アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

戦争と幸福

ニーチェが教えてくれるのは、我々が見ている世界はことごとく「逆さま」であるということだが、実際に人間の網膜には重力に対して上下逆さまの像が写っているのであり(それは大判カメラのピントグラスを見ても分かる)それを脳内処理で補正しているのである。

 

 

ニーチェ的に考えれば、平和を願うことは愚かであり、戦争を願うことが幸福となる。なぜなら「悪」とはすなわち「弱さ」であるから。真の強者は平和を望まず、なぜなら強者は平和の中では能力が発揮できずに生きながら死んでしまうからである。

 

 

クリエイティビティを発揮することは争いを生む。だから平和を愛する人々は本能的にクリエイティビティを否定する。そう、それは本当に本能かもしれない。クリエイティビティが発揮されるとは、環境が変化することを意味する。そしてあらゆる生物は基本的には環境変化を好まない。

 

 

平和とは何か?と言えば、理念的には「永遠に変化しないこと」が一つ挙げられる。文明における、とりわけ近代以後における時代の変化とは「永遠に変化しないこと」を目指しての変化なのである。

 

 

とどまるところを知らないさまざまな技術の進歩は、もうそれ以上に進歩の余地がない「永遠に変化しないこと」への終局点を目指している。つまり全ての人が幸福で争いのない世界が実現したならば、その先は永遠に変化する必要がなく、そのような世界を無自覚にしろみな目指しているのである。

 

 

対してクリエイティビティを求める人は「変化そのもの」を求める。そこで「変化しない世界」の実現のために変化を容認する人々との間に軋轢が生じる。

 

 

例えば、写真を含むアートの世界において、人々は常に「固定した評価」を作ろうとしている。例えばアラーキーは素晴らしい、という固定した価値が出来上がったら、それを否定してご破算にすることは望まれない。セクハラ・パワハラ問題が起きてもアラーキーの評価が揺らがないのはそのためである。

 

その反面、人はかつて評価した人間を次々に忘れて行く。例えば池田満寿夫だが、今は世間的にすっかり忘れ去られそのピカソまがいの作品を評価する人もいなくなった。つまり世間的な「固定された評価」とは短期的な「夢」に過ぎない。そもそもそれは「永遠に変わらない平和」という夢の一場面に過ぎない

 

 

真の意味でクリエイティビティを求める人は、本質的に平和を望まず、常に戦いを求めている。だから変化を求めない大多数の人たちにとって、常に攻撃を仕掛ける危険な存在として認識される。

 

ニーチェが言う「有能性」とは何か?自分の経験で言えば、自分の無能さは「有能な隣人」の有能性によって顕在化する。原始時代において有能な人間と無能な人間との比較は存在し得ない。無能な人間は自然淘汰され存在しないからである。有能な人間と無能な人間の比較は、文明時代に特有の問題である。

 

 

そうだ、ニーチェに即して考えれば有能性とはあくまでも「戦いのための有能性」であり、それ以外は意味しない。だからニーチェソクラテス、イエスブッダの非暴力を批判したのである。

 

 

ニーチェ的に「正しい人間」とは常に戦いに身を置いて、戦いの中に生き、平和とは無縁で心が安らぐことはごく稀である。原始時代の人間はそのように生き、現代においても先端的な企業の経営者などはこのような立場に身を置いている。

 

 

平和とは本質的に愚かであり、だからこそ転倒した価値がある。自然の淘汰圧は人間の中から少数の「優れた個体」を選別するが、文明においては多数の「劣った個体」を保存しようとする。劣った個体を道場によって保存すること、そこに転倒した新しい価値が生じるのである。

 

 

ニーチェによると、人間にはまだまだその有能性を引き出す潜在能力を秘めているのだが、その反対的存在であるキリスト教によって阻害されてしまっている。

 

 

キリスト教産業革命を生み、そこから生み出された様々な機械によって人間は新たな能力を手に入れた。しかし便利な機械ができると同時に、人間が本来的に備えた能力はことごとく減退することになってしまった。例えば自動車が普及するにつれ人々の脚力は退化し、録音機によって人々の記憶力は退化した

 

 

