アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

自己と絶望

キルケゴール死に至る病』再読してるが、絶望して自己自身であろうと欲しない場合、ではなく、絶望して自己自身であろうと欲する場合、とはどう言うことか?そもそも人は「自己」がどう言うものかをろくに知らず、そこで冒頭で自己とはいかに複雑で理解し難いかが述べられている。

絶望して自己自信になろうとする場合とは、自己自身についての理解を深めようとすることであり、人は他人について良く知らないのと同程度に、自己について良く知らないでいる。なぜなら自己とはフッサールが指摘したように、他者の類似物を指すのであり、他人を知らない者は自己も知っていないのである

自己とは何かと言えば、一つには他者により構成されている。認識とは模倣であり、模倣とは他者の模倣なのである。すると自己認識とは何か?自己を自己が模倣するのは認識の袋小路でしかない。実に多くの人は自己認識の袋小路に陥っているに過ぎない。

絶望して自己自身になろうとする場合、その人は自己自身になっていない。そのような人は誰なのかと言えば、動物に自己がないように「我を忘れて」自動作動している。認識とは模倣であり、自己認識という自己模倣に陥っている人は、生得的に与えられた本能に充足した動物と変わることがない。

人はなぜ絶望するのかと言えば、一つには生得的に与えられた本能に充足することに対し、絶望するのである。