アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

戦争と思考

マキャヴェッリは、君主たる者は平和な時であっても常に戦争について考えねばならない、と説いているが、民主主義社会においては庶民がすなわち君主でもあるので、我々も平和な時代にあって戦争について常に考えねばならないのだが、実際にはそうなっていない。

戦後の日本人は戦争とな何か?という思考を奪われており、民主主義における君主の特権を奪われている。戦争について思考することが宗教的禁忌となり、自ら君主たる主体性を去勢してしまっている。

戦争とは何か?を根源的に言えばあらゆる生物は生存競争をしており、これがすなわち戦争なのである。だから人間は、同種の人間同士より以前に、多種の生物との間に戦争状態にある。そして現代文明とは、人間があらゆる生物との戦争において効率的に勝利し続ける状態を指している。

人間はトラやライオンとの戦争に勝利し彼らの生存を脅かし、ウシやブタとの戦争に常に勝利し彼らの肉を搾取しているのである。そもそも人間は、他種生物との戦争に勝利し続けなければ生き延びることはできず、その点は他のあらゆる生物種と同じなのである。

人間以外の動物の認識力は、人間の戦争における認識の仕方に似ている。山本七平によると戦争中の偵察部隊は「敵機発見!」とは言わず「◯時の方角に飛行物体の接近を確認」と言うように、余計な意味付けをせずに「見たまま」を報告する。

最近のニュースでも「北朝鮮がミサイルを発射」ではなく「北朝鮮から飛翔体が発射されたのを確認」と表現する。軍事における認識に余計な意味付けは一切不要で、純粋に「見たまま」の報告が求められる。それは一方で人間の認識を動物レベルに退化させることが軍事において必要である事を意味している。

動物の認識とは、例えばカエルは獲物の「動き」だけを純粋に認識し、その獲物が何であるかと言う余計な意味付けは一切しない。そして現に自分が察知した「動き」に向けて舌を伸ばすと、かなりの確率で食べ物を摂取することができるのである。人間の軍事における認識はこれと良く似ているのである。

人間以外の動物は認識において余計な意味付けをしない。逆に言えば人間だけが「言語」を使用し、認識に認識した内容以上の意味を与える。人間以外の動物は言語を介して認識しない。そしてそれこそが、ラカンの言う「現実界」の一側面なのである。

言語を使用しない動物は「現実界」に生きる。人間にも言語を使用しない現実界の領域が存在する。例えば人がリンゴを食べようと思って食べると、その一連の動作には「言語」による判断が含まれる。ところがリンゴが体内に取り込まれると、それは「言語」の領域から離れる。

もし、体内に取り込まれたリンゴが毒であったら、それは現実的に毒として人体に害をなし、本物のリンゴであれば現実的に栄養として体内に取り込まれる。このように自然の領域とは物理法則が支配する領域であり、言語と支配が及ばない現実界であると言える。

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@LateWafer 思考方法の問題なのですが「戦争とは何か?」「言語とは何か?」「美術とは何か?」など考える際、人間にだけそれらが備わっているのはヘンだと捉え、それらの起源を人間以外の生物の中に求めようとしてるのです。人間も生物ですから、生物学的枠組みで文化的事象も捉えられるのではないかと思うのです。

まず「なぜ人間は戦争をするのか?」という問題があり、そして「そもそも人間以外の生物も戦争をしてるのでは?」と言うことに思い当たった訳です。確かに光合成する植物は違いますが、動物は他の生物を殺して食べなければ自分が生き延びられず、日々殺し合いをしており、人間も例外ではないのです。

動物の生存のための殺し合いと、人間の戦争は何が違うのか?人間という同種間の殺し合いと言うことでは、生物の生存目的は種の保存ではなく、利己的な遺伝子の保存であると言うリチャード・ドーキンスの観点から、人間以外でも共食いなど殺し合いをする種のいることが説明可能です。
大量殺戮が人間の戦争の特徴なのかと言えば、それは人間はそれが可能な技術を持っているからだと言う、付随的な理由に過ぎず、原始時代の人間はそうした技術を持っておらず、人間同士の大量殺戮の痕跡も確認できていないと言われてます。

それでは動物が殺戮だけをしてるのか?と言えばそうではなく、異種同士の動物で仲良くじゃれ合っている映像がネットでは度々アップされてるのが見られます。

感情と思考

マキャヴェッリの『君主論』を君主でもない一般人がなぜ読まなければならないのか?と言えば、現代日本は民主主義社会であり、文字通りに言えば人は誰でも庶民であると同時に君主なのであり、だから『君主論』や古代中国の帝王学である諸子百家などを読む必要があるし、実際的に役立つのである。