機械の力を一切使わなくとも、生身の身体と頭脳を鍛えることで、その潜在能力を無限に引き出せたはずなのである。しかしその可能性の芽を、産業革命は潰してしまったのであり、そこから「間違った歴史」が生じたのである。

 

 

私がスターウォーズの、特に新三部作に惹かれたのは、ニーチェ的な真の強者が、その意味での真の善人が正確に描かれていたからかもしれない。つまり文武両道で並ぶもののない並外れた有能性を持つダース・シディアス卿が、同時に最凶の極悪人として描かれているのである。

 

 

これに対して正義のジェダイの長老であるヨーダ師は無能な善人で、判断をことごとく誤り事態を悪くして行き、終いにはダース・シディアスとの一騎打ちで敗れ去る。この描写はある意味で非常に正鵠を射ている。

 

 

しかし、ルーカスの想像力はそこまでで、映画の中で銀河皇帝は恐怖政治による静的な平和を実現したに過ぎない。ニーチェが予言した強者による世界支配は、そのようなものではない。そこでは何より平和が忌避されて戦いが賞賛され、戦いによって人間の能力は無限に伸長してゆくのである。

 

 

戦いによって伸長するような種類の能力が、キリスト教の世界では封印されてしまっているのであり、そのためのキリスト教なのである。キリスト教の世界内で起きる戦争は、人間の潜在能力を引き出すことに寄与しない。なぜならそれらの戦争は「平和」を目的としてしまっているからである。

 

 

どれほどイデオロギーが異なって対立しようとも、それぞれがそれぞれの仕方で「平和の実現」を目指して戦争をしている。このように平和を目的とした戦争は、ニーチェ的には本来的ではなく、目的を取り違えて本末転倒している。

 

 

強い人間たちがお互いに激しい戦争に明け暮れながら人生を謳歌し、弱い人間たちが片隅で怯えながら暮らすような、そんな世界をニーチェは予言したのであろうか?そして実際の世界は、弱い人間たちが結託して強い人間を、そして強い人間の希望を「悪」とみなして迫害している。

 

 

ニーチェの思想が危険でありながら一方で安全であるのは、およそ反対すぎて実現不可能だから。それは同時に今日の世界において「真の強者」が厳しく虐げられていることを意味する。

 

 

それは例えば、私が子供の頃観た映画で、氷漬けになった恐竜と原始人が発掘され現代に蘇る、という荒唐無稽な内容のものがあったのである。蘇った原始人は主人公の少年と仲良しになるが、やがて大人たちに追い回されて捕らえられ殺されてしまう。現代における「真の強者」とはそのようなものである。

 

 

現代における「真の強者」は自らの有能な能力を伸び伸びと発揮する「原始人」のような存在で、凶暴な野獣と変わらない存在として認知され、たちまちのうちに殺されるか、捕らえられ自由を奪われる。 


ニーチェは同情の害悪を説いている。強者は同情を必要としない。つまり「情けは人の為ならず」の言葉通り、他人に同情して施しを与えると、自分が困った時に別の他人から同情されて施しを受ける場合がある。しかし強者は他人の同情を必要としないのだから、他人に同情しても一方的に存するだけである。

同情と文明

ニーチェの『反キリスト者』を読みながら書くが、同情とは何か?を考えると文明以前の原始生活において怪我人や病人に同情すると自分の命はもちろん群れ全体の存続が脅かされる危険がある。従って文明以前に「同情」は存在せず、「同情」によって文明が生じたと見ることが出来る。

 

 

いや、文明発生の根底に同情があったのか否か?については保留するとしても、同情は文明があってはじめて成立しうる事象であるのは間違いない。

 

文明という、自然の淘汰圧を斥けた安全な環境があって、はじめて弱者に対する同情が可能となる。犬やオウムのような動物でさえも、ペットにされた安全な環境においては、他者に対する同情の行動を見せることがある。

 

「同情」のコンセプトは『ハンムラビ法典』には確かに存在するが『ギルガメッシュ叙事詩』には無かった。いやギルガメッシュ叙事詩そのものには弱い者への同情が描かれているが、ギルガメッシュ王そのものには同情心は一片たりとも存在しない。

 

 

