「独我論」という考えがありますが、自分だけが存在し、他人は存在しないのではないか?という問いです。これを逆に考えるのです。つまり他人だけが存在し、自分は存在しないのではないか?という問いです。
自分の存在は「自明」ですが、あらゆる自明は「超訳」の産物でしかなく「原著」を慎重に読み解かなければなりません。自明的には自分が存在する証拠をいくらでも挙げることはできますが、この超訳に逆らい「自分が存在しない証拠」を集める必要があります。
よく考えてみると、他人がいなくては自分は存在し得ませんが、自分がいなくとも他人は存在し得るのです。自分が生まれる前から歴史は存在し、自分が死んだ後も歴史は続くのです。自分は他人に言葉を教わることで自分として世界認識し、物事を考えることができ「自分」になれるのです。
自分を取り巻く環境は、そのことごとくが他人によって作られたものです。環境の中に「自分」はどこにも存在しません。
自分は他人の一員で、自分とは他人であり、その意味で「自分は存在しない」のです。あるいはあらゆる他人は自分であり、全員が等しく自分であるならば、同時に全員が等しく他人でもあり「固有の自分」はどこにも存在しないのです。
自分とは、つまりは「センサーの位置」でしかありません。全員が他人で、自分はどこにも存在しないのですが、センサーの位置を「自分」と言い換えているに過ぎないのです。
人間とは群体生物で「個体」「個人」「自分」などの概念は超訳の産物でしかありません。つまり生物学的なヒトの個体は、群体生物としてのヒトを構成するユニットでしかないのです。
日本語の「世間」は、生物学的なヒトの群体の、一形態を示しています。しかし世間という群体は「国家」という群体より規模が小さく原始的なのです。近代日本は建前上は国家規模の群体ですが、実質的には原始的な「世間」の集合体であり、この二重性が様々な問題を生じさせるのです。
ヨーロッパ近代の「個人」や「自由」の概念は「責任」とセットになっており、それは「国家」という大規模で進化した群体における、各ユニットのあり方を示しています。ヒトは群体生物であり、個人という概念も群体生物としての、各ユニットに対する要請から生じたものに過ぎません。
ソクラテスやブッダが説いた哲学とは、群体生物であるヒトとしての、究極の群体である「普遍」における各ユニットのあり方を示したものなのです。ヨーロッパ近代の「個人」はこれをベースにし、一方で日本的「世間」は原始的で小規模な群体のあり方を残しているのです。
日本人に特有の、責任を負うのを嫌がり、そのために責任の所在を曖昧にしたがる風潮は、つまりは「世間」という規模の群体に対応しているためであり、「国家」という規模の群体には対応していないのです。欧米の個人や責任は、少なくとも理念としては国家や普遍の規模に対応しています。
自分が不幸でも、他人が幸福であれば、それでいいのではないでしょうか?なぜなら「自分」は存在せず、自分を含めた全てが他人だからです。
しかし逆に考えるなら、他人が不幸であるからこそ、自分は幸福にならなければならないのです。なぜなら誰かが幸福にならなければならず、それは他人であっても自分であっても構わないのです。特権的な「自分」が存在せず、自分もまた他人の一員であるなら、そういうことになります。