物質と痛み

生活と学問における自然的態度の思考、すなわち認識の可能性のいろいろな難問題には無頓着な思考と認識の可能性の諸問題に対する立場によって規定される哲学的思考。#フッサール 現象学の理念

 

実在について論じたように、物体というも我々の意識現象を離れて別に独立の実在を知り得るのではない。我々に与えられたる直接経験の事実はただこの意識現象あるのみである。空間といい、時間といい、物力といい皆この事実を統一説明する為に設けられたる概念にすぎない。#西田幾多郎 善の研究

西田幾多郎フッサールが言うように、我々は自分が慣れ親しんだ認識を、慣れ親しんでいるという理由によって信頼し過ぎている。いくら自分が慣れ親しんでいるからといって、その認識は「正しい」とは言えない。

慣れ親しんだ人を「自分が慣れ親しんでいる」と言う理由で信用する人は、簡単に詐欺師に騙される。同じように、人は自分が慣れ親しんだ認識に騙され、嘘の世界を生きる。

物体は存在しない。いや少なくとも、私が素朴に「物体は存在する」と認識するようには存在しない。物体は精神の外部に存在し、私の精神が、その外部の物体を認識するのではない。物質とは即精神現象であり、精神現象として物質は存在する。

物質は、私に対し殺傷力を備えている。つまり、目の前の石ころがいくら精神現象であっても、それを私に向かって投げてぶつけられたなら、私は実際的に傷付けられるか、さもなくば死んでしまう。

精神現象にすぎないはずの石ころを自分にぶつけられると、なぜ物理的ダメージを自分は受けるのか?と言えば、石をぶつけられて痛い思いをしたり怪我をすること自体が、精神現象なのである。それで言えば精神現象が消滅する死も、精神現象だと言える。

目の前の石ころが、素朴な認識において、自分の精神の外部に実在するかのごとく認識されるのは、実に「恐怖」によるところ大ではないだろうか?あらゆる物質は自分を傷つけ死に至らしめる可能性を持つ。その恐怖が、物質の実在性を自分に信じさせる。一般に恐怖は人の認識力を萎縮させるのである。

恐怖が、人の認識力を萎縮させている。自分が慣れ親しんだ認識に慣れ親しんでいる、と言うことも、恐怖を和らげているのである。物質に対する恐怖が、物質に対する認識を錯誤させている。死の恐怖を克服しなければ、哲学的認識は得られない。

自動車にぶつかれば死んでしまうし、ビルの屋上から飛び降りても死んでしまう。そのような素朴な恐怖が、自分に物質の素朴な実在をまことしやかなものとして信じさせるのである。

人は死の恐怖に取り憑かれるあまり、物質に対する根本的認識を取り違えている。

物質が素朴に「ある」と思えてしまうのは、痛みへの恐怖がそのようにさせている。例えば転んで地面に倒れると「痛い」と感じるだろうと、ありありと想像できるが故に、硬い地面が物質として「ある」ようにリアルに感じられるのである。

石をぶつけられると「痛い」からこそ、石が「ある」ように感じられ、包丁で切られると「痛い」からこそ包丁が「ある」ように感じられる。しかし、この「痛み」自体は、存在ではなく主観的な感覚なのである。

「痛み」は実在しない。しかし、実在しない痛みは、実在する「物質」によって引き起こされる。そして、実在しない痛みが、物質が実在する証拠として扱われるのである。

多くの人は「痛み」を避けながら生きている。もし「痛み」が生じてしまった場合には、その痛みが「消える」ことを願って、そのために最大限の努力を行おうとする。

人にとって「痛み」の存在感はとてつもなく大きい。痛みは物質として存在しないのは明白だが、非常に大きな存在感を有しているのもまた確かである。

ここで還元主義の立場を取るならば、物質の存在感は、痛みの存在感へと還元可能である。つまり、物質は痛みと同じように存在するのではなく、存在感だけがあるのである。

物質は存在しないが、物質には存在感がある。それは、痛みは存在しないが、痛みには存在感があることと同一である。なぜなら物質の存在感は、痛みの存在感が原因で生じているのである。

映画を見て、それが映像にすぎないことが理解できるのは、映画の映像からは「痛み」が生じないからである。映画の中の石ころが自分に向かって投げつけられても、映像の石ころは自分の実際の痛みの原因とはならない。つまり人は自らに生じる痛みの可能によって、物質と非物質を見分けている。絵に描かれた石ころや、写真に撮られた石ころにも、同じことが言える。

いかに痛みに存在感があろうとも、それを物質と同じ存在とはみなされないのは、他人の痛みは自分の痛みの原因にはなり得ないからである。あるいは自分の手の痛みが、自分の足の痛みの原因となることもない。自分の足の痛みに触れると、その触れた手に痛みが生じることはなく、痛みは物質と区別される。

痛みは物質ではなく、肉体的現象であり、精神現象である。肉体的現象というのは、痛みは自分の身体以外を傷付けても生じず、自分の身体を傷付けた時にのみ痛みは生じることを指す。また身体の部位によっても痛みの生じ方が異なる。

痛みは自分の精神にのみ生じる精神現象である。自分の感じる痛みは、直接的には他人と共有することができず、その逆に他人の痛みは直接的には自分と共有ができない。

物質の存在もまた、痛みと同じように肉体的現象であり精神現象だということができる。目に見える物質は、目という肉体的部位に生じており、その証拠に手をつぶると物質の姿は消え去る。また手で触れる物質の存在感は、手という肉体的部位に生じる。

手で物質の姿を見ることができないのと同様、目で物質の質感を直接に確かめる事は出来ない。そのように物質は、人間の身体部位に固有の現象として生じ、その点で「痛み」と同様なのである。

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