ギルガメッシュ王の横暴に対して民は「同情」に訴えることなく(それは理解してもらうのが不可能だから)、王と同等の力を持つ野人エンキドゥを差し向け二人を戦わせ、戦いによって二人に「友情」が生じることで横暴が収まることを目論む。

 

 

ニーチェが言う「強い人間」には本来同情心は存在せず、「友情」をもとめ合っている。原始生活における「強い人間」の集団は互いに「友情」によって結び付いている。厳しい自然環境に抗して生き残れるだけの高い能力を持った人間同士が「友情」で結び付いているのが原始社会なのである。

 

 

原始社会においては「同情」が産まれる余地がなく、それだけ厳しい自然環境に晒されながら人類は生活をしてきたのである。文明社会においてもギルガメッシュ王のように「強い人間」は同等の強い人間との友情を求め、それが得られないと力を持て余して横暴になり「弱い人間」を苦しめる。

 

 

同情とはキャパシティの問題であり、原始時代にはゼロだった同情のキャパシティが、文明の時代となって社会が豊かになるとともに同情のキャパシティも増大してきた。しかしそのキャパシティは無限ではないため、トランプ政権下のアメリカでブロック化が復活しつつある。

 

 

弱い者への同情が文明的な国家の基盤にあることは『ハンムラビ法典』を読めば明らかである。しかしその同情は無限ではなく、どこかで「線引き」をせざるを得ないのである。

 

 

現に人々の多くが理性的に同情は大切であると認識しながら、同時にさまざまなレベルの「線引き」をしながらそのことを意識下へと押しやっている。例えば犬と同等以上の知性を持つ豚に対して同情し、これを食用することに反対する人間はごく一部に限られている。

 

 

どれだけ犬を可愛がっている人でも、その大半は犬と同等以上の異性を持つ豚に対しては一切同情せず、極めて冷酷にその肉を食べる。そのような「同情の線引き」をしなければ「豚肉を味わう」という楽しみが奪われてしまう。またしばしばベジタリアンだった人から報告されるように、野菜だけの食事は健康を損なう。

 

 

人間はズルいので、というか「弱い人間」はズルいので、いたるところあらゆるレベルで「同情の線引き」をしていながら、そのことについて知らんぷりしている。「弱さ」は「認識の制限」と結び付いている。

 

 

「強い人」が「弱い人」に同情するとそれが足枷になるからすべきではない、ということは初期仏典にも記されている。しかしニーチェによればブッダは決して「強い人」ではなく「禁欲的な人」に過ぎない。

 

 

ニーチェによると「弱い人」のうちのごく一部は「禁欲的な人」になることでその他の弱い人々に希望を与える。イエス自身もその他の弱い人間に成り代わって、禁欲的にその痛みを引き受け、だから多くの人々にとっての希望となる。強い人の「強さ」は弱い人にとっての希望にならない。

 

善とは何か?ー権力の感情を、権力への意志を、権力自身を人間において高めるすべてのもの。

劣悪とは何か?ー弱さから由来するすべてのもの。

幸福とは何か?ー権力が生長するということの、抵抗が超克されるということの感情。

満足ではなくて、より以上の権力。総じて平和ではなくて、戦い。徳ではなくて、有能性。

弱者や出来損ないどもは徹底的に没落すべきである。これすなわち、私たち人間愛の第一命題。そしてその上で彼らの徹底的没落に助力してやるべきである。

なんらかの背徳にもまして有害なものは何か?ーすべての出来損ないや弱者どもらの同情を実行することーキリスト教

#ニーチェ 『反キリスト者

 

我々「弱者」はニーチェのこれらの言葉をどう受け取れば良いのか?このような書物が今に至るまで日本語にまで訳され出版されている意味は何か?一つには純粋に「真実」を知ろうとすること、もう一つは文明内には文明内の「戦い」が常にあり、自分はどの側に立って何と戦っているかの「見極め」である。

 

 

権力とは何か?それは産業革命の以前と以後では意味合いが違うと言えるかもしれない。産業革命以前は、機械による武器は存在せず、武力の全ては「人力」によっていた。従って各権力者の力のバランスは不安定で、その意味で強者がその力を素直に直裁に発揮できたと言えるかもしれない。

 

 

