アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

哲学と自己否定

彦坂尚嘉著『反覆』1974年(田畑書店)をあらためて読んでますが、ここに収録された有名な「李禹煥批判」が、そのまま「糸崎公朗批判」としても読めてしまって、驚きました。
とは言え、人は無自覚的に先人の侵したミスを「反復」し、自分が過去に遡って既に批判されていることはあり得るのです。

「非人称芸術」の「非人称」は、新左翼の「自己否定論」の影響を受けていると言えるかも知れません。私
自身、このことに全く無自覚でしたが、有り体に言うと、ろくに勉強しないで自分の頭だけで考えようとすると、無自覚的に世間の影響を受け、没個性的考えに陥るのです。

非人称芸術のベースに、新左翼的な自己否定論があったのです。
これまで考えてもみませんでしたが、確かに「非人称」という言葉自体が「自己否定」を表しているのです。
自己否定論とは何でしょうか?
私だけでなく、戦後の日本人は押し並べて自己評価が低いのではないか?という疑問を、私は以前にも提示しました。

学生時代の私は自分の才能に失望し、自己否定の念が人一倍強かったのです。
しかし今になって考えるとそれは私の思い違いで、実は私以外の日本人の多くが、私と同様に、或いはそれ以上に、自己否定の念が強いのではないか?
そして、多くの人が自己否定をしながらその事に無自覚で、だからこの問題が顕在化しにくいのではないでしょうか。

日本は学歴社会ですが、それは日本国民に押し並べて自己否定の念が強いことの現れだと見ることが出来ます。
自己否定の念が強いからこそ学歴を基準に他人を判断し、高学歴社は学歴にしがみつき、ますます自己否定の念を強めるのです。

才能を偏重する「才能論」も自己否定論と強く結びついています。
才能論や天才論は「努力して能力を高める自己」を否定することにより成立してるからです。
少なくとも、若い頃の私はそう思っていました。

早い話、戦後の日本人は心の何処かで自分達はアメリカ人より劣ってると思っている。
他ならぬ日本人が日本人を人種差別し貶めている。
そうした自己否定の念を抱えながら、戦後の日本人は生きてきたのではないか?
少なくとも、私には思い当たる節がありますし、それが自分だけの問題とも思えないのです。

彦坂尚嘉著『反覆』に収められた「李禹煥批判」は個人批判ではなく、個人を超えた普遍的内容を持ち、だから現在の私にも当てはまるのです。
ただし「日本人は自分達がアメリカ人より劣っていると、心のどこかで思っている」という意味の自己否定論は、この本には書かれておらず、私の思い付きに過ぎません。

「非人称芸術」とは何か?を考えると、その出発点に強烈な自己否定の念=劣等感を認めることができます。
そしてプラトン著『国家』によれば、個人の性質は国家の性質の反映であり、その意味で「自分だけがそうだ」と思い込むのではなく、「自分がそうなら皆んなもそうかもしれない」と疑ってみることも必要です。

「非人称芸術」に先立ち私は自分の何に絶望していたか?
一つは美術的な才能の無さでした。
しかし「才能」や「天才」といった概念は神話でしかなく、それ自体がいわば国民的な、自己否定の念の表れだと言えるかもしれません。
人々は自らの評価を貶め「才能」や「天才」の神話を生じさせ、私もこれに倣ったのです。

日本人にはチャレンジする前に自分には無理だと思って諦めていることがあります。
それは私自身がそうだったのです。
人は誰でも「哲学」することが可能ですが、大半の人は自らを過剰に低く貶め、チャレンジする前に断念するよう、仕向けられているのです。

フッサールによると哲学はあらゆる学問の基礎です。
なぜ哲学が基礎なのかと言えば、それが「自由」を得る術であるからです。
ですので哲学に基礎付けられない学問には「自由がない」のです。
自由がなく、家畜のように囚われの身のまま学問をしても、それは学問にはなりません。

学問だけでなく、哲学は生きること全ての基礎になる。
なぜなら哲学は「自由」を得る術だからです。
フッサールによれば、人は誰でも「生活世界」という檻に閉じ込められた家畜なのです。
いや「家畜」という言葉はフッサールは使ってませんが、これは沼正三SF小説家畜人ヤプー』の影響です。

家畜人ヤプー』の未来世界に描かれた日本人の末裔である「家畜」も、イギリス人の末裔である「貴族」も、共に「生活世界」という檻に囚われた「家畜」である事に変わりはありません。
「家畜」も「貴族」も、共に自らが疑い得ない「自明性」を生き、そこに閉じ止められている事が、この小説の読者には示されています。

あるいは、安部公房原作の映画『砂の女』ですが、そのラストは自分には印象的でした。
砂丘の中の「砂の家」に囚われの身となった男はやがて脱出を諦め、自ら発見した「海水から真水を得る技術」に夢中になります。
このラストはフッサールが批判した科学者の姿を現しているように思われるし、科学者に限らず誰もが「砂の家」に囚われているのです。