マキャヴェッリは君主たる者他人に見くびられてはならず、恐れられなければならない、と説いている。そして私は「フォトモ」という技法が他人に見くびられやすい手法であると、自分には思えたこともあって、自分なりに勉強して理論武装に努めてきたが、今振り返るとこれは対外的にほとんど無意味だった。

分かってきたのは、日本社会で評価されるのはまず学歴の高い人間で、さらに高学歴でありながら実際には無能な人間が、人々には最も喜ばれるのである。一方ではその逆に、低学歴でありながら高い能力を有する人間は、非常に忌むべき対象として徹底的に排除されるのが、日本社会の特徴でもある。

現代の日本人の多くは「無宗教」を自称しながら宗教というものを対象化せず、その結果、日本固有の宗教にどっぷり浸りながら、そのことが自覚できないでいる。

そのような観点からすれば、多くの日本人は実に「神」というものを非常に畏れている。そして一般的に日本人にとって「学歴」とは神が与えし神聖なもののように捉えられており、だからこそ高学歴者が実際的に無能であった場合、人々に信頼と共に安心を与え、大いに喜ばれる。

この反対に、学歴がないのに高い能力を発揮せる人間は、神の領域を侵した者として非常に忌み嫌われる。これはひとえに日本人に固有の宗教観によるものであり、日本人が自らの宗教を対象化できないことに起因しているのである。

例えばキリスト教以外に宗教が存在しなかった時代のヨーロッパにおいて、宗教そのものが対象化されることはなかった。宗教の対象化とは、異なる宗教との比較によって可能となるからである。その意味で現代の日本社会は宗教的には近代化しておらず、まるで中世のようだと言うことが出来る。

現代の日本社会には固有の宗教的禁忌があるにも関わらず、多くの人はそれを自覚せず、その意味で極めて宗教的な社会であると言える。

多くの日本人は「神はいない」と口では言いながら、その実さまざまな神を畏れこれに縛られている。これまで判明しているひとつが「原理」をもたらしてくれる外国人の神であり、もうひとつが学歴を授けてくれる神である。多くの日本人はこのような神に絶対に逆らうことはしないのである。

自分のことを反省的に捉えると、自明性の問題は神の問題とダイレクトに結び付いているのかもしれない。山本七平は宗教の問題を宗教的禁忌の側面から捉えてみせてくれたが、あらゆる宗教には食物禁忌があり、無宗教のはずの日本もそれは例外ではない。

無宗教であるはずの現代日本にも食物禁忌は存在する。イヌやネコやカラスなどを食べることを日本人の大半が忌み嫌っているが、一方では同等の知性を持つ豚や牛も食べるし、カラスと同様に鳥類であるニワトリやカモも食べるので理屈には合わない。

そのように、冷静に考えて理屈に合わない禁忌について、山本七平はそれは宗教的な問題であると指摘したのである。言い換えればこれは自明性の問題であって、自明性の問題は実に宗教的な問題なのである。

自明性とはそこから先は思考が及ばない領域を指しているのであり、思考が及ばない領域は宗教の領域である、とは言えないだろうか。

思考が及ばない領域を侵犯すると、人は感情的に反応する。だから多くの日本人はイヌやネコを食べる人に対し感情的になり、同様に本来は外国からもたらされるべき「原理」を日本人が考案することに対し感情的になり、また低学歴の者が高い知性を示すことに対し感情的になるのである。

人にはそれぞれに思考が及ばない領域が存在する。しかし一方で人は思考する存在であり、その意味で思考が及ばない領域を突き崩しながら、思考の領域を広げていかなければならない。しかし思考の及ばない領域を侵犯すると人は感情的に反応し、ここに矛盾が生じ、一般に哲学が嫌われる理由もここにある。

つまり宗教的禁忌、考えてはいけない領域を侵犯しながら思考の領域を広げて行くのが哲学であり、その意味でフロイト最晩年の著作『モーセ一神教』では、ユダヤ人であるフロイト自身が宗教的禁忌に抗し「考えてはならない領域」に真正面から斬り込んでいる。

 

原理創出と宗教禁忌

交渉というものは、一つには相手の願望をよく理解し、それを実現させてやるように、ことを運ばなくてはならない。例えば、相手が仕事の達成よりも、自分のプライドの維持を優先しているのであれば、それをまず満たしてやることが重要となる。