ニーチェに言わせれば(実際にそれが書いてあるのか不明だが)産業革命による近代化なんぞはまったく「余計なこと」だったのかも知れない。近代こそは機械の力によって、本来の「力のある者」の力を無効にしてしまったのである。

 

 

また芸術においても、近代では写真の発明によって「写実画が上手い人」のその優れた才能も無効化されてしまった。思えば私の中学の同級生で天才だった「田中くん」は写実画の才能もあり当時の私はそれに嫉妬していたが、今となってはそれは無用の才能に過ぎないのである。

 

 

近代がキリスト教から産まれたのだとすれば、キリスト教が近代に先駆けて、優れた人の持つ「何か」を無効にしてしまっていたとしたも、おかしくはないだろう。実際にキリストは徹底した非暴力によって暴力を否定し、暴力が本来持つ優れた意味を否定してしまった。

 

 

ニーチェ的に言えば、暴力は決して否定されるものではなく、むしろ肯定され、賞賛なければならない。我々の常識では暴力を何かいけないもののように感じてしまうが、それはキリスト教により本来の価値が転換せられたのであり、ソクラテスブッダも同じことをしたのである。

 

 

産業革命以後に登場したあらゆるものが、ニーチェの言う強者の持つ力、本来の「善性」をことごとく無効化している。そもそも近代的な機械とは、力のない弱者に、本来的に人間が持てる以上の強大な力を与えるものなのである。

 

 

少なくとも科学者はどれだけ頭脳が優れていようともニーチェが言う強者には当てはまらない。それは弱者に力を貸す弱者に過ぎない。そのようにして世界は近代化が進むにつれてより多くの弱者により大きな力を与えるようになり、強者の存在をことごとく無効化した。

 

 

ヒトラーがしようとしたのは、ニーチェ的な強者に有利な社会の実現だったと言えるかも知れないが、しかしそれを「近代」の枠組みでしようとしたことに矛盾があったのではないだろうか?近代とは本質的に「弱者の世界」なのだから…

理解とコピー

自分が理解したことは自分にしか理解できない。つまり、自分が理解したことを他人に理解させることはできない。同時に他人が理解したことは自分には理解できない。他人が理解したことを自分で理解するには、結局は自分で考えて自分なりに理解し直さなければならない。

 

自分が理解したことを他人に理解させるには、結局はその人に自分で考えてもらって、その人なりに理解してもらうしかない。そんな風であるから、自分と他人ではその理解の内容が一致するとは限らない。

しかし一方の人間が何事かを理解したことによって、もう一方の人間が何事かを理解する、その「理解」は存在する。たとえ理解の内容が一致しなくとも、理解によって理解が生じる。

つまり哲学というものは、その内容をそのまま他人に理解させようとして書かれてはいない。そんな理解は不可能であることが前提で哲学は書かれている。だから難解な哲学書を「私は理解した」という前提で書かれた入門書は実のところ胡散臭い。

難解な哲学書は「理解しよう」として読んだとしても、結局は自分なりに考えて、自分なりの仕方で何事かを理解するしかないのである。難解な哲学書を、その著者が理解した通りに自分も理解するということはあり得ない。

哲学的な理解とは非常に複雑なもので、そのような複雑な理解の内容が、他人と自分とで丸ごと一致することはあり得ない。もし著者が考えた通りにその哲学書を理解しようとした場合、それは必然的にその哲学の劣化コピーになってしまう。

それは名画を正確に模写しようとすると例外なくその劣化コピーになるのと同様である。名画から名画を産むには、名画の真髄を自分なりに理解して、自分なりのオリジナルな名画を産み出すしかない。同様に哲学から哲学的理解を得ようと思ったら、自分なりにその哲学の真髄を汲み取って、自分なりに哲学するしかない。

私は哲学書を読む以前の昔は哲学の入門書ばかり読んでいたが、振り返って考えるとそれらは「私は理解した」という前提によって書かれた哲学の劣化コピーでしかなかった。

コピーは必然的に劣化する。コピー機はなんでもコピー用紙にコピーする。キャンバスに描けれた油絵も、和紙に描かれた水墨画も、画用紙に描かれたクレヨン画も、なんでもコピー用紙にコピーされるから劣化するのである。

