているものは同じであると言う確証は得られない。しかしそうであっても、自分は他人の見方を模倣しようと意思しながらあらゆる物を見るのである。人が物を見るとき、他人の見方を模倣しようとする意志が無自覚的に作動している。

模倣はどれだけ精密度を上げたとしても、そのものの似姿に過ぎない。これはプラトンイデア論だが、現象学的にはイデアを「実体」として認識することは誤りで、イデアは現象として生じている事が、観察できるのである。

人間の眼の構造を模したカメラによって撮られた写真は、誰もが「これは自分が見た物とそっくりの像である」と認めるのである。そこでカメラは何らかのイデアの似姿を不完全な形で写し、人間の眼も何らかのイデアの不完全な姿を見て、そのような形でのイデアが現象することが、観察できるのである。

現象学をマスターしようとするならば、現象学を基盤とする事を徹底的しなければならない。イデア論も古典的な実態論に陥る事なく、イデアそのものを現象として捉えるなら、それを現象学を基盤として扱う事ができる。この場合、イデアは現象として本当に確認できるのか?がまず重要になる。

しかし繰り返しになるが、人が何か物を見ただけで、普通はそれを「模倣した」とは言わない。普通には、見ることと模倣することは、別の行為として区別される。つまり「認識=模倣」が二重化すると、普通の感覚ではそこに「模倣する」という行為が顕在化するのである。