「芸術とは何か?」という哲学的な問いがないまま「芸術」としての行為をいくら積み重ねても虚しいだけです。
この点で私の「非人称芸術」は「芸術とは何か?」を自分の感覚に基づく自明性によって定義し積み重ねたために、ある時点で失速し行き詰まったのです。
しかし全てを無駄しない方法があります。

若いうちに「哲学」を学ぶチャンスがなかったことは、我ながら残念ですが、しかしそれに気付けば「哲学」は何時からでも学ぶことが出来るし、それが出来れば「これまでの積み重ね」も無駄にはなりません。
私が提唱した「非人称芸術」の意味や妥当性について、哲学的に問い直す出来るのです。

「時間と空間は、昨日死んだ」という言葉は、彦坂尚嘉著『反覆』に引用されたマリネッティ『未来派宣言』の一節ですが、私の「非人称芸術」は無自覚にこれを引き写していたのでした。
私が自著『フォトモー路上写真の新展開』(1999年工作舎)にて、「道に迷う感覚」の重要性を説いたのは、まさにその事でした。

私にとって重要だったのは「自己否定の反覆としての自己否定」で、それが「非人称芸術」という概念となって現れたのでした。
自分の「才能」に絶望していた私は、その絶望の反覆によって、これを新たな芸術の創造へと結びつけようとしたのです。
しかし着想としては悪くなかったものの、「足場」が悪かったのです。

「足場」を固めるとは、「芸術とは何か?」を哲学的に問うこと以外にはありません。
これに対し「足場」が悪い人は、「芸術とは何か?」を自分の感覚に基づき定義しているのであり、そのような状態は水中でもがいているに等しくやがて沈んでしまうのです。
そして、私は自分の感覚に於いて「芸術とは何か?」を定義し結果として神秘主義に陥っていたのです。

神秘主義によって、「生活世界を超越した何か」を感じ取ることは、それ自体は間違いではありません。
しかしそれでは手続きが悪く、不十分な結果に終わります。
神秘主義は哲学の代用品でしかなく、そのような手続きでは「生活世界を脱したい」というせっかくの意志が、適切に導かれないまま挫けてしまうのです。

神秘主義はいつの時代でも哲学の代用品でしかなく、これに惑わされてはいけないのです。
この意味で初期仏典「スッタニパータ」は、神秘主義を否定した「哲学」であったのです。
しかしこの「哲学」と言うことがなかなか万人に伝えることが難しく、それで「方便」としての神秘主義が仏教にも生じたのです。

「芸術とは何か?」を何も学ばない素朴な感覚で定義すると、必然的に神秘主義に陥り、それが「才能論」「天才神話」として現れます。
私も例外ではなく、「非人称芸術」も「才能論」をベースにしながらその「反覆」を目論んだのですが、その為に「神秘主義」の枠内から脱することも無かったのです。

そもそもフロイトも読まずに「非人称芸術」という概念を構築しようとしたこと自体に無理があったのです。
私の言う「非人称芸術」とは、フロイトの無意識論が、神秘主義的に道を踏み外したものに、過ぎなかったのかも知れません。
今の私は落ち着いて、フロイトラカンフッサールなどを読んでいるのですが、当時の自分は路線が違っていたのです。

私は『スターウォーズ・エピソード3』(2005年公開)の、ダークサイドに転ずるアナキン・スカイウォーカーに憧れていたのですが、「ジェダイ」という一つのものに「ライト」と「ダーク」二つの側面があり、くるっと反転するその事が、何かの寓意であることの予感だけはしていて、その事に強烈に惹かれていたのです。

今から思うと、スターウォーズに描かれたジェダイの「ライト」と「ダーク」二つの側面は、仏教で言うところの「大乗」と「小乗」を表していたのでした。
もちろん正義のジェダイ大乗仏教で、原初的な少数派を「ダークサイド」あるいは「小乗」という言葉で蔑み排除するのです。

私はもちろん仏教徒ではありませんでしたが、当時の私の「入門書」で哲学や現代思想を学ぼうとするその態度が「大乗仏教的」であったと言えるのです。
そして私はあるときから「小乗」に転じ、初期仏典『スッタニパータ』やソクラテス諸子百家などの古典を読むようになったのです。
そして、スターウォーズに描かれた寓意の意味も理解し、自分がなぜこれに惹かれていたかも判明したのです。

スターウォーズが描く、ライトとダーク二つの側面を持つジェダイとは、大乗と小乗の二つの側面を持つ仏教の寓意でした。
そして仏教とは宗教ではなく哲学であり、それは「仏教哲学」ではなく「哲学」そのものなのでした。
つまり哲学の小乗的側面が「哲学」であり、哲学の大乗的側面が「宗教」であり「神秘主義」なのです。

私の非人称芸術が神秘主義に陥っていたのは、哲学の大乗的側面である「宗教」に陥っていた事と同意で、これは実に一般的な間違いに過ぎませんでした。
ですから私はスターウォーズの寓意に導かれ、哲学の大乗から小乗へと転化し、自分には無理だと信じていた「哲学」が、自分にも可能である事を理解したのです。