そして哲学の入門書は、その著者が「私は理解した」と称して実のところ「常識」という名のコピー用紙にその哲学をコピーするのである。哲学の入門書の著者は、あらゆる哲学書を理解したと称して、「常識」という均一なコピー用紙に次々にコピーして行くのである。

常識を疑い、常識を覆し、常識を溶解しながら思考を深めた哲学が、「常識」という名のコピー用紙にコピーされてゆく。そのように哲学の入門書は、哲学を常識のレベルに押し戻しながら「理解して」書かれており、だから誰にでも分かりやすく、面白く、実用的なのである。

あるいは大学に所属する哲学研究者も、自分が専門とする哲学者を精密に理解しようとして、結局は模写絵画家の立場に陥っている。例えばいくらセザンヌを精密に模写したところで、その模写絵画家の志はセザンヌに遠く及ばない。模写絵画家たちは模写することで満足し、お互いに模写の精密度を競っている。

コピーの本質は「表面のコピー」であり、「本質」を理解してコピーすると全く別のオリジナルなものが出来上がってしまう。

簡単に理解できることは、実は理解ではなくコピーなのである。誰もが「常識」というコピー用紙を持っていて、そこになんでもコピーしてしまう。

別な言い方をすれば、「理解」には二つの仕方がある。一つは「常識」というフォーマットに落とし込んで理解すること。つまり常識とは理解のためのフォーマットなのだと言える。そしてもう一つはフォーマットによらない理解の仕方であり、これが哲学的思考なのである。

哲学とはあらゆるフォーマットによらない理解の仕方だから自分と他人とで「同じ理解」というのはあり得ず、各自各様に創造的な理解をすることになる。一方でこのような「理解の不一致」を解消するために「常識」を共通フォーマットにした理解の仕方が必要とされるのだ。

「超個体」と個人

大半の人間は「つまらない人生」を送る。なぜなら「面白い人生」は常に不安定で、予測不可能な危険に満ち、失敗や死の危険が伴い、自己決定に伴う責任がつきまとう。多くの人はそれらを極力避けようとするから結果として「つまらない人生」を送ることになる。

 

多くの人は「文明」というシステムを構成する「器官」となることで心の安らぎを得る。それもそのはずで、文明とは人間個体が細胞のように寄り集まってできた「超個体」として存在するのであり、各個人が細胞や臓器のように機能しながら人体のごとき文明を支えているのだ。

人間個人は動物個体としてという意味では自立して生きることができる。これに対して人体の各器官は、例えば胃や腸や心臓などと各器官は、それだけを取り出して自立して生きることはできない。そして文明内においてそれぞれの役割を担った個人は、文明を離れたという意味での個人としては生きられない。

あらゆる職業は、文明を維持するためになくてはならない大切な存在であり、それぞれが貴い存在である。文明を支える職業はそれ自体は面白いものではない。それは安全と安定をもたらすものであり、危険や責任を伴う「面白いこと」とは質を異にしている。

あらゆる職業はそれぞれが必ず誰かの役に立ち、感謝の対象となり、それ故に貴い。「職業に貴賎はない」とはその意味である。一方であらゆる職業にはある種のつまらなさが伴うが、その「つまらなさ」こそが安全、安定、心の安らぎを我々にもたらしてくれるのだ。

文明と前提

ようやくニーチェ道徳の系譜学』を読み終えたが、これは非常に難しい本。そもそも初期仏教とユダヤ/キリスト教を真っ向から否定しており、これを読んですぐに「理解した」と言うような人は、それらの教えから感銘を受けた経験がない可能性があるので、信用できない。

 

ともかく前提になるのが、まず文明以前の原始状態での人類は、自然的淘汰圧によって全人口が一定数に抑えられていた。そして農業の発明によって文明が生じると自然的淘汰圧の「閾」を超えて人口が爆発的に増えるのだが、その増えた分は、本来は死すべき、或いは生まれるはずのなかった人間なのである。

 

人類が原始生活から文明生活へと移行すると、「本来の」厳しい自然環境では生き残れないはずの「弱い人間」が生き延び、それによって自然環境の中では生まれるはずのなかった「弱い人間」がさらに生まれ、人口は爆発的に増加したのである。