つまり、仕事の達成よりも自己のプライドの維持を優先する人は、そもそも能力のない人であり、それを誤魔化しながら生きているのである。そのような相手と、仕事の達成を最優先に仕事を進めようとする場合、先ず指摘しなければならないのは、仕事の弊害となるその人の無能さである。

しかしそのように事をまともに考えても、現実に仕事は進まないのである。仕事の相手が無能だからといって、上の者にそれを言って交換してもらえるのならまだしも、そうでない場合は先ず自分が相手の無能さに合わせ、プライドの維持という願望を満たしてやる必要がある。

結局のところ、どのような仕事であっても、それを遂行するために自分が太鼓持ちにならなければならない、という側面がある。それは仕事をする上で、チームに一定以上の割合で無能者が不可避的に含まれるからであり、そのような無能者にある程度の権限を与えられることがしばしばあるからである。

それは文明社会というものが、ハンブラビ法典を読めば分かる通り、根源的に弱者救済の側面を持っているからである。だから組織というものは官であっても民であっても一定の割合で弱者=無能者を含み、そのように本来であれば組織にとって有害な無能者を、組織を上げて保護する構造として機能するのである。

例えば小学校の担任に無能な教師が就いてしまった場合、基本的に児童は諦めなければならない。子供が文句を言ったからとしても、そう簡単に担任を変えることはできない。また、自分だけがその教師の無能さを見抜いたとしても、他の子供や先生たちには全く理解されないという場合もある。

それは学校というのは単なる例えで、どの組織も同じなのだが、組織内の人間は、同じ組織の無能な人間の無能さを、あえて見ないようにする傾向がある。仲間の無能さから目を背けることで、組織を弱者保護の組織として機能させているのである。

組織の中で変わらないのは一つには上下関係である。例えばいかに無能者であっても、その人が上司であればその立場は変わらない。能力の有無と、組織内での上下関係は全く別の要素として作用し、そこに様々な矛盾が生じて社会を難しいものにしている。

もし仕事上で自分より上の立場の者の無能さを指摘してしまった場合、相手は先ず図星を突かれて狼狽するであろう。無能な人は自分の無能さを心の底では知っており、しかしそれを誤魔化しながら生きているからである。

自分より格下の者から無能を指摘された無能者は、それをごまかすために必死になり、いかに自分が上の立場の人間であるかを過剰にアピールし、それが仕事上まったく無意味な嫌がらせとして生じるのである。

こうした場合、仕事上の上下関係は変わらないのであるから、立場が下の者は、立場が下の者に対する理不尽な行いに耐えるしかなく、もっと言えば寛容に受け入れてやることが肝要なのである。

ハンブラビ法典を見て分かるように、文明社会には弱者救済の社会主義的な側面がある。そして日本文明には聖徳太子の十七条憲法に「和を以て貴しとなす」「人皆党あり、優れる者少なし」とあるように、原初の社会主義的側面が色濃く受け継がれているように思える。

これはともすれば「足の引っ張り合い」「出る杭は打たれる」として作用するのだが、しかし実際を見れば日本文明は諸文明に対して一定レベル以上の発展を遂げている。

ともかく江戸時代の日本には同時代の中国や朝鮮になかった社会主義的な一枚岩の社会構造があり、それにより英国由来の産業革命を成し遂げた。日本に特有の産業革命は現代に至るまで変わらず、欧米で発明されたものの改良によって成り立っている。

つまり、十七条憲法の「人皆党あり、優れる者少なし」の言葉通り、何か新しい発明をするような「優れた頭脳」は日本国外へと排除し、「他者の発明の改良」という「優れた頭脳に準ずる頭脳」によって産業革命を推進し、それによって「和を以て貴しとなす」を実現し文明国として一定レベルを保っている。

人類の最も優れた頭脳の一つに「原理の創出」があるが、日本文明の場合その「原理の創出」を海外に委託し、国内では専ら優れた頭脳に準ずる「原理の応用」に勤しんでいる。であるから日本国内で「原理の創出」をした者は批判されるどころか忌み嫌わられ徹底して排除される。

「原理の創出」は日本人にとってそれは神の領域に触れる「宗教的禁忌」であって、つまり日本人にとって外国人は神であり、あらゆる原理は神である外国人によって日本国内にもたらされる、そのような側面がある。これは理屈には合わないが、感覚的にそのように捉えられているのである。

