アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

帰納法と演繹法

あらためて気がついたのですが、帰納法に頼るのは間違いではないでしょうか。

日本仏教の最重要経典とされる法華経帰納法で書かれてます。
まず「法華経は素晴らしい経典です」という原理を示し「だから法華経は素晴らしい」という結論を導き出し、同時に「実際の法華経を読む」という帰納法のためのデータ収集を否定します。
実に、法華経には法華経の内容は記されていないのです。

帰納法は実際のデータ収集から始まりますが、法華経には「法華経の内容は高度過ぎて凡人には読めない」と記され、帰納法を頭から否定しています。
ここで示されているのは、帰納法は高度で、演繹法は安易だと言うことです。
法華経は素晴らしい」と言う概念を固定すれば、それ以上の調査や検討は不要です。

早い話、私が提唱する「非人称芸術」とは演繹法で、その意味で非常に問題があるのです。
それは私も自覚してはいたのですが、呪術の効果に近いものがあります。
呪術には特有の創造的効果は認められますが、限界があるのも明白な事実です。

「非人称芸術」が演繹法なのは、法華経由来の日本的伝統を無自覚に引き継いだためで、仕方のないことです。
という推論を、私は帰納法で導き出すことが出来ました。
即ち法華経を全部読み、インド由来の初期仏典と比較し、他にも色んな本を読み、3.11の体験も経るなどデータ収集したのです。

帰納法は実際のデータ収集に膨大な手間と時間がかかり、その推論には終りがありません。
多くの人はその手間を嫌い、演繹法によって素早く結論を出しますが、その確からしさは疑う余地があるのです。

フッサールが説く「判断停止」はなかなか難しい概念ですが、一つには演繹法を止めてみる事ではないでしょうか?
演繹法による判断を止めて、帰納法のためのデータ収集をひたすらするのです。
膨大なデータから直感的に得られた推論こそが、重要なのかも知れません。

実は「非人称芸術」は「目の前のものが何であるかを忘れる」という判断停止により成立し、それは自著にも書きましたが、フッサールを改めて読むとそれは職業人なら誰でも行う、限定的な判断停止の一つに過ぎない事が分かります。
実際、私の行った判断停止は、竹田青嗣現象学入門』で学んだものに過ぎませんでした。

比較サンプルが少ないほど、物事の判断は主観的で相対的なります。比較サンプル数がある閾値を超えると、主観や相対性に左右されない「基準」が形成されます。