 

一方で原始生活の厳しい自然環境に耐えうるような「強い人間」の数は、地球上にどれだけ人間の数が増えようとも、その「絶対数」は原始時代とさほど変わりがない。いや実際にそうなのかは分からないが、しかし古代から現代に至るまで「弱い人間」の数は圧倒的に多く「強い人間」の数はごく限られている

「人間は誰もが自分の意思でこの世に生まれたわけではない」と言うのは二重の意味がある。一つは文字通りの意味、もう一つは生き残るはずのなかった、生まれるはずのなかった「弱い人間」が「文明」と言う自然的淘汰圧を排除したシステムのおかげでこの世に存在するようになってしまったという意味である。

図らずもこの世に生まれ生き延びてしまった「弱い人」は、「強い人」のように積極的あるいは主体的にに生きる意味を見出せず途方に暮れる。そこで文明内を生きる「弱い人」に対して、さまざまに区分された「仕事」が与えられる。

これら「弱い人」に与えられた仕事は何のクリエイティビティもなく、「強い人」にとっては退屈きわまりなく耐えることができない。

不思議なことだが「文明」というシステムを運営し維持するためには、膨大な種類と量の「つまらない仕事」が必要となるが、「強い人」にとってそれらの仕事は退屈すぎて耐えられない。逆に言えば、大多数の「弱い人」はそのような退屈な仕事を人生の目標として欲する。

図らずもこの世に生まれて生き延びてしまった大多数の「弱い人」は、それゆえに積極的に主体的に生きる意味を見出せず、人生の時間つぶしに適した「つまらない仕事」を必要とし、同時に「他愛のない娯楽」を求める。

文明においてはどれだけ退屈な仕事であっても、それぞれが文明を成立させるためになくてはならない仕事、つまり世の中みんなの役に立つ仕事であり、だからこそ「意味」があり「価値」がある。しかしニーチェによればこれは「弱い人」の価値体系であり「強い人」はその退屈さ、無意味さに耐えられない。

例えば芸術に人生を賭けたような芸術家にとって、アマチュアの趣味のお絵描きは退屈極まりないものでしかない。しかし当のアマチュア画家にとって「趣味的なつまらなさ」こそが自分には必要なのであり、決して「偉大な芸術家」にはなろうとしないのである。

会社で働く社員がみな社長になりたいわけではない。社長になれば自分で考えて行動し、他人に指示を出さなければならず、しかもそこに「責任」が生じる。多くの人はそのような「矢面に立つ」ことを望んだりはしない。

例えばカメラメーカーから発売されるカメラには、メーカーのブランド名は記されていても、設計者の名前が記されることはない。カメラメーカーの設計者がいかに自分のアイデアによってカメラやレンズを設計したとしても、それは決して自分の「作品」にならず、自分が属するメーカーの「製品」となる。

カメラメーカーの設計者は自分の成した成果と栄誉を自分が属する組織に差し出し、そのかわりに「対価」を与えられる。いやむしろ大多数の人は自分の栄誉を組織に差し出すことで安心し、満足する。多くの人は自分一人が自分の出した成果に対して与えられた栄誉に耐えられない。そんな矢面に立ちたくない。

カメラメーカーに限らず、有名企業の写真は有名企業に所属しているそのこと自体に誇りと満足を感じている。同じように名門校の卒業生は、かつてその大学に帰属していたことに大変な誇りと満足とを感じている。これは「強者」の感覚からすれば実に不可思議な現象ことだが、人にはそれぞれ役割があるのだ。

もし、人間が「強者」だけであったなら、あるいは「強者」の割合が圧倒的に多かったなら、原理的に「文明」は立ち行かずたちまち崩壊してしまうだろう。なぜなら「強者」には絶対できない数々の「つまらない仕事」をこなす圧倒的多数の「弱者」が存在してこそ、文明は文明として維持されるからである。

「勝つための修行」と「戦わなくて済む方法」

引き続きニーチェを読みながら書いているが、天才とはニーチェよれば自分の能力をカテゴリーを超えて拡大しようとする意思のある者、そのための努力をする意思のある者、すなわち未知の領域を切り開く意思のある強者を指す。