日本において「原理の創出」をすると他の人々から非常に恐れられ、排除されてしまう。それは日本人にとってあらゆる原理は外国から日本へともたらされるのが当たり前であり、日本人自身が何か原理を創出することなど「全く思いもよらない」からである。

日本人は飛び抜けて優れた日本人を素直に評価することができず、そのような人は恐怖と禁忌の対象となる。別の言い方をすれば、一般に人は知らないものに恐怖する。外国からもたらされた原理は外国においては知られているものであるから、日本人は怖がらずに受け入れることができる。

日本古来の「和を以て貴しとなす」「人皆党あり、優れるもの少なし」には良い面もあって、これによって英国由来の産業革命を日本でも成し遂げることができた。つまり日本に欧米から近代化の波が押し寄せた同時期の清国や朝鮮では社会の階層分裂が激し過ぎて、国や民族を挙げてこれに対応できなかった。

「人皆党あり、優れる者少なし」も足の引っ張り合いだけを意味しているのではない。実際的に組織の中で出世するのは個人の実力よりシステムによるところが大きいのである。従って上の者も下の者も人間としての本質は同等なのである。

だから組織の上の者は付け上がることなく、下の者は卑屈にならず、また上の者は下の者の心情を察して思いやり、下の者も上の者の心情を察して思いやることができる。組織内での上下を人間の価値の本質にまで結びつけると、社会が階層分裂し環境変化に適応できなくなる。

領民の武装力を解除してしまうと、あなたは領民の心を傷つける事になる。そして、領民が臆病な為か、忠誠に欠けている為に、彼らを信用していないということを表した事になる。どちらの場合にせよ、彼らはあなたに憎しみを抱く事になる。そして、君主は無防備のままでいるわけにはいかなくなる。

マキャヴェッリ 君主論 抜き書き3

●大衆はつねに、外見いかんによって、また出来事の結果だけで評価してしまうものである。しかもこの世の中には大衆しかいないのであり、この大多数の者が腰を落ちつけている場所に、少数の者が割りこむ余地はないのである。

人は、必要に迫られて善人となっているのであって、そうでなければ、あなたに対してきまって悪事を働くであろうから。

上天気の日に嵐のことなど思ってもみないのは人間共通の弱点であって、彼らも平穏な時代に風向きの変わることを考えなかったのである。そのため、いざ雲行きがあやしくなってくると、ただ逃げることを考えて、自分を守ることなど考えなかったのである。

 

マキャベッリ『君主論』抜き書き1

 

これにつけても、覚えておきたいのは、民衆というものは、頭を撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならないことである。というのは、人はささいな侮辱に対しては復讐しようとするが、大きな侮辱に対しては復讐しえないからである。したがって、人に危害を加えるときは、復讐のおそれがないように行なわなければならない。

 

武装せる予言者はみな勝利を占め、備えのない予言者は滅びる。それは民衆の性質が変わりやすいことにもよる。つまり、民衆にあることを説得するのは容易だが、説得されたままの状態に民衆をいつまでも引きとめておくことはむずかしい。だから、民衆がことばを聞かなくなったら、力をもって信じさせるような対策を講じなければならない。

量と時間

マキャベリの「君主論」読んでるが、ここで言われる「力量」と「運」について、力量とは一つには翻訳の文字通り「量」であり、それは時間の量である。個人の知力は無限に増大させることは不可能で、それは「寿命」により制限されている。つまり知力の増大には時間がかかるのであり知力はその増大のためにかけた時間に比例する。

ポスト科学と総合性

英語のscience(科学)の語源はラテン語のscientia(知識)であり、scientia(スキエンティア)はscio(スキオー=知る)の派生語である 。と言うことだが、scienceを科学と訳したのはそれがあらゆる事物を「科」に分けて捉える学問であるからで、名訳である。

近代とは科学の時代であり、何でも細かくカテゴリー分けすれば、効率的とされた時代である。そこでポスト近代とは、科学への反省であり、カテゴリーを横断する総合性の復権であり、それが例えば80年代末から90年代初頭にかけての博物学の再評価捉える復権にも現れている。

ポスト近代、ポスト科学の時代はすべての科学的なカテゴライズが否定されたのではなく、カテゴライズとカテゴライズを否定した綜合性とが混在している。例えばスマホやパソコンは科学技術をベースとしながら、科学的なカテゴライズを超えた総合性を有し、デジカメなど単機能機械の存在を脅かしている。