 

文明は必然的に人間に精神病をもたらす。なぜなら人間にとって文明以前の狩猟採取生活こそが「本来」であり「正常」なのであり、そこに文明は非本来的で非正常な人間のあり方をもたらし、その結果人々にさまざまな「重圧」や「軋轢」をもたらし、それより生じる病を癒すために「宗教」が必要となった。

ニーチェが言うわれわれ「弱い人間」とは人工の産物だった! つまり野菜と同じで、きちんと管理してあげなければ虫に食われたり病気にやられたりするような、「野生種」や「原種」に比較して人工的で虚弱な品種なのである。

 

我々大衆にとって生きることは不快で虚しい。なぜなら我々は人間にとっての本来的な自然環境において死すべき弱い存在なのであり、それが強者の「同情」によって文明の言う環境の中に救済されたのである。だからわれわれ弱い者は、自力で生きる強い者のように「積極的に生きる意味」を見出せないのだ。

 

ニーチェはなぜ我々大衆を「畜群」と呼ぶのか?それは実に文明がもたらす安寧を享受するのは他ならぬ「弱者」だけであり、「強者」は文明内にあっても自然環境と変わらぬような厳しい「淘汰圧」に晒されているからではないだろうか?

 

一方で歴史的に大多数の「弱い者」はごく一部の「強い者」たちによって虐げられてきたという事実がある。しかし領主の厳しい年貢の取り立てによって飢餓に苦しむ農民のうち、その劣悪な環境を早々に見切って「一人だけ」そこから抜け出して自活を志した者がいたのだろうか?

つまり飢餓に苦しむ民衆は、「文明がもたらす安寧」を前提として疑わず、この前提を捨て去り積極的に「自活」への道を模索するという「強者の発想」がまったくできないでいたのである。

 

強者は文明がもたらす安寧の中にあってもその安寧を享受せず、弱者はたとえ飢え死にしようとも文明の安寧さを前提とする。

 

狼が羊を作った。家畜としての羊は自然状態ではあり得ない存在である。そして羊の群れから「羊飼い」が生じて、その羊飼いが羊を先導して狼を「外敵」として追い払った。なぜなら狼さえいなければ、羊が家畜として存在することもなく、その恨みは大きいのである。

 

ニーチェによる初期仏典の批判はなかなか難しい。なぜならニーチェによれば、私はブッダを「強者」であると誤解しており、ニーチェに倣ってその認識を覆すのが難しいからだ。しかしそこにこそ、初期仏教と大乗仏教との違いの秘密があるのかも知れない。

 

確かに初期仏教は人々にある種の「うらやましさ」を抱かせたのかもしれない。この世の苦痛から完全に解脱した心の安らぎ(ニルヴァーナ)とは、そこに至る修行が本質的に孤独なものであろうとも、ニーチェが示すところの「強者」とは異なるし、だからこそ生きることに苦しむ人々に羨ましさを生じさせる

 

つまりニーチェが言うように、初期仏教が示す解脱への道とは、弱者の理論でありルサンチマンの産物なのである。つまりこれはいかに厳しい修行であっても「敵に打ち勝つための修行」ではない。そうではなく徹底して「敵と戦わなくて済む方法」の会得なのである。

 

真の強者のように、敵を打ち負かし勝利することは、誰にでも出来ることではない。しかし誰とも戦わずに済む方法を会得することは、元が弱者の方法論なだけに、誰にでも会得できる可能性がある。つまり「誰とも戦わずに済む方法」は、簡素化して誰もが実行可能な「普及版」へとアレンジできるのだ。

 

初期仏教の厳しい修行による方法論は、修行をせずに誰でも簡単に会得できる「普及版」へとアレンジが可能であり、そこで大乗仏教が生じたのである。一方で真の強者の方法論は、原理的に「普及版」にアレンジすることが不可能なのである。そしてそれが宗教の意味だとニーチェは述べている…? 

 

才能と境遇

人間社会は本質的に「病気」を抱えている。つまり「文明」とは、原始時代には病気でしまうような人間も、治療して保護して生かしている。私のように未熟児で生まれた子供も、保育器によって生き延びさせる。そのようにして文明は、必然的に「病的な者」「弱い者」を大量に抱え込むのである。

人間には運と不運とが存在する。そして「文明」とは、本来は不運によって死すべき人間を救済するためのシステムである。不運によって死すべき人間を救済し、 文明を運用するための「資源」として活用する、そのような同義反復性が文明に備わっている。


「才能」と言うことを考えると、これには二重に「運」が関わっている。一つは生まれながらの才能の有る無しは、明らかに運と言えるものである。もう一つは良い導き手に出会うことで、この出会いという運がなければ、いくら生まれながらの才能があっても、これを伸ばして活かすことはできない。


しかし私の中学の同級生「田中くん」はなんの訓練も受けずに写実絵画が上手く、ニーチェなど哲学書を読みこなす天才だったが、才能に恵まれた運だけに満足し、指導者に出会う道を断ち、結果として全ての才能を活かせず枯らしてしまった。すなわち精神病院に安住し世捨て人になったのである。

文明は、「自分自身の無能さにうんざりするような人間」を大量に産み出した。文明とは大量の無能者を救済するシステムであり、そのように救出されたわれわれ無能者は、自分の無能を嘆くのである。

他人を同情によって救済すると恨みが生じる。これは世の必然である。文明の世にはこのような怨念が常に渦巻いている。

弱者が同情によって助けられると、弱者は自分を助けた「強者」に嫉妬して恨みを抱く。すなわち自分が助けられた側にいるというその事実の中に、自分が何も持たない弱者であることが示されている。

弱者は「何も持たない」からこそ弱者なのであり、だからこそ「持てる者」であるところの強者によって救われる。ところがその「恩」はたちどころに忘れられ、「持てる者」に対する「持たざる者」の恨みが生じる。しかしこの「恨み」の感情もたちどころに内面化され意識の上からすっかり忘れ去られる。

つまり無意識の作用とは、忘却の産物なのである。あらゆる事物が意識の上から忘却され、無意識だけが全てを記憶しているのである。そしてこの無意識はあらゆる人々の会話の中に、あらゆる書き言葉や芸術作品など人類の文化遺産に含まれている。

少なくとも現代においての「強者」とは、一つには才能に恵まれている事と、もう一つは境遇に恵まれている事である。つまりいかに才能に恵まれていたとしても「良き指導者との出会い」のような境遇に恵まれなければその人は「強者」に目覚めることはないのである。

またいかに恵まれた境遇に産まれようとも才能に恵まれなければ、例えば金持ちの息子がただ放蕩するように、その人は「強者」とは言えないのである。

ところで「持って生まれた才能の無さ」という不運はどうすることもできない反面、「恵まれた境遇」という運の良さをより多くの人々に与えることは、文明の進歩によって可能になるし、特に産業革命以後の近代文明はそれを強力に推し進めてきたのである。

だから近代文明はテクノロジーの進歩を背景にして、大量の「良い境遇に産まれた者」を生じさせたのである。つまり現代においては「才能に恵まれずに境遇に恵まれた者」が大量に存在する。

それと同時に、そこまで大人数ではないとしても、多くの「才能に恵まれた者」も救われることになったのである。

そして「才能と境遇に恵まれた者」と、「才能に恵まれず境遇に恵まれた者」と、「才能にも境遇にも恵まれない者」と、この三者の間の激しい戦いが繰り広げられている。

多くの人は「才能とは持って生まれたものだけ」だと誤解しているが、実際には才能とは「持って生まれたもの+訓練」の賜物なのである。すなわち持って生まれたものがあっても訓練しなければその才能は開花しないか、開花しても「時の花」ですぐ萎れる。

だから「何の努力も必要としない天才」は原理的にあり得ない。そして訓練は本人の努力がなければない得ないが、努力できるのも持って生まれた才能のうちである。加えて「恵まれた境遇」すなわち例えば世阿弥のような「偉大な師」との出会いがある。

ニーチェよれば凡人は天才に嫉妬され悪者に仕立てられて排除される。その結果どうなるか?世に「才能がある」と認められる人の大半が、実のところなんの才能もない凡人で占められるのである。凡人は天才の才能を憎み、凡人の才能に親近感を持って愛するのである。